10

 まるで眠っているかのような最期だった。和夫さんが目尻をうっすら濡らして私たちにそう言った。
 シズちゃんが亡くなった翌日。自宅葬だから仕事が終わった後にでもと言われ、院長と私とハナちゃんの3人で参列した通夜はひっそりと行われていて、親しかったであろうご近所さんが涙を流しながら手を合わせていた。
 ハンカチで口元をおさえ泣いてるハナちゃんと身を寄せて棺を眺めても未だに現実味がなくて頭がふわふわする。できることならもう二度と見たくないと思っていたこの光景は人生で二度目だ。悲しいはずなのに涙が全く零れ落ちない私は本格的に人の心を失ったのか、感情がバカになってしまったのか。

「お別れ、しようか」

 いつもより緊張感のある院長の声。私よりも長い付き合いなんだから当然だ。順々に焼香台へ進んでいき私の番まであっという間だった。
 いつも通り優しくてチャーミングな笑顔のシズちゃんの写真がすぐそこにある。合掌して瞳を閉じている間、どんなことを思えばいいのだろうか。真っ白になった頭の中でぐるぐる回っていたのは、これまでの思い出ばかりでお別れの挨拶なんてしっかりしたものは出てこなかった。

 近所の人たちが別れを惜しみながらぱらぱらと帰っていったあとも、私たち3人はほんの少しのお手伝いで家に残っていた。
 一番辛いはずの和夫さんを少しは1人にしてあげたほうがいいかもしれないけれど、遠方からやってくる家族の方が来るまでの間。少しでも何かしてあげたかった。

「志津子さんがね、よく話すんですよ。皆さんのところでお世話になってることを楽しそうに」

 和夫さんは私たちに「ありがとう」と何度もお礼を言うと、箪笥の引き出しから取り出した三通の手紙をそれぞれに渡した。院長、ハナちゃん、そして私に宛てられたシズちゃんからの手紙だという。
 ここのところ体調が優れないのは知っていたけど、まさかこんなことになるなんて。人間は思いもよらないことでいなくなってしまうことは痛いほど知っていたのに。
 とてもその場では開けられない手紙を鞄に閉まって、私たちはゆっくりその場を後にすることにした。


***


 世界というのは酷く残酷で、どんなに辛いことがあっても変わらず朝はきてしまう。今日もいつもと変わらない平日の光景。
 全焼していく家と共に両親が命を落としたというのに、何故世界は止まらないのだろうと幼いながら思った日のことを強く思い出した。だって私の中の時間はあの日確実に止まっていたから。

 明るい挨拶で出勤してきたハナちゃんの目元はまだ少し赤い。「あの手紙を夜読んだのは失敗でした」と悲しげな笑みを浮かべている。結局私は、家で読む気にもなれず未だ手元の鞄の中で眠っている。
 その日うちに来院した患者さんの半数はシズちゃんの死を悼む人ばかりで、改めてみんなから愛されてたお婆ちゃんだったんだなと心が温まった。


 いつも通り仕事を終えたあと、私は最寄り駅の手前で下車し夕暮れの街をふらふら歩いて、辿り着いた先はいつか来た海。
 あの時のような夕暮れはとうに過ぎていて、辺りはもう真っ暗。海岸へ続く階段の端にちょこんと腰を下ろしボーっと黒い海を眺める。静かに聞こえてくる波音が心地よかった。
 鞄の中の手紙を丁寧に取り出して封を切ると、お線香の匂いがふわりと香る。昨日のお通夜で嗅いだのとは少し違う。普段シズちゃんから漂っていた優しくて上品なお香の香りだ。

 『優しくて、頑張り屋さんな楓ちゃんへ』の一文から始まるシズちゃんの綺麗な文字。こんな手紙を書いて悲しませたらごめんねという謝罪と、孫がいない自分にとって私やハナちゃんは孫みたいに可愛い存在だった、こんなお婆ちゃんを相手にしてくれて本当に嬉しかったという感謝と、大好きよという気持ちがたくさん綴られていた。――そして。

「楓ちゃんは楓ちゃんの道を……」

 ”あなたらしくいられる人生を。自分のために歩んでね。ずっと見守ってるわよ。”

 そう締めくくられていた手紙を綺麗に折りたたんで何も考えられなくなった。こんなにたくさんのものを貰ってたのに、私はシズちゃんに何か返せていただろうか。あんなに楽しみにしていた恋バナも結局できないまま、こんなに呆気なく終わってしまった。やっと、好きだと思う人と向き合おうとしていたのに。聞いてほしい話がたくさんあった。教えてほしいことがまだたくさんあった。
 大切なものって、どうして失ってから気がつくの。


「――楓さんっ!」

 後ろから急に声をかけられて体がびくりと反応した。掠れた低い声にほんの少し焦ったような吐息が混じっている。あぁ、まずい。目頭がカっと熱くなるのを必死で堪えた。
 ゆっくり後ろを向くと、眉間に皴を寄せている牧くんの姿。

 ――なんで、いるのよ。よりによって、こんなときに。

「急にいなくなったら、心配するだろ!」
「えっ……そんな……」

 ほんの数分のつもりだった。だけど実際私はここで一時間近く座り込んでいたみたいだった。手元の時計を見ると、いつもなら家にいる時間をすっかり過ぎている。今頃圭が探し回ってるのか、すぐに携帯で電話をかけ始めた牧くん。こんなこと、確か前にもあった。
 電話を切ったあと、もう一度深い溜息をついて私の横に座りこむ牧くんのブレザーは少しくたびれていて、申し訳ない気持ちでいっぱいになった。

「……怒ってるよね」
「当たり前だろ」
「ごめん……国体の練習とか、あったんじゃないの?」
「今日は普通の部活だ。ちゃんと終わらせてから来たから……それより、無事でよかった」

 前見たく遠慮がちに「大丈夫でしたか?」なんて言う牧くんはもういない。これじゃまるで圭みたいだ。
 牧くんを前にすると張り詰めていた神経が切れてしまうから困る。今だって平気な顔でやりとりをするのがやっと。私の声、震えてないよね?

「横山から大体の話は聞いた。……辛い、よな」
「っ――、ちがっ……ほんと、ちょっとびっくりしただ……っ」

 訃報を聞いたときも、祭壇を見たときも、さっき手紙を読んだときだって出てこなかったはずの感情が胸の奥から溢れだす。
 喉と鼻の奥がツンと痛くて目頭がカァっと熱くなっていく。あ、ダメだ。そう思うと同時に、決壊を起こしたようにぼろぼろ涙が勝手にでて、次第に嗚咽がこみ上げてくる。

 どうして。なんで来たの。1人にしてほしかった。

 でもきっと、心の奥底で私は会いたかったんだ。だからここに来た。恥ずかしい、情けない、嬉しい、悲しい。いろいろな感情がごちゃ混ぜで頭が痛くなるほど泣いた。
 そんな私を見て牧くんは驚いた様子を見せることもなく、優しく肩を抱き寄せて胸を貸してくれた。一定のリズムで聞こえてくる彼の心臓の音はまるで精神安定剤のようで、乱れた心が少しづつ元に戻っていく。

”気になる人がいるのね”

 ――いるよ。そう言ったら、シズちゃんは目をキラキラさせて喜んでくれただろうか。

「すき……」
「――え、」

 涙が枯れ果て、気持ちが落ち着いたときポロリと出た私の台詞はとても大胆なものだった。うっかり口に出てしまった。
 これには流石の牧くんも動揺したのか、耳元で鳴っていた鼓動が一際大きな音をたてた。そして私も。つい、うっかり出てしまった言葉をどう取り消せばいいのか焦った。

「っ――、なんで……なんで来たのよ! こんなことされたら、私、頼っちゃうじゃない! 1人で頑張るって決めたのに……これ以上、求めるつもりなんてなかったのに。優しくなんかしないでよ! 私の中に、もう入ってこないでよ……バカ……!!」

 恥ずかしさや嬉しさ、焦りや不安といった牧くんへの感情はどんどん怒りへと変わり、もうどうなってもいいと気づいたら口が勝手に思いをぶちまけていた。どん、と力なく分厚い胸を叩く。それこそ子供みたいに何度も何度も。

「……言いたいことは、それだけか?」

 いつの間にかしっかり握られていた腕。辺りが暗くてよく見えないけど、少し離れた場所にある街灯の微かな光でうっすら見える。真剣な目。私はこの目にいつも弱い。
 スンと鼻をすすると、その後大きな腕に体をすっぽり包まれぎゅっと抱きしめられた。熱い吐息が耳元にかかってくすぐったい。

「好きだ」

 シンプルな言葉が私の心臓を突き刺す。枯れ果てたと思っていた涙がまた静かに流れ落ちた。

「……恋愛に、興味ないんじゃなかったの?」
「楓さんには興味があるな」
「狡いよ……そんなの」
「いつだったか、今したいことをするのが1番だって言ってただろ? ……バスケは勿論だけど、楓さんも俺にとっては大事だ。それに、楓さんのことになると体が勝手に動くらしいんだ」
「だから……ここに来たの?」

 圭から私が帰ってこないことを聞いて、すぐにこの場所が頭を過ったそうだ。私の考えなんてお見通しということか。
 落ち着いた声色とは打って変わって、聞こえてくる牧くんの心音は激しい。私がぎゅっとしがみつくとその音は更に加速していく。

「私、いつも牧くんの前で泣いてる」
「光栄だな」
「かっこ悪いね、私」
「そんなとこを見せる相手が1人くらいいないと、これから生きにくいだろ」
「……いいの?」
「……好きな人に頼られて嫌がる男がいるか?」

 少し恥ずかしいのか、微かに紅潮している頬に手を添えるとやはり熱い。涙でぐしゃぐしゃになった顔を大きな指で拭われ、目元にちゅっと控えめな音をたてられれば今度は私の頬が熱をもってしまった。おでこ同士をコツンと当ててお互いの熱を感じて、あぁもうくらくらする。


 まだ小学生だった圭と2人で親戚の家で過ごして、高校卒業と同時に私は一人暮らし。2年も経たないうちに圭がこっちに転がり込んできたのは驚いたけど、親戚の家でお世話になっているよりずっと心地よさそうだった。
 いままでわざと触れてこなかった昔話を牧くんはただ静かに聞いてくれて、嘘みたいに心が軽くなっていく。可哀想がるわけでも、頑張ってねとも違う。頭を撫でる大きな手からは「これからは俺がついてるぞ」というどっしりした優しさが詰まっているようで安心する。

「親戚とは、微妙な仲だったのか?」
「ううん。寧ろ逆。すっごく良くしてくれてたからこそ、申し訳なかった」

 まだ学生の娘さんが2人。そこに私と圭が転がりこんだのに、嫌な顔一つせず接してくれた親戚の叔父さん夫婦には感謝しかない。なのに、その優しさに甘えきれず逃げだした。
 そこまで黙って話を聞いてた牧くんが掴んでた私の手に力を込めた。

「俺は離してやらないぞ」
「え?」
「俺は、一度掴んだからには離さん」

 バレてる。私がとんでもない臆病者だってことも、すぐ逃げ腰になってしまうことも全て。
 敵わないなぁと、今日初めて頬の筋肉が緩んだ気がする。そして視界が真っ暗になったと同時に感じる唇の熱に息をするのを忘れた。暫くしてからその温度がなくなると、形のいい牧くんの唇が視界に入って今更恥ずかしくなってきた。

「……今のも、体が勝手に動いたの?」
「止まらなかったのは事実だな」
「本当に私でいいの?」
「ああ。楓さんがいい」

 自分がこんなに泣き虫だったなんて、こんな些細なことで幸せだと思えるなんて知らなかった。
 長いこと立ち止まったままだった分岐点。一歩進んだ先は想像よりずっとキラキラしていて、暖かい温もりが傍にあった。

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