賭けをしようか

 朝いつも通りの時間に起きて、いつも通りの身支度を済ませる。化粧は20分で完成。入社当初より時短メイクは上手くなったと思うけど、もうちょっとだけ時短できないかなぁ。朝は少しでも寝ていたい。
 低血圧、冷え性な私は朝食を欠かすことができず、今日もトースターから元気よく飛び出てきたパンを頬張り家を出た。
 下の階のおじいちゃんは今朝も元気にラジオ体操してるし、駅に向かう途中でいつも一緒になるサラリーマンは今日も早歩きだし。そう、なにもかもがいつも通りのはず…なのに。どこか落ち着かない理由は一つ。昨夜の花巻との会話…というよりも花巻の発言。

"俺ら付き合ってみる?"

 顔を真っ赤にしながら冗談みたいに言ったあの一言。え、結局なに?今私と花巻は付き合ってることになるの?っていうかそもそもアイツ本当の本当に覚えてる?
 彼女に振られたこともあったのか、昨日の花巻はいつにも増してペースが速くそれなりに酔っていた。夜遅くにラインきてたし、家には無事帰れたみたいだけど…。
 今も花巻から何も連絡ないし、きっと本人が忘れて付き合うとかいう話は自然とない方向になりそうだな。酔っぱらいの戯言に振り回されるな雪菜。あれはあの場のノリで冗談だったんだ。昨晩、花巻とヤれるかどうか真剣に考えたことも私の気の迷いというか、つまり一時的に私たちがおかしくなってたってことで…。いつもより空調が効いてないように感じる満員電車の中で、昨晩のことを無理やり納得させ職場へと急いだ。

 いつも通り出勤して、いつも通りの業務を行う。すれ違いざま花巻に平静を装いつつ「昨日のこと覚えてる?」と投げかけたが「なんのこと?」ケロっと返されてしまった。やっぱり覚えてない。安心したようなガッカリしたような、ちょっとでもその気になってた自分が恥ずかしい。
 まぁ、花巻がこういう男だって分かっていたし、ある程度半信半疑のままでよかったよかったと、恥ずかしさをかき消すように仕事に没頭したおかげで今日は定時に帰れそうだ。

「あれ、雪菜珍しく仕事早いね」
「ちょっとそれどういう意味」
「そのまんまの意味」
「まぁ早く帰ったところで予定も特にないですけど」

 自分で言ってて虚しくならない?と、同僚の琴音に悲しい目で見られるのも慣れたものだ。私が椅子から立ち上がりじゃぁねと声をかけると後ろから花巻の声。

「予定ならあるデショ」

 強くも弱くもない力で掴まれた右腕。掴んでいるのは勿論花巻。私が何か言う前に問答無用と腕を引っ張られ呆気にとられてしまった。え、なにこれ、何か約束してたっけ?っていうか、琴音がなんか目をキラキラさせて見送ってるんだけど、そのリアクションは絶対何か誤解してる。非常に恥ずかしいんですけど。

「花巻、今日なんかあったっけ?」

 返事はなし。昨日飲みに行ったし、今日は特別な会話もなければ連絡もとりあってなかった。仕事の話…っていっても、今花巻と打ち合わせするようなことなかったはず。
 チンっとエレベーターが到着する音で我に返り、無人のエレベーターに二人きりの図。扉が閉まれば沈黙が続くわけで。

「花巻」
「なーに」
「えっと、状況の説明をお願いします」

 やっと返事してくれた花巻の声色はいつも通り。否、少し上機嫌かな?
 すると、人ひとり分の距離を保ってた花巻が私との距離をずいっと詰めてきた。ぴったり隣をキープされ、少々窮屈だ。

「だって俺ら付き合ってるんでしょ?」
「…覚えてたの?!」
「桜城と違って記憶なくすような酔い方はしませーん」

 さっきのケロっとした表情も全部演技かこいつ。ほんと性格悪いな。軽く睨んでみるも効果は全くないようで、ヘラヘラした笑みを浮かべている。

「こっちがいろいろ真剣に考えたっていうのに…!」
「へぇ?なにを真剣に考えたの?」

 お前とセックスできるかどうかだよ、とは口が裂けても言えず黙り込んでしまった。が、私のそのリアクションでどうやらほぼバレてしまったようで「雪菜チャンやーらしー」とからかわれてしまった。…本当にこいつが彼氏でいいのか私。
 再びチンっと音をたてたエレベーター。二人で会社を出てそこから特に話すわけでもなく夜道を歩く。えっと、これはこのままどうなるんだ。そんなことを考えていると「ねぇ」声をかけられた。

「そんな考えこむ?」
「…だって、花巻のことそういう風に見てなかったし」

 そりゃ戸惑いはするよ。私の正直な気持ちを言えば、頭をガシガシとかいてからあーと唸る花巻。

「俺も桜城のことそういう目で見たことなかったよ」
「分かってるけど言われると腹立つね」
「俺もいまさっき同じこと思ってた」

 こんなんで恋人になんてなれるのか。そんな不安が脳裏を過った瞬間、体を引き寄せられた。花巻の腕のなかにすっぽりと収まったわけだが、あまりの急展開に反応が遅れてしまう。

「え、ちょ、道のど真ん中なんですけど」
「誰もいないし、いいでしょ」
「花巻酔ってる?昨日から変」
「雪菜」

 低い声で呼ばれた名前につい心臓が跳ねあがった。見上げると"男"の顔をした花巻。何これ、聞いてない。ちょっとドキドキするんですけど。
 花巻の目から視線を外せないでいると、どんどん花巻の顔が近づいてくる。

"キスとかすんだし付き合うことになるでしょ"

 昨日の夜、居酒屋で花巻が言った言葉が頭の中で響いた。え、こんなに早く?展開早くない?

「ちょっ…は、花巻っ」

 もういつキスされてもおかしくない。そんな距離まで縮まったときにでた自分の弱弱しい声。こんな声が出るとは思ってもいなかった。
 と、抱きしめられていた腕の力はするり弱まり、花巻との距離もいつも通りの一定距離に戻る。

「これでも俺のことそういう目で見れない?」

 ニヤリという効果音がピッタリな悪役のような笑い方。してやったりな顔が腹立つが、数分前に言った言葉はあっけなく崩されてしまった。一瞬でもドキドキした自分を恨む。

「俺、桜城を落とす自信あるよ」
「調子乗るなよ花巻…やれるものならやってみなさい!」
「言ったな?」
「返り討ちにしてあげる」
「へぇ。じゃぁ、どっちが先に惚れるかな」

 どちらからともなく繋がれた手は、熱くて少し汗ばんでいた。