11

 私がみっともなく泣きじゃくったあの日。少し冷たい潮風が吹いていたというのに、私たちは頬を赤くさせながら体が沸騰してしまいそうな時間を過ごした。
 帰ってすぐ圭にしこたま怒られることを覚悟していたけど、圭は私の頭をポンと軽く叩いただけだったから拍子抜けしたのを今でも覚えてる。
 そして、送ってくれた牧くんに「またね」と言ったもののあと少しで一ヶ月が経つ。きっと今頃、国体で頑張っているんだろう。

「牧も姉ちゃんもよく我慢できるな」
「なにが?」
「付き合うことになってから一ヶ月も。会わないどころか電話もしてないなんて」
「牧くんはあれからすぐ合宿って言ってたし、私も仕事があるし……。それに、もともと国体の後に会おうって約束だったから」
「生真面目なカップルだことで」
「あんたが不真面目なだけ」
「バカだな姉ちゃん。男はみんな下心の塊だぜ。牧だってすげー我慢してるに……」
「あー、もうやめてって! 会いにくくなるでしょ!」

 私だって何も知らない無知な女じゃない。高校生の男の子の頭の中がどうなってるかくらいなんとなく察しはつくけど、牧くんからそんな雰囲気は一切感じないし大人っぽい彼にいざ迫られでもしたらと思うと不安しかない。だってそれを許したら犯罪になってしまうのでは?
 実の弟に細かく話すなんて恥ずかしいことはしてないが、察しのいい圭は全て見透かしているようで居心地が悪い。
 逞しい腕に力強く抱きしめられたあの時の緊張や、聞こえてきた心臓の鼓動。長く感じた一瞬のキス。全部昨日のことのように思い出せる。
 だけど、あの時私の精神状態は相当おかしかったから、果たして本当に付き合う流れになったんだっけ?なんて疑問に思ってしまう時もあった。

 そのとき、テーブルに置きっぱなしの携帯がぶるると震えた。直感というやつか、慌てて画面を確認してみればやっぱり。随分前に登録した”牧くん”の名前が表示されていて、呼吸が浅くなる。急ぎ足で自室に籠る私の背後で圭が笑ってたけど、今はそんなことどうでも良かった。

「っ、もしもし!」
『あぁ、もしもし。楓さん?』
「うん……牧くん、久しぶり」
『登録しておいてよかった。……元気か?』
「うん、元気だよ。牧くんいま国体じゃ……」
『今日初戦だった。とりあえず一勝したから、報告』

 人のことは言えないんだろうけど、最初緊張気味だった牧くんの声がだんだんリラックスしたものに変わっていくのが分かった。この時間を心地いいと感じてくれてるのかなと思うと胸が暖かくなる。

「こうして話せるのは国体が終わってからだと思ってたから、ビックリした」
『……俺もそのつもりだったんだけどな』
「うん?」
『無性に楓さんの声が聞きたくなった』
「――っ、そ、そっか」
『そっちは?』

 意地悪な声がした。離れたところにいるはずなのに、耳元で聞こえる低い声のせいで後ろから抱きしめられてるような感覚。顔が見えないこの状況が唯一の救いだ。だって絶対いま顔が赤い。
 万が一扉の向こうに私の声が漏れてしまっては困る。だから「私も、聞きたかったよ」とすごくすごく小さな声で言うと、いろいろ察したのか笑い声が返ってきた。

『傍にいるのか? 横山』
「いないけど隣の部屋だし、聞こえたら嫌だもん。今の顔見られたらなんて言われるか……」
『顔?』

 ――しまった。いくら牧くんの声を聞くと気持ちが緩むからって、こんな盛大な墓穴を掘るとは。受話器の向こう側から聞こえてくる牧くんの声はいまだに意地悪で楽しそうだ。

『へぇ……それは、俺も見てみたいな』
「あー、もう嘘、いまのなし!」
『手遅れだな。もう聞いた』
「なんでそんな余裕あるかな」
『……そう聞こえるか?』
「違うの?」
『声だけでも……と思って電話したんだけどな』

 「余計会いたくなって困ってた」と続けた牧くんの声は照れ臭そうで、不覚にも胸がキュンと鳴る。そうやって大人を振り回さないでほしい。
 そして、約束通り来週会う日程だけ簡単に決めたあとは「おやすみ」と言い合って電話を切った。おやすみ、なんて少し照れてしまい重力に身を任せベッドの上に倒れこんだ。……声を聞いたら会いたくなったなんて。そんなのこっちの台詞だ。


***


 学生である牧くんと日中の予定を合わすのはなかなか難しく、結局半休をとって夕方からのデートになった。
 そして今日は待ち合わせ場所に向かう前、とっておきの和菓子を持ってシズちゃんに会いにきた。出迎えてくれた和夫さんに軽く挨拶をして、お線香の匂いがする和室に向かえば変わらず笑顔のシズちゃんに会えてホっとする。

「ありがとうね楓さん。志津子さん、きっと喜んでるよ」
「ふふっ。シズちゃんと恋バナするって約束してたんで、今日は報告に来たんです」

 和夫さんはにっこり笑って「そうかそうか。それじゃ、お邪魔しちゃ悪いね」と言って私とシズちゃんを二人にしてくれた。澄んだ鈴の音が響く。

 『優しくて、可愛いシズちゃんへ』
 お手紙くれてありがとう。少し勇気がいったし、凄く凄く悲しかったけど最後まで読んだよ。頼れる親族が少なかった私にとって、シズちゃんは本当のお婆ちゃんみたいな存在だったから、”孫みたい”と思っててくれたこと嬉しかったよ。いつも差し入れをくれたり、私の話を聞いてくれたり、恋愛のアドバイスをくれてありがとう。私もずっと大好きだよ。
 恋バナ、少し遅くなっちゃってごめんね。シズちゃんがいつか言ってくれたように、私は私の好きな道を歩んでいこうと決心がつきました。前にちょっと話をした彼のおかげ。今日はその彼と初めてのデートに行ってくるから、勇気をください。

 昨日の夜から纏めたおかげで、頭の中ですらすら出てきた感謝の言葉。瞼を開けると、目の前でにっこり笑うシズちゃんと目が合う。「とっても可愛いから大丈夫よ」と言われているような気がした。



「ごめん、お待たせ!」

 まだ少し早いかなと思って着いた待ち合わせ場所には、既に牧くんの姿があった。学校終わりのはずだからてっきり制服かと思ってのに。シンプルなシャツ姿は牧くんの背の高さやスタイルの良さを際立たせるから、少しだけ目のやり場に困る。

「いや、言うほど待ってない」
「制服だと思ってたからビックリした」
「まさか。さすがにそれはないな」
「どうして?」
「……楓さんも制服ならそのまま来たかもな」
「ゲホッ……!! か、勘弁して! そんな勇気ないよ!」
「俺が制服着てるんだから、それくらいどうってことないだろ」
「あははっ! すっごい自虐ネタ」
「うるさい」

 まだ会って1分くらいしか経ってないのに、口角が上がりっぱなしだ。こんなにすぐ楽しい気持ちでいっぱいになってしまうんだから、やっぱり牧くんは凄い。
 「じゃあ行くか」と向かった先はすごく無難だけど江の島。夕方からだし、遠出をして牧くんを疲れさせるのは嫌だった。本人は「気にするな」って言ってたけど、正直二人で会えれば場所なんてどこでもいい。
 だから今日は完全なノープランだったわけだけど、おかげで牧くんが興味がありそうなお店や食べ物を知ることができた。ちらっと向けた視線の先を見てれば分かる。「分かりやすいね」ってからかったら「人のこと言えるのか?」なんて笑われたけど。
 そんな私たちの目に同時に飛び込んできたもの。動きが止まったあと、まるで以心伝心のように目を合わせた。

「行く?」
「行ってみるか?」

 ほとんど同時に出た言葉に二人で笑い、今日初めて手を繋いだ。向かう先は展望台。一緒に展望台だなんて本当にデートみたいでつい頬が緩む。いや、デートなんだけど。

 展望デッキには平日のせいか人がぱらぱらいる程度だった。橙色に染まる海と夕陽が綺麗でちょっと眩しい。初めて牧くんと海に行った日のことを思い出すなと横に顔を向ければ、同じことを思ってたのか「あのへんだな」と遠くの海岸を指さした。

「え、あっちじゃない?」
「いや? この前楓さんが一人でいたのはもう少し左側だ」
「――ちがっ、そっちの話じゃないよ!」
「え? じゃあ何の話だ?」

 同じ駅の海岸だから場所としては微々たる差ではあるものの、私にしてみれば思い出の種類が違う。夕陽に照らされてるこの状況でどうしてこの間のことが出てくるんだ。

「恥ずかしいから忘れてよ」
「それは無理だな」
「私は忘れたい。あんなに泣いて喚いたの」
「俺は嬉しかったけど」

 今となっては忘れたいくらい恥ずかしいけど、確かにあの日がなければ今の幸せな時間はなかったかもしれない。
 少しむくれてると、眩しかった陽の光が牧くんの体によって遮断された。不思議に思い顔をあげると、頬を大きな手の平ですりっと撫でられた。ちょっと照れ臭そうな牧くんの表情がよく見える。

「――いいか?」

 この間は颯爽と人の唇を奪っておいて、今更確認するなんて。あの時は本当に止まらなかったんだなと思うと、更に顔に熱が集まってくる。なんでこの子はこんなにカッコイイんだろ。
 頷いた私を見るや否や、ゆっくり優しい口付けを落とされる。今更周りに人がいないかちょっとハラハラしたけど、誰もこっちなんて見てないみたい。重なってた唇がゆっくり離れたあと、牧くんは安堵の表情を浮かべると私のことをぎゅっと抱きしめた。

「付き合ってるんだよな」

 それは予想外の台詞だった。……付き合ってるって認識だったけど違ったのかな?
 「え」と小さく出た私の声に過敏に反応した牧くんは、しまったと言わんばかりに口を押さえてるようだったけど顔は見えない。

「そうだと思ってたけど……どうしたの?」
「悪い。聞かなかったことにしろ」
「聞いちゃったもん」
「……笑うなよ?」
「うん」
「あの日。流れで告白しただけだったからな……」

 お互いの気持ちを確認し合って別れたっきり暫く会ってなかった。電話でもお互い「好きだよ」なんて甘い台詞をストレートに囁いたりはしなかった。
 大人になると「好きです、付き合ってください」から始まる恋愛は減っていくけど、彼は高校生だ。もしかして不安にさせていたのかも。実感が欲しかったのかもと思うと”ごめん”の気持ちと共にもう一つの感情が生まれる。彼の厚い胸板で顔が隠されていて良かった。

「……おい。肩が揺れてるぞ」
「怒らない?」
「……言ってみろ」
「牧くん、かわいい」
「っ――、だから嫌だったんだ」
「ぐっ、苦しい! 窒息する!」

 よりいっそう強く抱きしめられ密着度が高まる。ちょっと苦しかったけど、これは牧くんの照れ隠しなんだなと思うとすっごく嬉しかったし、聞こえてくる心臓の音がとんでもなく速くてやっぱりかわいかった。
 心臓の音が少しづつ落ち着きを取り戻したのと同時に私を抱きしめてた腕の力が緩む。改めて見つめなおした牧くんの頬が紅く見えるのは気恥ずかしさからくるものか夕陽のせいか。

「今日ね、牧くんと会う前にある場所に行ってきたの。勇気をくださいってお願いしに」

 きょとんとした牧くんの口が開くよりも早く、彼の両頬に手を添えてキスをした。決してキスがし易い身長差ではなかったけど、ぐっとつま先に力を込めた分、私の想いがたくさん伝わるような気がした。

「好きだよ、牧くん。――大好きです」

 今度こそ、自分の意志できちんと伝えられた告白。牧くんは目を大きく見開いたあと、私から視線を逸らした。どうやら最上級の笑顔で言うことに成功したようだ。
 「敵わないな」という声と共にとびきり深くて熱い口付けが落とされ、暫くの間二人で幸せに酔いしれた。




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