恋するオンナノコ

「雪菜、最近綺麗になったよね」

 小気味よく鳴っていたキーを叩く音が止んだ。ずっと向けられていた視線なんて気にせず続けていた仕事は、琴音の一言で中断された。

「どうしたの急に?」
「前からヘアアレンジはしてたけど、なんか最近は気合の入れ方が違うというか」
「たまたまじゃない?」
「ここ数日、香水もつけてるし」
「…」
「メイクも前とちょっと変えたよね。今のが自然でいい」
「…それはよかった」
「……」

 隣からの無言の圧が凄い。全てを見透かされてるんじゃないかと、全身に緊張が走った。
 綺麗になったかどうかは知らないけど、確かにここ最近髪はよくアップにしている。深い意味はとくにないけど、挙げるとすれば「俺女子が髪の毛上げてるの好きよ」という花巻の一言がなんとなく脳裏にこびりついていたからだ。
 久しぶりにメイク本なんか読んで、自分の顔立ちに合うメイクを初めて研究した。昔私が熱心に読んでた『男ウケ抜群!モテメイク特集』は実践する気も起きずゴミ箱へ放り投げた。
 "完璧な彼女"を演じるための道具くらいにしか思ってなかったアイテムが、今こんな理由で活躍するとは思わなかった。

「なるほど、そうさせてるのは花巻くんが原因か」

 とっても楽しそうに核心をついてきた琴音の一言に、含んでたお茶を吹き出しそうになる。大切な書類がデスクになくてよかった。

「おぉ、すっごい動揺。雪菜、あんた面白いやつね」
「まだ、何も、言ってないでしょ!」
「いやいや、前回あんなの見せられれば気付くって」

 確かに、琴音には以前花巻に連れ去られた現場を見られたのだった。この子に変な隠し事はできないなと観念し、これまでの経緯を説明すると驚いたりニヤニヤしたりきょとんとしたり。「うーん」と唸ったあと。

「結局雪菜は、もう花巻くんが好きってことでしょ?」
「そ、そうなの?」
「こっちが聞いてんだけど」
「まぁ、一緒にいたいとは思ってる」
「その人に喜んでほしくてって原動力は、もう好きって言ってるようなものじゃない?」
「…認めたくないけど」

 冷静に自分の行動を分析されるのは恥ずかしいけれど、琴音の言っていることは何も間違っていなかった。友情の好きと恋愛の好きの境界線は、他人のものならよく見えるのに、自分のことはさっぱりだ。
"もっと大人しくて可愛いやつだと思ってた"
呪いの言葉が脳裏を過り胸やけにも似た感覚。

「好き…ねぇ」

 ぽつりと吐いた言葉は琴音に届かず、パソコン下のごみ箱へ落下していくようだった。花巻はそんなこと言わない、私のことを分かってくれる。揺ぎなく信じているはずなのに、もしまた拒絶されたら、という不安がざわざわと胸を支配していくようで、好きの感情を受け入れることができないでいる。
 どうやら思っているより厄介なものを抱えてしまっているようだと自嘲した。


「うーっ…」

 ずっと立ちっぱなしの仕事も辛いが、長時間座りっぱなしで液晶画面を眺めてるのも
辛い。凝り固まった背中を伸ばすため大きく伸びをすればボキボキっと背中が鳴った。おっさんかっての。
 琴音は彼氏とデートらしくさっさと仕事を終えて帰ってしまったし、残業組が悲しくキーボードを叩く音が社内に響いてる。さっきまで花巻もいたはずだと、デスクを見るとまだ鞄が置いてある。あぁ、一緒に帰れるかな。そんな風に思った途端、やる気スイッチがおされた気がした。

「ねぇ、桜城さん」
「はい?」

 声のした方へ顔を向ければ、仕事で数回言葉を交わした程度の先輩がそこに立っていた。

「今日一緒に飯でも行かない?」
「へ?」

 突然の台詞に素っ頓狂な声がでてしまった。なんで良く知りもしないお前と?そんな本音は心の内に仕舞い込んで、染みついた営業スマイルを引き出す。

「どうしたんですか?急に」
「いや、おれ前から桜城さんのこといいなって思ってて。で、最近またすげー綺麗になったからさ」

 ぐいっと一歩近づいてくる先輩。後ろに下がろうにも、自分のデスクがストッパーとなってしまう。定時は過ぎているにしても、まだ仕事をしている人間がいる中でこの人はなに女口説いでんだ?
 デジャブとはまさにこのことで、名前も思い出せない元カレたちの顔がもやんと浮かび上がる。本性を隠してた私にも非はあるけど、私の上辺を好きになって勝手に幻滅していった過去の男たち。きっとこの人もその類。心の中でやれやれと溜息をつきながらにっこり笑顔は絶やさない私は役者になれるんじゃないかな。

「お誘いありがたいんですけど、今は私…」
「雪菜」

 しれっと私の名前を呼んだのは、余所行き笑顔の花巻だった。そのままゆっくり近づいてくるのが怖い。「なんだ、花巻か」なんてフランクに接してるこの先輩には、花巻の眉間の皴が見えていないようだった。そもそも、どうしてそんなに怒っているのか理解できない私は先輩と軽く会話する花巻を不安気に見つめることしかできず。

「雪菜、仕事終わった?」
「あ、あとちょっと…」
「そっか。…じゃぁ俺帰るから」

 最後の最後。私にしか見えない角度で、ふっと笑顔が消えた。仮面の下の無表情な顔が怖くて、鞄を持ってすたすた帰ろうとする花巻を足が勝手に追いかけてた。後ろで何か言ってる男なんか知ったことかと、一生懸命体が動いてる。
 花巻は歩いて、私は走ってるのになんで追い付けないの。コンパスの長さを主張されてるようで腹が立つし、何も言わずに不機嫌になっているのも腹が立つ。不安や怖さよりも苛立ちのほうが大きくなった私は花巻の名を叫んでた。それでも歩みを止めないのが余計イライラしてきて、さっきの仕返しだと言わんばかりに「貴大!」そう叫ぶ。一応周りに誰もいないのを確認したから、大丈夫。
 私の声に反応しやっと歩みを止めたと思ったら、今度は私目掛けて凄い勢いで近づいてきた。腕を少し乱暴に掴まれ行く先は、この時間帯は誰もこないであろう奥の給湯室。

「ちょっと…何がしたいの!」
「それはこっちの台詞」
「はぁ?」

 表情を変えず淡々と返す花巻は本当に訳が分からない。頭上にクエスチョンをたくさんのせてたら、ぐいっと花巻の顔が近づいた。

「ち、近いって…」
「メイク変えた」
「え…あ、あぁ、うん」
「髪も最近可愛いですネ」
「く、くすぐったい!」

 うなじに顔を埋められ、花巻の息が首から背筋にかけてかかり体が震えた。変化に気が付いてくれてた嬉しさと驚き。この距離感と緊張、いろいろな感情が入り乱れて何をどう言えばいいのか。花巻、と声をかけようとした瞬間首筋を舐めあげられて変な声がでた。

「っん…!」
「いー匂い。声も、かわいい」
「ね、ほんと、どうしたの…?!」

 甘い台詞を囁かれ、いい雰囲気のように見えるかもしれないがとんでもない。私を褒める台詞を吐く声には怒りの感情が含まれていて、目線は鋭くギラついている。何も言葉が出てこなかった。少しだけ乱暴に唇を塞がれ舌をねじ込まれてしまえば、もう花巻のペース。角度を変えるたび、くちゅっと互いの唾液が混ざり合う音が響いて恥ずかしさと息苦しさでずるずると体の力が抜けてしまった。

「俺は、前の桜城の方がいい」

 ゆっくり唇が離れ、乱れた呼吸を整えていると、気まずそうに言われた一言。

「まだ男ウケ狙ってんの?」
「そ、そんなわけないでしょ?!何言ってんの!」
「じゃぁ何で急にそんな…!」

 そう中途半端なところで止めて「悪い、今日はもう帰る」とだけ言い残して去ってしまう。文句を言う隙も与えず、私の前から姿を消してしまった。追いかける気力も残ってない私はそのままへなっと床へしゃがみこみ脱力状態。

『その人に喜んでほしくてって原動力は、もう好きって言ってるようなものじゃない?』

 昼間、琴音に言われた言葉がこだました。そう、メイクを変えたのだって、髪をあげたのだって、あいつの反応が気になったから。喜んでもらえたら嬉しいって自然と思ったからなのに。まさかこんな結果に終わるとは。

“まぁいっか。なんか知らないけど、花巻はお気に召さなかったみたいだし“
 
 そう切り替えたいのに、さっきからずっと胸が苦しいし痛い。顔を埋められた首筋がまだ熱い。さっきまでキスしてた唇が震える。

"俺は、前の桜城の方がいい"
"もっと大人しくて可愛いやつだと思ってた"

 ねぇ花巻、あんたのおかげで思い出したことが一つだけ。好きってこんなに苦しいんだ。好きってこんなに痛いんだ。あんたを想って泣けるくらいには、私花巻が好きだよ。