「どういうことです?」
「簡単な取引です。レイラを俺に受け渡してほしい」
「……は……?」
 ママがあっけにとられているそばで、わたしも首を傾げた。わたし?
「分かりやすく言うと、レイラを担保に、俺はカーペンター夫人、あなたに一億の融資をする準備ができている」
「何を仰っているの?」
 ママの声が気色ばむ。
「最初に名刺をお渡ししましたよね」
「ええ……JMの、社長さんだとか……お若いのにご立派な……」
 JMって言ったら、ヨコハマの一等地も一等地に摩天楼のような本社を構える、IT系の大きな会社だ。その社長さんが、あんなに若いお兄さんだっていうのか。せいぜい多めに見ても三十代の終わりのほうに見える。多めに見てそれなのだから、きっともっと若いに違いない。
「俺の立場からすれば、一億の融資も不可能ではないとお分かりいただけますね」
「でも……」
「なんなら、今ここに用意してある。お見せしましょうか」
 ママが息を飲んだ。わたしの頭には、アタッシェケースに整然と並んだ札束が想像されていた。テレビで見たことがある。一億という金額は途方もないけれど、札束にしてしまうとかさ自体は大したことがなく、スリムなアタッシェケースにすっかり収まってしまうのだということを、わたしはテレビを介して知っていた。
「これをここに置いていく代わりに、レイラを連れて帰る。俺の提示している条件はたったそれだけのシンプルなものです」
「待って、娘を売れって言うの? 冗談じゃないわ」
 わたしは、自分が俎上に上げられていることに追いつくので頭がいっぱいいっぱいだった。状況を整理しなくちゃ。パパが知り合いの借金を肩代わりする羽目になり、うちにJMの社長さんがやってきてその借金を更に肩代わりすると言ってきた。そしてその条件は、わたし。
「冗談を言っているのは、夫人のほうでは?」
 お兄さんの声が、不意に冷たくなる。すうと、辺りの温度すらも二度、三度下げたように感じるその、爬虫類の肌の冷たさを思わせる声に、わたしはぞっと背筋を凍らせた。
「これから俺が話すことをよく聞いていただこう。まず、女手一つでレイラを育てていくことの大変さ。あなたは大学卒業後、すぐにカーペンター氏と結婚したそうですね。社会経験がほとんどない。それだけでまず仕事を探すのにも大変です。せいぜいパートくらいが関の山でしょう。加えて、一億の借金があなた方母子にもたらすデメリットを提示すると、レイラは今の私立校を退学することを余儀なくされる。そして、借金取りに追われる日々はあなたが想像する以上に凄惨だ。夫人の細腕では到底、レイラの身を守ることなどできないし、むしろ母子ともども被害を受けるでしょう。この被害の内容について、詳しく知りたいですか? 性暴力、この一言に尽きる。金融業者からすればあなた方の人権など皆無に等しい。こういう言い方をするのも何ですが、年若いレイラは性暴力の格好の標的だ。もちろん、おうつくしい夫人もね。乱雑に扱われ、抵抗もろくにできないままなすすべもなく複数の男たちに無遠慮に犯されるレイラを見たい?」
「…………」
 ママが沈黙する。わたしも、いつの間にか息を止めていた。
 一億の借金がもたらす事の重大さにようやくわたしもママも気がつき始めていた。借金が返せないとか、そんなふうに嘆く程度では生ぬるいのだ。彼の言う通りのことがきっと起こってしまう。それくらい説得力のある口調だった。
 ママの目の前でそんな惨めな思いをするなんて、死んだほうがましだ。けれど、借金取りからすれば、わたしやママが死んだところで大して困らないのかもしれない。
「そういった生活が何十年、いや生涯続くでしょうね」
 冷たい口調で告げられた最後通牒に、ママは息を飲んで、消え入りそうな声で言った。
「けれど……あなたにレイラを託したって結局は同じこと……」
「いいや?」
 彼の凛々しい眉が意外そうにつり上がる、そんな表情が見えていないのに手に取るように分かった。
「俺は彼女を愛人として所望している。諸事情により、妻として迎えることはできないが、別にほかに女がいるわけじゃない」
「愛人……」
「もちろん、そういった行為も含まれるかもしれないが……少なくともあなたの前でするような下種根性は持ち合わせていませんし、何より、どんな願いも叶えて大事にする自信がある」
 冷たかった口調が、不意に温度を取り戻し、今度は少し熱いくらいになる。
「生涯レイラを愛し抜き、大切に守る覚悟ができている。お分かり?」
 噛んで含めるように、お分かり? と言うお兄さんと向かい合っているママの、動揺が空気を震わせてわたしに届く。

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