やっぱり。ジェイミーはため息をついてそう言った。
「きみのことがきっかけだろうが何だろうが、事実として奴はヨコハマにドラッグをまいた」
 鼻をすする。ジェイミーはわたしの身体を撫でながら、言い含めるように耳元で小さな声で囁く。
「ここを汚した罰は受けなくちゃいけない。レイラ、分かって」
「……」
「さあ、コーヒーを飲んでしまって。じきにモニカが来る」
 わたしの手から冷えたシュガートーストを奪い、代わりにカップを握らせる。立ち上がり、シャツのカフスボタンを留めながら、ジェイミーは寝室を出て行った。残されたわたしは、ぬるくなったコーヒーをひと口飲んでミニテーブルにカップを置いた。
 膝を抱えた。ぐるぐると考えるけれど答えは出ないままだ。そもそも何の答えを出そうとしているのかも曖昧だった。
 人は所詮人形になんてなれない。わたしの心は十四歳で時を止めたまま、葛藤の渦に飲み込まれている。わたしは結局、目に見えるものしか見えていなかった。見えないものなんてあってもなくても一緒だったのは、わたしのほうだった。
 半開きのドアから、モニカが顔を出す。
「レイラ。行くわよ」
「……ええ」
 涙は出ていないと思ったけれど一応目尻を着ていた服の袖で拭い、立ち上がる。ジェイミーはすでにアダムのところへ行ったらしい、姿が見えない。
 エレベーターに乗り込んでモニカがキーパッドを操作する。
「病院は、外なの?」
「そうね。一応このビル内にもクリニックはあるけど、頭の精密検査をするには施設が不十分。ちょっと行ったところの総合病院に向かう予定よ」
「……そう」
 わたしの前から姿を消す前と、まるで同じ態度だ。ちょっとつんけんしていて、わたしに好意を抱いていないだろうと丸分かりの、取ってつけたような愛想。前に立つモニカの後ろ姿をじっと観察する。見えない場所に傷をつけられたとか、そういうことはないんだろうか。
「……ねえ、モニカ」
「何?」
「…………ごめんなさい」
 下降する箱の中で、モニカが怪訝そうに振り返る。訝しげに眉を寄せているモニカの手にそっと触れる。
「わたし、あの日言い過ぎたわ」
「何も気にすることはないのよ、あなたは」
「でも、モニカ、ジェイミーにひどいことをされたでしょう?」
「そうね、あなたが想像しているよりずっとひどいことを」
 なんてことないような顔で、モニカは短くため息をついた。ジェイミーはやっぱり、彼女にわたしには想像もつかないようなひどいことをしたのだ。アダムを傷つけないという約束をしなかった彼を思い出す。背筋がふるりと震えた。彼は簡単に人を傷つける。あっさりと、道を這う蟻を何気なく踏み潰すように、何事もなかったかのように。
「でも、レイラ、よく聞いて」
「……?」
「私はあなたがどうしても羨ましかった」
 モニカが、わたしを?
 理由は瞬時に浮かんだけれど、モニカは笑ってわたしの頭の中が見えているかのように否定した。
「別にジェイミーのことは関係ないの」
「え……?」
「私は単純に、あなたの純粋さが羨ましい」
 ふと、マスカラで飾られた長い睫毛がモニカの頬に翳りを落とす。ベージュの肌にその黒い睫毛はよく映えて、もともとの骨格がきれいだから化粧映えする顔なのね、と場違いなことを考えた。
「ジェイミーや私を堂々と糾弾できるその純粋さがね」
「……」
「さあ、行くわよ。車に乗って」
 エレベーターが地下の駐車場で停まった。モニカに促されるまま用意されていた車に乗り込む。病院までの短い道のりは、ビル街を進むだけだったけれど、朝陽を浴びて光る街並みがわたしには眩しくて、じっと見ていた。
「着いたわ」
 病院の裏口から入ったせいか、ひとけがあまりなかったけれど、まったく人に会わないわけじゃない。医者はいるし、入院している患者もいる。ジェイミーやモニカ以外の人が、「生活」している。よく考えれば、わたしはジェイミーたちが「生活」しているところを見たことがない、と思った。
 結局、検査の結果脳に異常はなくて、付き添ってくれていたモニカがジェイミーに連絡を取ってそれを伝えていた。車に乗り込んで、摩天楼まで戻る途中でモニカがふうとため息をつく。
「ジェイミーも一安心ね」
「……ねえ、モニカ」
「何?」
「見えないものって、あってもなくても一緒だと思う?」
 わたしのなぞなぞのような問いかけに、モニカは少し黙して考えた。外の景色がかすかに夕焼けで色づいている。
 彼女は、わたしを黒曜石のようなきらきら輝く瞳でじっと見つめて言った。
「見えないものに気づいてしまったら、一緒ではないわね」

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