わたしの家はたしかにお金持ちではあったけれど、それでもこんな車を見たことはなかった。パパの愛車は国産の堅実な、決して派手ではない白のワンボックスだった。家族を乗せてどこへでも行ける、それがパパの口癖だった。
 目の前でてらてらと深緑色の輝きを放つこの車は、きっと外国産で、しかも運転するのは彼じゃなく、どうやら専用の運転手がいるらしかった。後部座席に優しく押し込めるように乗せられて、彼もわたしのとなりに乗り込んだ。彼の出発の命令に従い、運転手が車を走らせる。
「さて。レイラ」
「……」
 今更わたしは怖気づいている。そんな不安とよその車の匂いは、わたしに車酔いをさせるにじゅうぶんな力を持っていた。吐き気をもよおして口元を押さえると、それに敏感に気づいた彼が背中をさすってくれる。
「大丈夫?」
「ありがとう、あの」
 そこではたと気がついた。わたしは彼の名前すら知らない。
 わたしが戸惑っている理由を勘づいたのかそうでないのか、彼は背中に置いた手をゆっくりと上下させながら、にっこり笑う。
「すぐに着く。でも、無理はしなくていいから、どうしても我慢ができなかったら言って」
「……」
 真っ青な顔をしている自覚はあって、彼は気遣わしげに背中を撫で続けている。名前を、どうやって聞けばいいのだろう、そう考えをめぐらせることで気を散らす。
 窓の外を見る。オレンジ色の夕陽が包むヨコハマの街の景色が、じっくり見る間もなく流れていって、もうすぐとっぷりと暮れそうだ。
 どうにかこうにか吐き気から目を逸らしているうちに、車はヨコハマの一等地のほうへ向かっていることに気がついた。わたしはどこへ連れて行かれるのだろう。JMは一等地の一番いいところに、巨大な摩天楼オフィスを構えているけれど。
 そう思っていると、やはり車は摩天楼が立ち並ぶ一等地へと入っていき、一番大きなビルの地下駐車場に吸い込まれるようにして視界がふつりと暗くなった。
 ライトだけが照らす地下駐車場で、ようやく車は停まる。
「着いたよ」
 運転手が彼の側のドアを開けて、彼はわたしの腕を引っ張って車から降ろした。
「平気かい? 吐き気は?」
「……大丈夫」
 警備員が辺りをうろついている以外は、マンションの地下駐車場とあまり変わらなかった。アルファベットと数字でブロック分けされている広い駐車場だ。
 彼はしっかりとわたしの肩を抱き、エレベーターホールへと足を向けた。脚の長さがぜんぜん違うせいで、わたしは彼についていくので精一杯だった。もちろん、歩幅を狭く狭くと意識してくれている歩き方なのは分かったけれど、それでも、だ。
 エレベーターホールで、黒いスーツに身を包んだ男の人が待っていた。わたしは思わず身構える。
「心配しないで。俺のボディガードのひとりだ」
「……」
 JMの社長さんには、数名のうちのひとり、という言い方をしなければならないほどにボディガードが必要なのだろうか。違う世界を垣間見た気がして、きょとんとする。
 そのボディガードだという人を追い越し、彼はエレベーターの箱に乗り込む。わたしたちに続いてすぐに乗り込んできたボディガードは、エレベーターのボタンを操作している。どうやら、パスコードを入力しないと動かないみたいだった。しかも、四桁とかそんな平凡なものではない、たくさんの桁数のコードのようだ。
 ようやく、エレベーターが動き出す。ぐんぐんと停まることなく上昇していくエレベーター。わたしは、耳がきんとなるのをこらえて歯を食い縛った。やがて、数分にも感じられた上昇がようやくやみ、エレベーターは軽やかな音を立てて扉を開けた。
「こっちだ」
 思わず、きょろきょろしてしまう。深いブラウンの木の壁に覆われた廊下だった。少し歩くと、同じ木製の扉に当たる。扉を、ボディガードが開けて、わたしたちを中に招き入れる。
 もうすっかり夜だった。

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