「……やだ」
 爪の中に、さっきすくったクリームチークが入ってしまっているのを綿棒で掻き出しながら、わたしはわたしが五年前に決意したことを思い出す。
 十五歳の誕生日、わたしは彼がマフィアのボスだと知った。
 彼は人を殺すと言った。
 わたしは、当初の覚悟通り、彼の思惑通りに動く人形になろうと誓った。
「お風呂入ろうかな……」
 メイクも、クレンジングミルクで落としたいし、そろそろ夕刻だ。モニカが夕食を持ってくるまでに入浴を済ませておきたい。
 猫脚のバスタブにお湯を溜めながら、メイクを落として、着ていたパステルカラーのもこもこした部屋着を脱いで裸になる。長い髪の毛を後頭部でひとまとめに団子にして、鏡に自分の裸を映した。
 骨っぽいラインはそのままに、それなりに肉のついた身体。身長もだいぶ伸びた。この間ジェイミーにメジャーで測ってもらったら、百六十五センチとちょっとくらい、と言われた。
 自分で言うのもなんだけど、顔つきも大人びた。何も知らない十四歳は、何も知らないなりに捻じ曲がり、ハタチになった。
 レイラ。
 鏡の中の自分に呼びかける。
 あのね、身体も唇も、全部彼にあげていいわ。もちろん必要なら髪の毛も爪痕も、笑顔も泣き顔も全部よ。そう、心以外は。
 彼が求めるなら、どんな恥ずかしい要求にも応えてあげるし、さっきみたいなおざなりなキスもしてあげる。でも心だけは駄目。
 ジェイミーが望む結末通りになんかさせてあげない。わたしは絶対に彼を許さない。
 今更ジェイミーに人を殺すな、まっとうな道を歩け、そんなことを言っても仕方ない。彼をそのことで責めても何にもならない。それに気づいたからしないだけだ。実際わたしが彼のことをどう思っているかなんて、彼が知る必要はない。
 六年という歳月は、この鳥籠の中ではゆったりと、でもひどくせわしなく過ぎていった。わたしは何度も、小説に出てくる架空の登場人物に恋をした。現実には存在しない相手に恋をするのは最高に不毛だし、ちょっとむなしい。でも、そうしていないとわたしの張りつめた気持ちは到底宥めることができないのだ。ちょっと針でつつけばすぐに破裂してしまいそうな気持ちをごまかすのに、恋は手っ取り早かった。
 小説では描き切られない裏側で、彼らがどんなことを考えて何を食べて誰と街を歩いているのか想像するだけで、ふっとうしそうな気持ちが少し冷めていくのだ。
 お湯をなみなみと溜めて、身を清めバスタブに沈む。結った髪の毛から垂れた後れ毛がお湯の表面を浮遊して泳ぐ。ジェイミーが脚を伸ばせるくらいに大きなバスタブを、わたしはちょっと持て余している。だってジェイミーは大きい。
 のぼせるくらいまでお風呂を楽しんで、脱衣所でネグリジェに着替えて部屋に戻る。ドレッサーに置いてあるスキンケア用品に手を伸ばしてせっせと手入れをしていると、扉が開いた。
「夕食よ」
「ありがとう」
 モニカが持ってきたのは、ボロネーゼだった。わたしは最初、ボロネーゼとミートソースの細やかかつどうでもよさそうな違いが分からなくて、これをミートソースと呼んでいた。
 フォークを手に取り、平べったい麺をくるくると巻く。食べながら、わたしはモニカに問いかける。
「ねえ、モニカ」
「何?」
「わたしハタチになったのよね……」
「そうね、おめでとう」
 相変わらず、おめでとうなんて欠片も思っていなさそうな儀礼的な言葉も、もうわたしの心には響かない。モニカはずっとこうだ、いつもわたしに対して、ウィットに富んだ会話をしてくれるけれど、決してわたしを好きじゃない。

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