03

 昼休みに入った途端教室内は喧騒に包まれる。4、5分後に複数の女子がわざわざ他クラスからやってきて横山の名前を呼ぶのはもう見慣れた光景だった。
 ちょうど2ヶ月前から世話になっている整骨院の横山さんの弟が、まさかクラスメイトの横山だったなんて夢にも思ってなくこの間は本当に吃驚した。が、言われてみれば目元が少し似ている気がする。

 今日もいつものように女子と一緒に飯でも食いに行くのだろうと思っていたのに、俺の前の席に腰をかけ弁当を広げはじめる横山。どうしたんだこいつ。

「なにしてんだお前」
「飯を食う」
「いや、そうじゃなくて。いつも女子と食ってるだろ」
「今日は牧と食いたい気分」

 1年の頃から同じクラスでよく話をする友人ではあるが、男にそんなこと言われても嬉しくもなんともない。ふざけて言っているのは重々承知でも鳥肌もんだ。
 そもそもこいつからこんなことを言われるのは初めての経験。だからきっとこれは……。

「何が聞きたいんだ。課題か?」
「さっすが牧。察しのいいことで」
「用があるなら普通に聞け」
「牧さ、最近姉ちゃんとこ行ってる?」

 姉ちゃんとこ、というのはあの整骨院のことに違いない。確か最後に行ったのは3週間ほど前だったなと手帳を確認すると明日でぴったり3週間が経過する。

「膝の調子もいいし、今はそこまで行ってないが……なんかあったのか?」
「あー、ならいいよ。悪いな、変なこと聞いて」
「そこまで言われたら気になるだろ」
「……いや、最近仕事から帰ってくると顔色悪いから」

 普段のへらへらしている横山とはまるで別人のような真剣な表情が妙な緊張感を生んだ。
 仕事で疲れてる、たまたま調子が悪いだけ、それらしい理由はいくらでも思いつくのに何故か一番最初に頭の中にでてきたのは、以前めんどくさそうな男に彼女が絡まれてる光景だった。
 あの日は確か俺が帰るまで少し揉めていた。ハナちゃんこと立花さんに「たまーにああいう人が来ちゃうんだよねぇ」とこっそり謝罪されたことなど、今の今まですっかり忘れていた。

 その話を大雑把に横山にすると、初耳だといわんばかりに目を見開きその表情はだんだん怒りへ変わっていく。

「あーっ! だから俺に言えって何度も言ってんのによー!」
「お姉さん、何かされたのか?」
「いや……情けないけどそこまでは知らね。っつーか、俺に心配させまいと何も言わねーの。これ昔から」

 盛大な溜息をついて不貞腐れてる様子の横山は初めて見た。どちからというといつも飄々としていて、ルックスも良く爽やかで、なんでもそつなくこなしてしまうモテる奴だったから。こいつもこんな大声で感情を乱すことがあるんだな。
 今度迎えに行くことにする、と意志の固い瞳で言う横山は姉思いな弟というより…。

「シスコンか?」
「うっせ」

 確かに身内、しかも自分とそこまで離れてない姉に何かあるのは心配だと思う。
 けど一連の横山の慌てっぷりから辿り着いた一つの答えはどうやら図星だったようで、少し照れながらさっさと弁当箱を空にした横山は「情報サンキューな」とだけ言って教室を去っていった。



***



 「横山さん、今日大丈夫?」

 申し訳なさそうにそう言う院長にはここ数日すごくお世話になっていた。もともと気安かったマスターは、もはや"気安い"の一言では片づけられないくらいセクハラがエスカレートしていた。
 そんな様子を見かねた院長が一度きつくマスターを叱ったのを機に来院の回数はぐんと減ったけど、それと同時に帰り道の恐怖が増した。
 駅までの数分とはいえ、途中までは暗い住宅街。人のいる気配を感じ続けるには充分な恐怖だった。それを仕事中ポロリと口にしたのは私の失敗。何かあったら困ると、ここ数日は院長が数分間だけ仕事の手を止め駅まで送ってくれていた。

「なんかここ数日すみませんでした。もう大丈夫ですし、院長の施術待ちの患者さんを優先してください」
「本当ごめんね。何か危険を感じたらすぐに戻ってくるんだよ」
「はい! これでも脚に自信はあるので、大丈夫です!」

 安堵の笑みを浮かべた院長に「お疲れさまでした」とだけ挨拶しいつも通りの道を通る。湿気た空気が鬱陶しく微かに吹く風が唯一の救い。

 圭は確か今日21時までバイトだから、途中駅でお惣菜を買って帰ろう。そして家に着いたらお風呂を沸かして、こんなジメジメした日にぴったりな爽快感溢れるいい入浴剤を使ってリラックスしてしまおう。
 家についてからすべきことを脳内でゆっくり処理していた次の瞬間、私の頭はショートしたかのように思考が停止した。

「楓ちゃん」

 背筋が凍りついた。街灯の奥から聞こえてきたのはとても聞き覚えのある声でずっと何かを喋っていたようだが、恐怖のあまり私の耳には何も入ってこない。
 私と同じ街灯の光の中にすっと入ってきたマスターに流れるような手つきで手首を掴まれハっとした。やばい。脳が危険信号を出しているのに、体が全く動かない。

「っ、やめて……」
「楓ちゃん、俺ね、すごい美味しい店知ってんの。いつか連れていってあげたいなって思ってたから今から行こうよ」

 話が全く通じていない。というより、私の話なんてそもそも聞く気がないのかもしれない。
 脚に自信があるは本当だった。何か危険を感じたらすぐに大通りへ走ってしまえばそれで済む。それが、暗闇で声をかけられただけで体中の筋肉が硬直してしまうなんて。

 途切れ途切れ勝手に口からでる「あ」とか「いや」の震えた声が夜の住宅街に頼りなく響いたそのとき、マスターと私の間を急に割って入る大きな体にふわりと優しく包まれた。

「なっ、なんだお前!」
「腕を離してくれ」
「っ……」

 私を包んでる人物があまりに至近距離で顔の確認はできないが、見覚えのあるスーツのような制服に低く掠れた声。たくましい腕を下へ辿っていくと小麦色の大きくごつごつした手を確認することができて、あぁ牧くんだとやっと理解した。
 背中越しに睨む牧くんの迫力に圧倒されたのか、マスターは私の腕をさっさと離し、そそくさと脇道から退散してしまった。
 ものの1分、いや、数秒の出来事だったかもしれない。そこから何分経ったかは分からないけど、沈黙を破ったのは牧くんの「大丈夫ですか?」という優しい声だった。気づけば牧くんのブレザーをしっかり握っていた両手。慌てて放してもブレザーにはハッキリ皴がついてしまっている。

「ごめっ……皴になっちゃった」
「……怪我は?」
「あっ。ない、です」
「はぁ…、よかった」

 たどたどしい口調は混乱と恐怖の名残だろうか。それを察し、背中に優しい温もりを与え続けてくれる牧くん。今更込み上げてきた安堵感でぼろぼろ溢れ出る涙を止めるのは無理だった。

 ひとしきり泣き終わったとき、震えていた手はもうおさまっていた。それを確認した牧くんはポケットから携帯を取り出してどこかに電話をかけている。

「あぁ、横山か? お前、家の最寄り駅まで出てこれるか?」

 電話の相手は圭だ。それを理解した瞬間、ものすごい勢いで脳が回転し始める。
 やってしまった。やらかしてしまった。圭にだけは心配をかけまいとしていたのに。そして、圭の友人にまでこんな迷惑をかけてしまったのだという現実を今更深く反省し、さっきまでの安堵感は罪悪感へ変わっていく。
 時刻はもうすぐ20時半。きっと部活帰りに寄ろうとしていたであろう治療の受付はもう終わってしまっている。

「横山に事情を話したんで、駅まで一緒に帰りましょう」
「ご、ごめっ! 本当にごめんね」
「友達のお姉さんですし、日頃お世話になってるんで」
「今から院長に事情言えば入れてもらえると思うから! っていうか私からお願いするよ!」
「あぁ、いや。今日は治療しに来たわけじゃ…」
「え……なら、どうして…?」

 ぽつりと出た私の言葉は正しいはず。牧くんの家の最寄り駅はここではなく、家と同じ駅だったはず。
 さっきまで冷静だった牧くんはその大きな手で口元を覆い失言を悔いるかのような溜息をついた。そして「嫌な予感がした」と小さな声で漏らす。

「え?」
「昼間横山から、最近お姉さんの様子がおかしいって話を聞いて…その。前にさっきの男から言い寄られてるの思い出したんだ」
「――そのためにわざわざ来てくれたの?」
「……そうなる、な」

 細かい理由は俺にも分からんが、と続ける牧くんの言葉は純粋に嬉しかった。申し訳ないという気持ちはまだ胸に残っているけど、ここまでしてくれた彼に謝ってばかりなのはそっちの方が申し訳ない。少し前を歩く彼を呼び止めて「ありがとう。嬉しい」と伝えると、少し目を見開いた牧くんは「無事でよかったです」と照れたような爽やかな笑みを浮かべた。

 そのあと家の最寄り駅に着くと待ち構えていたのは怖い顔をしている圭。私たちを発見するや否や、とにかく牧くんにお礼を言って「月曜に改めて礼をさせろ」と半ば強引な約束をとりつけていた。
 そういえば今日は金曜日。こんな時間までつきあわせてしまって、明日牧くんは早朝練習とかあるのかななんて今更心配になってきた。
 圭の体がくるりとこちらに向き直ると、怒り8割に安堵2割といった具合の表情。「だから言っただろ!」と怒鳴られるのは想定内ではあったがへこむ。こんな姉弟の仲介役までさせてしまったのだから牧くんには本格的に何かお礼をしなくては。

 駅からの道をとぼとぼ歩く。圭の背中からはまだ少し怒っている様子が伺えた。こういう時の圭は本当に怖い。

「圭、ごめんね。心配かけて」
「……そう思うならもうするなよ」
「うん。今度からはちゃんと言うね」

 横に並んで圭の手を握ると少し汗ばんでいた。そういえば、牧くんの額にもうっすらとした汗が光っていたような気がする。

「牧くんへのお礼、何がいいかな」
「弁当でも作ってやれば」
「それお礼になる?」
「姉ちゃん、料理は得意じゃん」

 数時間後、お風呂上りの私に圭が「牧、弁当楽しみにしてるって」と携帯画面を見せてきた。正しくは"そこまで言うなら、よろしく頼む"と文末に汗マークつきの笑顔。
 その絵文字が牧くんそっくりでちょっと面白い。今週末はちょっといいスーパーまで足を延ばすことにしよう。
 

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