「じゃあ、もうひとつお願いがあるの」
「うん」
「ピーター・ラビットの絵本を揃えて」
「ピーター・ラビット?」
 小説でも漫画でもなく、絵本を要求してきたレイラに、若干の戸惑いを覚える。俺が困っていると、彼女はたたみかけるように言う。
「わたしあの絵本が大好きなの。パパにもよく読んでもらったから、内容もちゃんと覚えてる。ママのジャムは駄目でも、絵本ならいいでしょう?」
「……分かった。ピーター・ラビットだね」
「シリーズ、全部よ」
 名前くらいなら聞いたことがあるが、ストーリーまでは知らないその絵本を手配することを約束すると、レイラはようやくほんの少し歯を見せて笑った。
 ミルク色のきちんと生え揃った歯はそのまま、彼女の育ちのよさを示している。
「歯列矯正をした?」
「ええ。ついこないだ終わったわ。どうして?」
「いいや、歯並びがいいと思った」
「ジェイミーはちょっと八重歯が出てるのね」
「あいにく育ちがよくなかったので、矯正はしてないんだ」
「……ごめんなさい」
 はっと、レイラが表情を曇らせた。悪いことを聞き出したような顔をして、トーストの端っこを齧った。
「謝ることはないよ。俺はこれをチャームポイントだと思ってる」
 にっと笑うと、レイラはきょとんと俺の顔を見つめ、それから訳知り顔で頷いた。
「そうね。猫みたい」
「言うね」
 ラブ・バイトの話を根に持っているのか。眉を上げて唇を曲げると、レイラがトーストを齧りながら部屋を見渡した。
「どうしてインテリアがブラウンなの?」
「さあ。内装はモニカに任せていたから、モニカの趣味だろうね」
「……わたしは白が好き。家のベッドも白だったし、戸棚も白かったわ」
 さびしそうな顔をするので全部取り換えてやりたいとは思ったが、そうするとかなり大がかりになる。
「考えておく」
 そう言いながら、ブラウンのインテリアを白にする魔法を、俺はほんとうに考える。ぼんやり浮かんだ妙案を採用しつつ、朝食を終えた。
「レイラ、俺はこれから仕事がある」
「……そう」
「外へ続く扉は、内側からは俺とモニカの指紋認証でしか開かない仕組みになっている」
 逃げ出そうとしても無駄、と釘を刺すつもりでそう説明すると、レイラは俺の指先をじっと見つめた。
「じゃあ、逃げ出したいときはジェイミーの指を切り取ればいいのね」
「そうだね」
 もちろん彼女にそんなことをする勇気もつもりもないことが分かる口調だったので、俺は軽く、そうだね、と返す。
 腕時計を見ると、そろそろ時刻は十時半を回ろうというところだった。最上階ひとつ下の俺の自宅に戻って服を着替え、それから出社する。そんな算段をつけながらジャケットを着込むと、ぼんやりと俺を見ながら座っているレイラの頭に手を伸ばす。警戒して顎を引いた彼女の頬に挨拶のキスをしてから、それに大きな抵抗がないことを確認し、そっと唇にもキスを落とす。
「じゃあ、今夜また来る。いい子で」
 レイラは黙っている。ラグを踏みしめて指紋認証のセンサーに指を置く。
「ジェイミー」
 振り返ると、レイラはテーブルの横に立って、小首を傾げた。
「ピーター・ラビット、お願いね」
「ああ」
 たぶん、彼女が言いたかったのはそんなことではない。じゃあ何を言いたかったのか。そこまでは分からないけれど。扉が閉まる瞬間に見えた彼女の顔は、悲しげに歪んでいた。

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