数学のテストで満点を取った。それだけのことで、わたしは機嫌がよかった。なぜなら、クラスで百点のはなまるをもらったのは、わたしだけだったからだ。先生が高らかにわたしの名前と得点を告げた瞬間、クラス中がどよめいた。
 帰り道、友達と四つ辻で別れてから、鞄から答案用紙を取り出して眺める。今日はパパは早く帰ってくるかしら、誰よりも早くこの満点を教えてあげたい。でもまずは、ママに。
 制服のスカートが強い風になびく。ママから受け継いだハニーブロンドの髪の毛は今日は編み込んであるので、ぼさぼさになったりはしない。革のスクールバッグを背負い直して、ローファーの靴音を朗らかに地面に響かせる。初夏の空気は、辺りは人工物でまみれているのになぜだかどこかから土のむっとする香が鼻を突く。匂いに色をつけられるならまず間違いなくわたしはこの匂いにビリジアンの絵の具を水で混ぜずに塗りたくる。
 マンションに帰りつき、わたしはエレベーターの前で箱が降りてくるのを待つ。ちょうど、わたしの家がある階で停まっていたのがぐんぐんと降りてくる。着いたよ、と教える音とともに扉が開き、わたしはそれに乗り込んだ。エレベーターは昇降するときにふっと耳がきんとするので好きじゃない。もっと一階に近いところに住みたかった、と文句を言うわたしに、パパは、でもねレイラ、この夕陽を見てごらん、うつくしいだろう、と言って聞かせた。高層マンションの最上階近くから見る、摩天楼が立ち並ぶ街並みに沈んでいく夕陽はたしかにうつくしかったのだ。
 家の部屋番号の前で立ち止まり、チャイムはもちろん鳴らさずにドアを開ける。
「ただいま」
 返事はない。怪訝に思い首を傾げ、鍵が開いていたのにママがいないなんて非常識、そう思いながらリビングに続くドアを開けた。
 結論から言うと、ママはそこにいた。短い髪の毛をせわしなく何度も何度も掻き上げて撫でつけながら、ママはその人と対峙していた。
「お客様?」
 座っていたのは、インフォーマルに着崩したスーツを身に着けた、やたらと背が高くがっしりした身体つきのお兄さんだった。ダイニングで、いつもママがつくりたてのお菓子を置いている場所には我が家ではまず見ないクッキーの缶が置いてあって、彼は優雅な手つきでママが淹れたのだろう紅茶を飲んでいる。
「レイラ、自分の部屋に行っていて」
「……分かった」
 青褪めた顔色のママに、一抹の不安を覚えながらも、こどものわたしがここにいてはいけないのだと察して立ち去ろうとする。すると、わたしを見てにこりと目を細めたお兄さんが声を発した。よく通る、バリトンだった。
「いや、お嬢さんにも聞いていただかないと困る」
「そんなの」
 幼いこどものようにママがいやいやと首を振る。ママはたしかにちょっとこどもっぽいところがあるけれど、それはチャーミングという意味であって、決してそんなこどもじみたしぐさをする人ではないので、わたしは驚いた。
 そして、ママがわたしの耳に届けたくない、お兄さんが持って来たお知らせは、どう考えてもわたしに得のない、それどころかきっと損をする、言ってしまえばバッドニュースに違いなかった。
「ねえ、レイラ」
 なれなれしくわたしの名前を呼んだ彼は、凛々しいヘーゼルグリーンの瞳をきらめかせた。短い黒髪が、ダイニングの窓から入ってきたパパご自慢の夕陽に照らされて濡れたようなつやを放つ。
「きみのパパはさぞ優秀かもしれない」
「え……?」
「実際、優秀だった。彼はね」
 過去形であることが、心臓が早鐘を打つのに加担した。パパになにかあったんだろうか。聞きたくない、そう思いながらも、彼の、光が当たると虹彩が黄色く輝く瞳から目が逸らせなかった。
「ただ、少し情に厚いところがあったね」
「……人に優しいことの何がいけないの?」
 パパはたしかに、情けないくらいに優しくて、ママがやきもきすることもあった。でも、それって何か問題になるのだろうか。わたしは優しいパパが大好きだし、ママもきっとそうだ。優しい人を嫌う人なんかいないだろうし、好かれなくとも邪険にされることはないはずだ。
 彼が、次にわたしに告げた言葉は衝撃的なものだった。

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