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 キッチンタイマーが肉じゃがの煮込み時間終了の合図を告げる。数時間前に一度冷ましたおかげで具材にしっかり味がしみこんでいて我ながらいい出来だ。
 そろそろ帰ってくる頃だろうと携帯で所在を確認しようとしたその瞬間、鍵がガチャンと開く音。よし、ピッタリ。

「ただいま姉ちゃん」
「おかえり。ちょうどご飯の準備できたとこ!」

 乱暴に脱ぎ捨てた圭の靴が玄関に転がる。踵を履き潰すなと何度言っても直らないローファーは見るも無残な姿だ。

 海南大付属高校3年の弟、圭との二人暮らしもなんだかんだ4年になる。私の方が家事の比率は多いけど納得してのことだし、この暮らしにもそこそこ慣れた。
 圭の着ている制服を改めて上から下までまじまじ見直す。…確かに、よく見なくとも全く同じ制服だ。つい溜息がでてしまう。

 数週間前からバイト先の整骨院に通院してる牧紳一くん。弟と同じ年齢で、しかも全く同じ制服を着ていたというのに彼が社会人であると疑わなかった。
 とっても申し訳ないことをしたと反省はしているが、でもあれは仕方なくないか?と、自分が100%悪いことにまだ納得できない私もいる。

「そういえば、牧に話したよ」
「なんか言ってた?」
「横山のお姉さんだったのか! って、すげー驚いてた」

 笑いながら手を合わせ用意した食事にありつく圭。あの日の夜「牧紳一くんって海南の生徒知ってる?」と圭に聞いたら「は? 有名人だけど」なんてサラリと返ってきたのだった。
 社会人に間違えたことを話すと健司くん同様大爆笑。「本人地味に気にしてんだよ」と涙を流しながら笑い転げる圭の言葉を聞いて罪悪感が更に重くのしかかったのは言うまでもない。

 牧くんが来院するタイミングは大体平日の夜。早いうちに治したいのか短期集中で来院しているうえ、全て私の勤務時間内なのでかれこれ6、7回ほど会ってる。
 もうお互い見慣れた相手になっているが、やはり高校生という事実はいまだ受け止め難いものがある。背は大きいし体格もいいし礼儀正しい。うちの圭も背は小さくないけど、やはりバスケ部で名を馳せているだけある。なんというか、全体的な大きさが違うのだ。

「姉ちゃんの無礼は俺からも謝っておいたから安心しろよ」
「もー。海南の制服って上下とも同じ生地だからスーツに見えるんだもん……でも、ありがと」
「つーか寧ろ、いつも丁寧に治療してくれてありがとうって礼言われたぜ」
「高校生の男の子って思春期特有の照れとかでマトモに挨拶してくれないのに、牧くんしっかり挨拶してくれるし、仕事の合間話し相手になってくれるから気分いいんだよね」
「仕事中に高校生とイチャつくなよな」
「ばか。そんなんじゃないって」

 お金をもらって働いてる以上仕事はきっちりするのが当たり前だけど、そこはやはり接客業。気持ちのいい相手には無意識のうちにサービス過剰になってしまう。

「っていうか、圭が牧くんと仲がいいのが意外。部活も違うのに」
「仲がいいっつーか、1年の頃から同じクラスなんだよ。で、バスケ部のエースとサッカー部のエースだろ?」
「なにがエースよ。結局辞めちゃったくせに」

 小さい頃からサッカーが好きでよく一緒に遊んでいた圭。てっきり高校も3年間部活に打ち込むものだと思っていたのに、2年に上がるタイミングで急に退部したから姉としてはその年一番の驚きだった。
 数年前までは「姉ちゃん、姉ちゃん」とベッタリだったのに、ここ最近は少し生意気な面が出てきて成長が嬉しいやら哀しいやら。複雑な気持ちである。

「食器なら俺が洗っとくから、姉ちゃんは先風呂入れば」
「ん。ありがと圭」

 とまぁ、なんだかんだ言ってもお互いただ1人の肉親。私のことを思いやってくれてるのは常に感じるから、可愛い弟に変わりはない。


***


 私の働く整骨院は昔から地域密着型で有名だ。院長の大らかな性格と抱負な知識もあってかここら一体の住民に長く愛されてると思う。
 私と同じ受付兼助手をしているハナちゃんの容姿は名前の通り華やかで特に男性の患者さんから人気があり新規は増える一方。

「さっきの患者さんいかにもハナちゃんにデレデレしてたけど大丈夫? セクハラされてない?」
「連絡先渡されましたけど、顔が好みじゃないんで無視しまーす」

 語尾にハートマークがつきそうな可愛らしい口調で酷いことを平気で言ってのけるハナちゃんのこういうところ、結構好きだ。
 大きな病院に比べると患者さんと受付スタッフの距離がかなり近い個人医院。勘違いする患者さんが多いことは最早あるあるで「ヤバイと思ったらすぐ俺に言うかシカトしろ」と院長からも日々言われてる。
 働く前は病院でナンパが多いなんて思わなかったが、それキッカケでゴールインする人は比較的多いらしい。実際、ハナちゃんが入る前にいた先輩はそうだった。

「心配なのは私より横山さんですよ〜」

 ゆったりした口調でいきなりそんなことを言われ驚く。確かに私だって連絡先を渡された経験のひとつやふたつあるが、ハナちゃんに比べればかわいいもの。
 けれど、彼女に言わせてみれば自分に近づくのは全て『遊びのやつ』私に近づくのは『本気のやつ』らしい。

「条件的にも人柄的にもいい男からの本気アプローチなら超応援しちゃいますけどぉ、過去のを見てると全部ヤバめなのが多いんですよねー」
「……怖いこと言わないで」
「半年前まで来てた建設会社勤務バツイチ子持ちの原さんでしょー、その前は医者で高収入だけど超空気読めない山田さん、その前は…」
「ハナちゃん、ストップ」

 すらすら出てくる人物からは確かにこっそり連絡先を渡された経験がある。けどそれをハナちゃんに言った覚えはないし、そもそも半年以上前の患者さんの職業まで覚えてるなんて一体この娘は何者だ。

「ちなみに今もロックオンされてるんで、くれぐれも気をつけてくださいね!」
「え……、ちなみに誰?」
「マスターです」

 かき消そうとしたシルエットがハナちゃんの言葉によってハッキリ顔まで浮かんでしまった。
 この地域で喫茶店を営んでるマスター。確か年齢は私より20は上だった気がする。若い頃自分がいかにモテたか、ここに来ては得意気に話す少し困った患者さんの一人だった。
 ナース服を着た若い子にちやほやされていると勘違いしている典型的なタイプ。こっちは仕事で面倒をみているだけだというのに。確かにあの人に好意をもたれるのは非常に面倒くさい。

「あの人なにかと理由をつけてしょっちゅう治療に来るけど、絶対大して痛めてないんですよ」
「この前は右手首で、それが完治した5日後に股関節……うーん、まぁ確かに痛める頻度はこの春から増えてるよね」
「あの人の武勇伝とか自慢話、横山さんがニコニコ聞いてるのが気分いいんですよー」

 私なんて適当に笑ってすぐ退散しちゃいますもん。横山さんも素っ気ない態度とった方がいいですよ。
 ハナちゃんからもらった忠告を肝に銘じ、手元のカルテを棚に戻そうとしたときカランコロンと扉の開く音がした。顔を出したのは昨晩弟との会話に上がっていた牧くん。

「牧くん。こんばんは」
「こんばんは。えっと、横山。……君から聞きました」
「アハハ、どうせいつも君つけてないでしょ。普通でいいよ」

 この時間帯はどうしても疲れ切ったサラリーマンやOLの人が多い。常連のおばあちゃんや差し入れをくれるおじいちゃんで溢れかえる午前中のアットホーム感はなく、淡々と仕事をこなす夜。だからこうして学生の子と交わす何気ない会話は結構楽しい。

「膝の調子どう?」
「おかげ様で、かなりいい」
「それはよかった。そういえば、インターハイなんだって? 圭から聞いたよ」
「あぁ……うちはシードだから、もう少し先だけど」
「毎年シードとか、やっぱり凄いよねぇ」

 私の母校も海南だったけど、その頃からバスケ部は神奈川最強の超強豪だった。
 圭から教えてもらったことだけど、牧くんはそこの現キャプテン。そして院長が「彼は神奈川ナンバーワンの選手だよ」なんて嬉しそうに話していたのを合わせると、今私が治療の案内をしている相手はバスケ界の超有名人ってことになる。
 確か前に健司くんが「俺は神奈川でナンバーワンのガードになる男だ」といつもの調子で豪語していたあれはどうなったのか。この間はライバルとか言っていたけど。

「牧くんって神奈川で凄い選手なんだよね?」
「そう聞かれると答えづらいが……まぁ、1年の頃から全国には行ってるな」
「健司くん、あ、藤真くんね。昔、俺は神奈川ナンバーワンになるんだぜって言ってたのを思い出して」
「……ほぉ」
「この前も言ってたけど、本当にライバルなんだね」
「ま、そんなとこかな。負けるつもりはないが」

 あ、今すっごく年相応の男の子の顔を見てしまった。負けず嫌いなスポーツ少年のギラギラした顔。
 些細なことだけど、やっぱり彼はまだ高校生なんだなと思えてなんだか少し安心した。

「おーい、楓ちゃんいるー?」

 ゆったりと心地よく流れていた時間を打ち消した陽気な声は扉の音が鳴るのと同時だった。院内に響いたその声の正体は、少し前にハナちゃんと話していた要注意人物。しかも酔っているようで、これには院長も眉をハの字にして呆れている。

「マスター。他の患者さんもいるんだから」
「まぁまぁ、俺と院長の仲じゃない。で、楓ちゃんは?」

 牧くんをはじめ、ちらほらいる他の患者さんの注目の的になっている玄関先。はぁとつい出た溜息は牧くんの耳にしっかり届いてしまったようで「大丈夫ですか?」と恐る恐る聞かれてしまった。

「ちょっと、行ってくる。あと何かあったらハナちゃんに言ってね」

 必死につくった笑顔は上手にできていたか分からないけど、精一杯の「大丈夫」を演じて向かった先はただの地獄だった。受付にいるハナちゃんの眉間にはその童顔に似つかわしくない皴。
 この後2人で飲みに行こうよ、なんて冗談みたいな誘いを受け鳥肌がたつ。院長の手伝いもあったとはいえ、帰ってもらうのに20分もかかってしまい今日一番の疲労がどっと肩にのしかかった。

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