08

 小さい頃、好きなものがたくさんあった私の部屋には物が至る所に置いてあった。おもちゃ、ぬいぐるみ、洋服、キャラクターのカードやシール。
 なかでも特にお気に入りだったうさぎのぬいぐるみは毎晩抱いて眠っていたくらい。小学校を卒業する年齢になった頃、さすがに抱いて寝ることはなかったけどいつでも枕元においておくくらい大事だった。

 高校1年の春、圭以外の全てを失った炎の熱さと息苦しさは今でも忘れない。メラメラ燃える炎なんかより、大切なものが次々と目の前で消えてなくなってしまうことが異常に怖かった。これをトラウマというのだろうか。
 そしてあの日を境に、物や人に強い執着心を抱かなくなった。否、もしかしたら無意識のうちに抱かないようにしていたのかもしれない。今では気軽に連絡をとれる友人もいない。それを悲しいと思わないだなんて、人の心を失ってきているようだ。
 実家が全焼してから数年、意識的に必要最低限のものしか置かなくなった私の部屋はえらく殺風景で味気ない。



 私の自慢は体力があることとあまり体調を崩さないことだったのに、数年に一度今日みたいに高い発熱で動けなることがある。
 高熱がしんどくて辛いのは当たり前として、こんな時は決まって嫌な夢を見るのがたまらなく嫌だった。現に勢いよく飛び起きた私の体は汗でぐっしょり濡れていた。

「ごめん……圭」
「うおっ、ちょっと待ってろ。今タオル持ってくる」

 カレンダーはつい先日8月の用紙を破ったばかりだった。夏の疲れが一気に出たのか。
 今年は適度に息抜きをしたのにな、と渡されたタオルで汗を拭いながら深呼吸した。まだ心臓がドクンドクンと激しく鳴っている。

 先月のお祭りの2日後、牧くんに誘われて朝の海に行った。
 最後の休みだから数時間だけ時間をくれと、あまりに真剣に言うからつい頷いてしまったけど、失敗だったかもしれない。
 きらきら光る水面が眩しくて、朝の心地いい風を感じながらなんてことない話をする。それだけの時間をすごく幸せだと感じてしまった。昼からの仕事に行きたくないなと思うほど。
 牧くんといる時間は楽しくて、癒される。心がぽわっと温かくなる。高校生の患者さんで、圭の友達だったはずなのに、いつの間にか圭を介すことなく会って楽しい時間を共有できる仲になってしまった。

「働きすぎだよ」
「今年はセーブしてたよ」
「じゃあ、牧が帰ってきて気が抜けた?」
「……なにそれ」
「好きなんだろ?」
「高熱を出して苦しんでる姉に言う言葉?」
「弱ってるときじゃないと素直になんねぇだろ。特に俺には」

 お祭りの日会えたとき、嬉しさと緊張からか自分の声が震えたことに驚いた。あぁ、私この人にこんなに会いたかったんだって。
 この帰り道がもっと長ければいいのに。会えなかった分できなかった話がもっとしたいのに。そう思っていることに気がついて咄嗟に気持ちに蓋をした。
 年の差を気にするとか、そういう話じゃない。ただ純粋に、大切なものが増えてしまうのが怖かった。
 牧くんは不思議な子だ。年下なのに頼りがいがあって、私のなかにするりと入ってくるのが上手。だからつい甘えてしまいそうになる。でも、時折見せる年相応な表情や姿を見てハっと立ち戻る。この子はまだ高校生なんだ。しかも、将来有望なスポーツマン。

「好きとか嫌いとか、そんな余裕あると思う?」
「無理やりなくしてんだろ」
「あんたと自分のことで手一杯なの」
「そうやって俺を言い訳に使うのやめろよ」
「……ごめん。そういうつもりじゃなかった」

 沈黙のあと、熱があるときに悪いとだけ言い残した圭はタオルと濡れたパジャマを持って部屋を出ていった。激しい姉弟喧嘩はあまりしないけど、こうした言い合いはたまに起こる。

 ”たった1人の弟のため”というのが私の全ての行動起点だった。それを重く感じたことはなくて、寧ろそれがないとあの頃は立っていられなかった。
 圭ももう高校3年生。私が自分のやりたいことを全て犠牲にしていると思ってるあの子は、きっとそれが不満なんだろうと薄々気づいてはいた。だけどそれは間違いだ。
 忙しいそうに見えて、私の心の中は空っぽだ。自分のやりたいことが分からない。将来何がしたいのか分からない。別にそれでも構わないと思ってたのに、大切なものが勝手にできてしまうのは何故なのか。

 たった半年。されど半年。どんどん自分の中で大きくなってる牧くんの存在が怖い。これ以上踏み込んでしまうと自分の足場が崩れてしまいそうだった。だって彼の前ではいつの間にか緊張の糸が解けてしまっているから。
 殺風景な部屋に飾られてるうさぎのマスコットが視界に入って、くらくら眩暈がしてきた私は重たくなった瞼を閉じた。


***


「38.9℃!? そんな熱出したのによく今日出てこられましたね!」

 お昼休憩、スタッフルームでハナちゃんとご飯を食べながら昨晩の熱の話をしたら酷く驚かれた。

「今朝ケロッと治っちゃってて。弟にも呆れられた」
「夏の疲れですかねぇ。ごめんなさい、夏休み私の方が多くて」
「全然! 稼ぎたかったし助かった」
「ちゃんと遊んだりしました? 海とかぁ、プールとか旅行とか! あ、あとはお祭り?」
「うーん……海とお祭りなら、少しだけ?」

 ぽろっと出た言葉の些細なニュアンスの変化をこの子が勘付かないはずがなかった。既にハナちゃんはシズちゃんと恋バナをしている時のように目がキラキラしている。

「違う、そういう人じゃないよ」
「でも今ちょっと恥ずかしそうにしてましたよね?」
「いやいや」
「えー。横山さんの好きな人気になるなぁ」

 幸いここに院長はいない。これはもう止めるより話に乗ってしまったほうが楽だろうと観念した。

「でも、その人とは付き合うとかにならないよ」
「まさか! ワ、ワンナイト的なアレですか……?」

 声を潜めたハナちゃんの言葉に時間差で顔がボンっと熱くなった。一瞬でも牧くんとの、その、所謂そういうのを想像してしまったから。年下相手にホント何をしているんだ私は。
 散々動揺したあとしっかり否定しておいたけど「へぇ〜」と言ってるハナちゃんの疑いの目はまだ消えてない。

「フリーの状況ならそういうのもいいと思いますけどね」
「……それは経験談?」
「気持ちを切り替えてしまえばそれもいい思い出です!」

 胸を張って言ってるハナちゃんから後悔してる様子は全くなく、寧ろいい経験だったんだなと感じさせるほどだった。

「あんまり深く考えないで突っ走っちゃうんですよねぇ私。その時は120%の愛情が確かにありますし! 自分の行動にはそれなりに責任をもってるつもりですし、その日だけの関係だったとしてももうそれっきりと思えば意外とスッキリしちゃうんです」

 私より年下だけど私より豊富そうな恋愛経験。踏んでる場数の違いか、その言葉には妙な説得力があった。
 自分の気持ちに逆らうことなく思い切って踏み込んでしまえば少しはこのモヤモヤが楽になること、頭で理解はしていた。なのに心が追いつかない。

 食べ終わったお弁当箱を片付けながら、なんでそんなに慎重になっているのかと疑問を投げられた。確かに今の私はいろんなことに臆病になってる。

「なんだかんだ、気持ちが惹かれたらもう仕方ないですよ。だって好きになっちゃったら止まんないですもん。既婚者とかはあり得ないですけどね」
「たとえば、それが田中や山田姓の人だったら?」
「うわー! 悩みます! 悩みますけど〜、でも本当に大好きなら結婚しますよきっと」

 あんなに自分の名前にコンプレックスを持ってたハナちゃんが笑い飛ばしながらそんなことを言うのは意外だった。

「人生って取捨選択の連続じゃないですか。その時どっちが大事なのか、どっちに行きたいのか。結局生きてくなら何かしら切り離したり捨てなきゃダメなんですよ。今のとこ私は山田花子にはなりたくないですけど、なってもいいくらい山田太郎さんを好きになっちゃったら、小さいプライドは捨てますね」
「……もし、自分が選んだ相手に切り捨てられたら? いなく、なっちゃったら?」
「うーん、辛いですけど……それってその時になってみないと分かんないですよねぇ。でも、どんな結果になっても自分の選択を後悔する生き方だけはしたくないですし、その人ともし上手くいかなくても幸せだった時間は一生私の中で残るじゃないですかぁ」

 「だからぁ、それを糧に前を向いて頑張ってきますっ」と、相変わらずキャピキャピした口調できっぱり言い切るハナちゃんはとてもカッコ良かった。お洒落と恋バナが大好きで、常に彼氏が欲しいと言って項垂れる姿は、どこにでもいる女子大生だったのに。見た目で判断していた訳ではないけど、この子はなんて芯の強い子なんだろうと尊敬してしまった。
 それに、人生は取捨選択と言われてハっとした。だって私はこれまで、選択肢を作らないよう生きてきた気がするから。

「なんか、凄い。刺さっちゃった……」
「えっ! そうですか? 母親からはよくノー天気って叱られるんですよぉ。もっとよく考えなさいって。……失恋も失敗も辛かったですけど、やっぱり選ばなきゃよかったとは思ってませんね〜。そのくらい好きでしたし。きっと、横山さんと私を足して割ったらちょうどいいのかもですねっ」
「ふふっ、確かに」
「横山さんはきっといろいろ考えすぎなんですよ。仕事でも、いつも人のこと優先して。そういうとこ大好きですけど、少しは自分のために動いてもいいと思います。特にそれが恋愛なら、人に譲るなんて考えちゃ駄目ですよ! 当たって砕けても院長や私がついてるんで安心してください! 恋バナなら、今度シズちゃんも交えてゆっくりしましょっ」
「あははっ、ハナちゃんのなかでどんな相関図になってるの? うん、でも……ありがとう。少し元気でた」

 私がついててもちょっと頼りないかもですけど、と笑って休憩室を後にしたハナちゃんは全然頼りなくなんかなくて。寧ろ今の私より何倍もしっかりしていると思った。

 ”手を差し延べると不思議と助けてくれる人はいるものなのよ”

 いつだったかシズちゃんに言われた言葉と今のハナちゃんの言葉が重なって、胸がじんわり温まった。


***


 その日の帰り、最寄り駅で大きな背中を見つけた。こうして偶然に偶然が重なったのは何度目だろう。人はこういうのを必然とか、運命とか呼ぶのだろうか。
 声をかけるべきか悩んでいると、前を歩いてた牧くんは改札前の柱に背中を預け立ち止まった。そして時計を見ようと横にずらした視線に私がばっちり入ってしまった。

「わっ、楓さん」
「こ、こんばんは。牧くん」
「なんだ。いたなら声かけてくれれば」
「いや……なんか、誰か待ってるみたいだったし」
「次の電車が来るまで待ってみようかなって思ってただけだ。――もう会えたから、問題ない」

 心臓をぎゅっと鷲掴みにされたような息苦しさに言葉を失った。
 狼狽えてる私を気にも止めず、牧くんは鞄から取り出したピンクのカードを差し出してきた。ラミネート加工されたそれには”海南祭招待券”のポップな文字。

「知ってるだろうけど。来週、文化祭なんだ」
「あぁ! そういえばそんな季節だね……」
「うち、招待制だろ? 二枚は親に渡したから、これは楓さんにと思って」
「ありがとう……。け、圭にでも渡しといてくれたらよかったのに。たまたま今日会えたからいいようなものの」
「……迷惑だったか?」

 優しくて、カッコ良くて、酷い男の子だと思う。それは天然なのか計算なのか。力なく首を横に振ると安心したような微笑みが返されて、また私の心臓はぎゅっと握られる。

 好きだ。もう、いつからか。私はこの人に惹かれてる。

「文化祭、日程が合ったら遊びに行くね。わざわざありがとう! こ、この後ちょっと寄るとこあるから、今日はここでお別れ」
「あぁ。じゃあ、気をつけて」
「うん。牧くんも」

 背を向けて少し小走りで駅前のビルに逃げた。大して走ったわけでもないのに息があがる。ドクンと響く鼓動と臆病な私の想いが加速していく音がやけにうるさくて耳を塞いだ。

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