わたしを抱えたまま、ジェイミーは歩き出す。小さなビルの何階かのようだった。彼はわたしを抱えたまま器用に階段を下りて、ビルを出る。ビルの出入口すぐにつけられていた車にわたしを押し込めて、となりに乗り込んだ。
 動き出した車の窓の外を見る。六年ぶりのヨコハマの景色は、きっといろいろビルが建ったり潰れたりとこまごま変わっているのだろうけれど、大した違いはなくて、でも六年ぶりの世界はわたしを夢中にさせた。頭が痛いのも忘れて、窓に顔をくっつけて食い入るように見つめる。もうすぐ夏になる、そんな空気。
「……」
 ジェイミーは、そんなわたしに気づいているのだろうけれど、見るなとも何も言わなかった。
 この街のどこかで、誰かが誰かを好きになったり嫌いになったりしている。不自由で自由な街。耳を澄ませば街の呼吸が聞こえてきそうなくらいに眺めて、夕暮れに染まっていくビル群をぼうっと見上げた。
 やがて車は摩天楼の地下駐車場に吸い込まれていく。ふっと暗くなった視界に、ああ、と思う。
 車がパーキングに停まっても、ジェイミーはじっと何かを考え込んで、動かなかった。運転手が促して、ようやく顔を上げる。
「ああ、ご苦労」
 車を降りて、わたしを引っ張り出してまた抱き上げる。鳥籠に連れて行かれると思ったけれど、ジェイミーはエレベーターに乗り込んだ。不思議に思ってジェイミーを見上げると、眉を下げてわたしの額にキスをした。
「今夜は、俺の部屋にいてくれ。警備のおろそかな鳥籠は不安だ」
「……」
 エレベーターはぐんぐん上昇していく。そして、とある階で停まり、ジェイミーとわたしを吐き出した。
 ジェイミーの部屋は、思っていたよりずっと広かった。ワンフロアをぶち抜いたかのような広さのリビングにアイランド式のキッチン、そしておそらく寝室に続くドア。ソファとテレビ以外には、何もない。そして、一面硝子張りの窓からは、六年前のあの日バーで見たのと似たようなヨコハマの景色が一望できた。
 ジェイミーはわたしをソファに座らせて、手前にしゃがみ込む。
「医者がもうすぐ来るから、痛いのを少しの間我慢できる?」
 頷く。
「軽い脳震盪だとは思うけど……一応精密検査も受けてもらう」
 もう一度頷く。そんなことよりも、眼下に広がる景色のほうが気になった。まだ、少なくとも今晩だけはこの宝石みたいな街を見ていられる。
 モニカが連れてきた医者は、初老の女の人だった。優しい手つきでわたしの頭の怪我を診て、問題はなさそうだけれど一応精密検査を、とジェイミーと同じようなことを言った。
 そのまま、医者を連れ帰ろうとするモニカの背中に叫ぶ。
「モニカ!」
「……?」
 振り向いたモニカには、怪我の痕などは見られないみたいで、なんだ、ジェイミーはモニカにひどいことをしたわけじゃないのね、と少しだけ安心した。そしてモニカがここにいるということは、彼女が彼を裏切ったわけでもない。
「……おやすみ」
 かろうじてそれだけ伝えると、モニカは眉を上げてふんと鼻を鳴らした。
「おやすみなさい。いい夢を」
 モニカと医者が出て行って、部屋にはわたしとジェイミーが残された。わたしは、窓辺に貼りついてじっと夜の色に染まる街を見ている。眠らない街、と誰もが表現するように、もうきっと夜遅いのに明かりは消えない。
「レイラ。そろそろ寝る時間だ」
「……ええ」
 寝室は、鳥籠とは正反対の、黒を基調にしたリネン類でまとめられていた。ベッドに座り込むと、ジェイミーがネクタイを緩めてわたしの頬に触れた。
「ごめんね、怖い目に遭わせて……」
「……いいの、大丈夫」
 ちゅっと音を立ててジェイミーがわたしの唇をついばむ。何度か浅くくちづけて、舌が侵入してくる。それを素直にされるがままに受け入れて、ジェイミーのシャツの袖を握り締めた。そのまま、このキスは永遠に続くんじゃないかってくらい、彼は飽きずにわたしの唇を貪った。ふと唇が離れていくその一瞬に深く息を吸うと、ジェイミーはほとんど唇をくっつけたまま囁いた。
「レイラ、愛しているよ」
「……」
 その愛にわたしが言葉を返すことはない。そんなの、ジェイミーだって分かっているくせに、なぜそんなにも悲しそうな顔をするの?
 泣く寸前のこどものように顔をくちゃくちゃに歪め、彼はわたしをベッドに寝かせた。
「もし頭に何か影響があるといけないから、今日はやめておこうと思うけど……」
「……けど?」
 ジェイミーの鋭い瞳が、わたしの身体を舐めるように見下ろす。まるで人を殺したときみたいな顔をしている。
 そのままジェイミーは、わたしの身体を少しだけもてあそんだ。中に入ってくることはなかったけれど、指で触れ、舌で舐めて胸元にキスマークを数個、刻んだ。
「さあ、眠って。俺の可愛いレイラ」
 額を撫でられて、わたしは荒い呼吸をそのままに素直に瞼を下ろす。しっとりとした空気が寝室を覆っている。この部屋はそこかしこからジェイミーの匂いがする。
 ゆったりと頭を撫でている手の感覚をいつの間にか感じなくなって、わたしは、知らないうちに眠りに落ちていた。

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