04

 不安定な季節ではあるが、こうも気温が急上昇しては体がまいってしまう。昨日との激しい温度差に待合室で待機してる患者さんたちもどこかくたびれた様子。

「楓ちゃん」
「シズちゃん! おはようございます」

 曲がった腰をさすりながらひょこっと窓口に顔を出したのは志津子ばあちゃん、通称シズちゃん。私が働き始めてからの常連でずっと孫のように可愛がってくれている可愛らしいおばあちゃん。みんなの癒し的存在である。

「シズちゃん、腰痛いの?」
「いつものことよ。それより楓ちゃん、怖い目にあったんだって?」

 こそっと耳打ちしてきた一言につい目を見開いた。あれから2週間近く、事情を知らない人間に余計な心配をさせまいと黙っていたのに院長め。ついに口が滑ったな。
 なんにもしてあげられないけど…とシズちゃんが手渡してきたのはトウモロコシ。受け取った紙袋の重みがズシリと腕にくる。こんなに重たいものを私のために持ってきてくれたのかと思うと涙が出てしまいそうだ。

「シズちゃんありがとう〜!」
「美味しいもの食べて、また元気になったら恋バナでもしましょうね」
「あっ、シズちゃんおはよう〜。この間あげた香水どうでしたぁ?」
「あら〜ハナコちゃん。それがね、主人に褒められちゃった」

 くしゃりと顔の皴を更に深めて恥ずかしそうに笑うシズちゃんはとっても可愛い。シズちゃんにだけはハナちゃんもハナコ呼びを許可している。目の前でキャッキャと話している2人はまるで女子高生だ。
 それを近くで見てた近所のおじさんが「志津婆は本当に若いねぇ〜」なんて新聞に目を落としながら漏らすから「志津婆だなんて! シズちゃんでしょ」とすぐさま叱咤が飛ぶ。同調するよう何度も頷いてるハナちゃんは完全にシズちゃんの味方。
 苦笑いでお手上げ状態のおじさんとふいに目が合い笑ってしまう。そんないつも通りの日曜日に胸が暖まった。




「あれ」
「あっ……」

 最寄り駅について真っ先に視界に飛び込んできたのは白いカットソー姿の牧くんだった。少し驚いた後、すぐいつもの柔らかい表情に戻り「もう仕事終わりですか?」と不思議そうに尋ねられた。

「日曜日はね、受付時間がいつもより早く終わるの」
「あぁ、そっか。お疲れ様です」
「牧くんは? 部活?」
「朝からだったんで、今日はこの時間にお開きになったんだ」

 牧くんとはあの事件をキッカケにほんの少しだけ距離が縮まったような気がする。
 ただの患者さんから……弟の友達だから私もちょっと仲良くしてる、みたいな。敬語とタメ口が混ざる不思議な距離感だった。でもなんだか心地がいい。それはきっと牧くんの作り出してる空気間とか安心感のおかげ。

 それにしても今日は本当暑いッスね、顔を手でパタパタさせてる牧くんに「お茶でもしていかない?」と誘ったのはほんの気まぐれ。ちょうど冷たいものが飲みたいと思っていた気分だったし。
 そうと決まればいざ。勢いに任せ焦った様子の牧くんの腕をとって私の脚は近くの喫茶店へ向かっていた。

「悪いですって」
「あのときのお礼くらいさせてよ」
「この前弁当もらったじゃないですか」
「命の危機だったかもしれないんだから、好きなものくらいご馳走させて!」

 ヴィンテージ家具で統一された洒落た喫茶店の小さな椅子で肩身が狭そうな牧くん。アンバランスでちょっと面白い。
 そこまで言われてしまっては仕方ないとやっと観念した様子の牧くんは、困ったように眉を下げ大人しくメニュー表をめくっている。
 もしかしてこの後予定があったりしたのかななんて今更な疑問をぶつけたが、どうやらなにもなかったみたいで一安心。
 季節のデザートセットを2人分注文したあとはいつもの通り他愛もないお喋りの時間をのんびり楽しんだ。

「そういえば、横山から聞きましたよ。院長が例の男の店に」
「そうそう。まさか殴り込みにいくとは思わなかったよ」
「あれからしばらく横山が迎えに行ってたって話も聞きました」
「断ろうとしたけど圭ったらすごい剣幕でさー」
「それは仕方ないですよ。きっと俺でもそうした」

 テーブルに置かれたベリータルトを食べながら安心したような笑みを浮かべる牧くんの伏せた瞳は高校生離れた色気があってドキリと胸が鳴ってしまった。こらこら、相手は圭と同じ年の男の子だぞ。

「本当に、その節はご心配をおかけしました。…結局シズちゃんにもバレちゃったしなぁ」
「シズちゃん?」
「うん。うちの常連の患者さんでね、すっごく可愛いお婆ちゃん。良くしてもらってるんだ」
「横山さん、あの整骨院で人気ですよね」
「私が?」
「あの、もう1人の……ハナコさん? とは違う意味で」

 アイスコーヒーを飲み干しながら言葉を選んでる牧くんに「ハナコって呼ぶと怒られちゃうよ」と忠告しておく。
 どんないい男でも、田中と山田姓の嫁にはなりたくないと豪語している旨を伝えると、全てを理解したのか気が抜けたように笑い始めた。

「でもさすがにハナちゃんは、俺には無理だな」
「じゃあ私は?」
「え?」
「横山さんなんて、今更そんな堅苦しく呼ばなくていいのに」

 同じクラスに圭だっているんだ。横山と横山さんじゃなんだか面倒くさい。
 健司くんにも昔から楓ちゃんと呼ばれていたから、年下の男の子に名前で呼ばれるのは慣れている。

「楓、さん?」
「うん」
「なんか、今更で照れるな」
「ならやめとく?」
「いや、いい名前だしな。こっちで呼ぶよ」

 あからさまに照れていたらからかってやろうと思ったのに、サラリとそんなことを言われると逆に私が恥ずかしくなってきた。牧くんって少し天然が入ってるんじゃないだろうか。

 会計を済ませて店を出ると辺りは橙色で染まっていた。結構長居してしまったね、引き止めてごめん。謝罪しようとした私を制止するかのよう「いい気分転換になった」とお礼を言う牧くんは本当にできた男の子だ。

「そういえば、もうすぐだっけ? 決勝リーグ」
「そうだな」
「……健司くんのとこ、この前負けちゃったみたいね」
「本人から聞いたのか?」
「まさか。圭が言ってた」

 先日行われた翔陽の試合。仕事が入っていて応援に行くことはできなかったが、健司くんなら大丈夫。観戦は決勝リーグにとっておこうなんて思っていたのにまさかの結果で本当に驚いた。
 それは牧くんも同じだったようで少し複雑な表情。けれどそれが勝負の世界というやつなのだろう。相手が誰であろうと全力で倒すだけだと語る瞳は力強かった。
 そんな話をしながら帰路についていたらあっという間に分かれ道。じゃあね、といつものように軽く手を振り背を向けた際ふと気づいたことが一つ。そういえば、敬語じゃなくなってたな。


***


 決勝リーグ前夜。最後の患者さんを見送り、いつものように仕事を終えた全員で院内の簡単な清掃をしていたとき。

「あれ……この忘れ物って……」

 奥のベッド下、荷物置き場用の籠の中から黒いリストバンドを見つけた院長が眉を寄せていた。当然話題は「このベッド最後に使った患者さん誰だっけ?」という流れになる。
 明日から決勝リーグだからと1時間前くらいに最後のメンテナンスに来た牧くんが脳裏を過った。奥のベッドは体が大きい人を優先的に使う。今夜確かに彼をそこに案内した。

 どうしよう。明日は大事な試合初日。牧くんが強いというのは話を聞いてれば分かるけど、ああいう競技はメンタルの影響がモロに出るのではないだろうか。
 圭が小学生の頃、必勝のお守りとして亡き母が持たせたミサンガとそのリストバンドが一瞬重なってしまいなんとも言えないモヤモヤが胸を支配していく。

「あの……、私に預けてもらってもいいですか?」

 もしかしたら今頃気づいて困ってるかもしれない。そう思ったらじっとしていられなかった。
 カルテに記載されてる住所と携帯番号だけ控え、医院の前でみんなと別れたあと090から始まる番号にかけてみたけど、留守番サービスに繋がってしまう。
 牧くんの家は私の家からそう離れていない。少しだけいつもと違う道で帰るだけだと駆け足で向かった。


 最寄り駅とはいえ見慣れない道。少し迷いながらやっとたどり着いたマンションは正面玄関で部屋番号を押してから開けてもらうタイプのしっかりした造りのものだった。手元のメモに殴り書きで書いた部屋番号を押すと数秒後、お母さんらしき声がして緊張が走る。

「あっ、あの。夜分遅くにすみません。私、ふじよし整骨院受付の横山といいます。患者さんの牧紳一くんの忘れ物を届けにきたのですが……!」

 早口で要件だけ伝えると「え!」と声をあげたお母さんの奥から更に驚く牧くんの掠れた声がした。通話口の相手がお母さんから牧くんに変わり、今すぐ降りるからその場で待っててくれと一方的に言われ切られてしまう。そして、待つというほどの時間が経過するより早く、入口の扉奥から牧くんが現れた。

「びっくりした……こんな遅くに、なんで」
「ごめんね急に! この忘れ物牧くんのだったら大変だと思って! 明日大事な試合って言ってたから……」

 鞄から取り出した黒いリストバンドを見せると牧くんの瞳が見開かれ、ちらりと視線が私とかち合った。

「……楓さん。その、すまん」
「え?」
「それ、俺のじゃ……ない」

 すっかり牧くんのだと思いこんでた手元のリストバンドをどうすることもできず固まった。ちゃんと確認してから行動に移せばよかったものを、いきなり家まで押しかけて結果間違ってたなんてちょっとみっともない。
 口元を手で覆い隠す牧くんの心中は分からないが、そんなことどうでもいいくらいの羞恥心がタイムラグで襲ってくる。顔から火が出る、とはこのことじゃないだろうか。

「ちが、あの、圭がね! 小学生の頃とかミサンガないとサッカーの試合で落ち着かないの見てたから、スポーツマンってこう、いつものものがないと落ち着かないとかやっぱあるのかなとか!」
「楓さん」
「っていうか明日大事な試合なのにこんな、遅くに本当ごめん! ちゃんと確認すればよかったっ……!ほんと、はずかし――っ」
「ちょっ、落ち着けって。その……嬉しいから」 

 大きな手で両肩を掴まれハっとした。牧くんの顔はさっきより近いのに目だけが合わない。照れているのか少し紅潮しているようにも見える。

「一刻も早く届けようと、そう思ってくれたってことだろ?」
「っ、改めて言われると恥ずかしいけど、そうだね」

 同時に出た小さな照れ笑いがなんかもうおかしくて、夜のマンション入り口で私たちの笑い声だけが響く。
 そのあと、家まで送ると言って聞かない牧くんの申し出を何回も断ったのに、結局私が根負けしてしまった。明日に備えて早く体を休めてほしいのに。

「その分パワーもらったからな」
「なんにもしてないよ私」
「気づいてないだけだ」

 もう目の前の角を曲がれば家につく。ここまででいいと告げたあと、拳を牧くんの胸にトンと押し付けてパワーをチャージする真似をすると牧くんはおかしそうに笑ってたけど確かにすごく嬉しそうだった。

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