それが分かったのは、その部屋の壁一面が硝子張りだったからだ。ヨコハマの夜景を一番贅沢に見られる。そうわけもなく確信できるような、そんな景色が眼下に広がっている。
「……きれい」
「そうだね。ヨコハマはうつくしい」
 輝く鉱石をちりばめたような夜景に、思わずため息が漏れた。港のほうまで続く光の連鎖は、人々がそこに息づいている何よりもの証拠だった。明かりのある場所に、人がいる。海の向こう側から、輝きを携えた船が入港してきているのが、光の軌道で分かった。
 しばし、夜景に見惚れる。そして、はっとして顔を彼に向けた。彼はおかしそうにわたしを見つめていた。
 部屋は、バーのようだった。席はカウンターの手前に並んでいる数個のスツールしかないみたいだった。カウンターの向こうにはつくりつけの棚があり、お酒やグラスが所狭しと並んでいる。そして、夜景の見える硝子張りの壁のとなりは、巨大な水槽がこれまた壁として打ちつけられていた。名前も知らない、大きくてきれいな金色の魚が悠然と水槽を横切っている。
 おそらく、この摩天楼の最上階またはそれに類する階であることが、景色から推測できる。
 わたしを見ていた彼が、口角を上げたまま言葉を発した。
「きみがヨコハマを見ることができる最後の機会だ。しっかり堪能しておいて」
「…………え?」
 最後の機会。
 つうと背中を寒気が走った。笑顔のままでそんなことを言う彼に、わたしはおそるおそる、唇を開く。
「どういうこと……?」
「そのままの意味だ。きみはもう、今後一切地上の光を浴びることはできないし、こうして夜景を眺めることもできない」
 心臓が、やにわにうるさくなる。彼の言葉の意味するところが分からなくて戸惑うばかりのわたしの混乱を受け取ったのか、彼が笑みを深める。
「心配しないで、酷い目に遭わせるってわけじゃない」
「……でも……」
「ママと俺の話を聞いていたんだろう? 俺はきみを、大切に愛し抜くことを決意している。愛されるためにきみはここへ連れて来られた」
 甘やかな蕩けるような口調で、愛される、のところをことさら強調する彼に、どぎまぎする。
 そして頭を突き抜ける疑問。――なぜ?
「……なぜ、わたしをあんな大金で買ったの……?」
 彼は答えない。代わりに、夜景の見える硝子壁を手で示した。
「見忘れている場所はもうない? ちなみに、レイラの学校はあの辺りだ。放課後だから、少し暗いね」
 人差し指で、ぐるりと少し暗い落ち窪んでいるような場所を丸く囲み、ほほえむ。思わずそちらに目をやってから、もう一度彼に視線を向ける。
「もうおしまい?」
「……」
「じゃあ、きみがこれから住む部屋に案内しよう」
「……」
 理由の分からない鼓動の高鳴りが、考えるという行為を邪魔する。手を取られ、引かれるままに足を動かした。
 またエレベーターに、同じ手順を踏んで乗る。今度は一番下まで降りるらしい。ふわっと身体が浮いてしまいそうな重力を無視したエレベーターの動きに耐える。
 エレベーターを降りると、先ほどの地下駐車場とはまた違ったフロアに着いていた。
「こっちだ」
 非常階段のほうへ向かう。その道すがら、ボディガードの人は立ち止まる。それに振り返ると、恭しく頭を下げられた。
「彼はここまでだ。この先は、俺が許可した人間しか入れない」
 階段を下りていく。そして、その先には扉があった。鍵がみっつもついている。彼はポケットから鍵束を取り出し、迷うことなくそれぞれの鍵穴に鍵を挿していく。扉が開いた先には更に階段があった。
「……」
 薄暗い階段を、踏み外さないように彼の腕に縋るように下る。そうすると、再び扉にぶち当たる。今度は、パスコードロック式の鍵が三機ついている扉だった。
「……厳重なのね……」
「もしものことがないようにね」
「もしも……?」
 彼はまた答えない。慣れた手つきで、上から順にパスコードを入力していく。あまりに素早い動作で、しかもたぶん数字は変則的に並んでいて、鍵を読み取ることはできなかった。
 ピー、と高らかにロック解除の音を鳴らした扉を開ける。
「…………」
 薄暗かった視界に、急に明るい光が射し込み、わたしは思わず目を閉じた。そっと開くと、まず部屋の中央にある天蓋つきのベッドが目に入る。
 足元に目を落とすと、まるで外のような芝色のラグが敷き詰められている。インテリアはブラウンを基調としたあたたかみのある木の素材でできていた。広さはうちのリビングくらいはありそうだった。
 これって、まるで。
「きみ専用の、鳥籠だ。気に入ってくれた?」
 そう、彼の言葉でしっくりくる。まるで鳥籠のような部屋だった。
 彼の、先ほどの台詞を思い返す。「今後一切地上の光を浴びることはできないし、こうして夜景を眺めることもできない」。
 つまり、わたしはこれから一生、ここで。

prev | list | next