誰も知らないピースサイン2





「ネクタイが曲がっていますよ」

 後ろから腕を軽く引かれて、足を止めて振り返った。そしてつけていたネクタイを軽く引っ張られて、俺は引っ張った人物の顔を見上げた。

「……なんてことがあったの、覚えていますか?」

 強面は健在だが、この長い年月でそんな表情は慣れて、どんなことを考えているのかも大体把握出来るようになった。

「……違いますよ。『ネクタイ曲がっていましたよ』です」
「はは、そうです。良かった、未央さん覚えていてくださったんですね」

 ニコニコと明るい笑みを浮かべる暎紘さんに、俺も同じくらいの笑顔を返した。すると暎紘さんの顔がどんどん近づいてきて、とうとう俺の唇に暎紘さんの少し弾力のある唇がくっついてきて、口を割って舌が入ってきた。

「ん……っ」

 クチュリ、と生暖かい舌が口内を占領するように這いずり回り、コクリと喉が鳴る。
せっかく歯磨きしたのにな……。

「ふ、……あき、……」

 ヂュルリ、と音を立てて唇が離れていった。閉じていた目を薄く開くと、目の前にはやけにじっとりとした熱い視線を向けている暎紘さんの顔があった。俺はサッと視線を逸らして時計を見た。

「時間ですね……名残惜しいです」
「……そんな。まるでもう僕が帰って来ないみたいに言わないで下さいよ」
「未央さんに会えない時間が長すぎるんです」

 するりと腕に何かが這う感覚。俺は置いてあったバッグを素早く取って、暎紘さんにクルリと背を向けた。

「暎紘さん、いってきます」
「……いってらっしゃいませ」

 振り返って見た暎紘さんの表情はなんだか悔しそうで、それでいてそれを堪えているような表情だった。無理矢理笑顔を作ったって、何年も一緒に暮らしてきたんだ。分かるに決まっているのに。俺はそんな暎紘さんにまた背中を向けて今度こそ家を出た。ネクタイを少し緩めると息が軽くなる気がする。

 東京に来てから3年の歳月が経っていた。今年の春から俺の学年では就職活動をすることになってはいるのだが、もう俺の務める先はほぼ決まったも同然のような形だった。二学年上の各務先輩という人が、俺の就職先の支援をしてくれていたのだ。だから、これからの一年は学校に通いながら紹介してくれた就職先に手伝いにいくことになっている。

 俺は、晴れて大企業の新人として入ることが決まったのだ。もう、なににも囚われ、恥じらうことも無い。それはどんなに俺の心を晴れやかなものにしたのか、考えるまでもないことだ。
 しかし、最近暎紘さんの様子が少し可笑しくなっていた。多分、そのことに関してだと俺は疑っている。きっと、俺が暎紘さんから離れようとしているのが、透けて見えているのかもしれない。もともと、暎紘さんは家に嫌われている俺を好いていたのだと思う。かわいそうな俺を。だから、最近は俺を家の外に出したくない様子で、学校へ向かう朝ですら俺を離すのを嫌がる。そして今朝のように、悔しそうに、それを押し殺した表情をして俺を見送るのだ。


「おはよう」

 突然背後から掛けられた声に、俺はビクリとして振り返った。

「久しぶり、未央にぃ」

 最後に聞いた怒鳴り声とは、幾分か声が低くなっていて、髪の毛が少し伸ばされて肩に着きそうだった。表情は幼い頃の、俺の後ろを付き従うように歩いてきていたあの頃のような俺を兄と慕う笑みが張り付いていた。

「なんで、麻貴……」
「なんでって、僕も未央にぃと一緒の大学にしたからだよ。これからは一緒だね」
「そんな……お母様と父さんが許すはずない……」

 お父さんならまだしも、麻貴がお母様のそばを離れることを許すだなんて、あるはずが無い。あんなにも麻貴を手放したがらなかったのに。

「そんなことないよ。新しく弟が出来たから、二人とも今はそっちに夢中なんだ」
「……え……?」
「新しい弟だよ。聞いていなかった?」
「そんな、今更……いくつだ?」
「もう、二歳になるかな。未央にぃが出て行った直ぐ後でわかったんだ」

 そう、なのか。全然知らなかった。確かに家からはたまに思い出したように封書が届いていたけど、俺は開けはしなかった。すべて暎紘さんに頼んでいたし、暎紘さんは知っていても俺に知らせることはしなかったんだろう。でも、流石に麻貴がこちらに来ることは教えてほしかった。

「まだ、一緒に住んでいるんだね」
「え?」
「あの使用人の人さ」
「……あぁ、そうだ」

 麻貴は意味有りげに俺に笑って見せた。また、ああやって罵られるのだろうか。そう思い身構えていた俺に、麻貴はさらに近寄ってきた。

「大丈夫、もう何もしないよ」
「…………」

 麻貴は俺の持っていた鞄に、自分の真新しいピカピカの鞄をトン、とぶつけた。

「俺は未央にぃの弟だから」

 ゴクリと、喉が鳴った。これからも俺は、麻貴を守っていかねばならないのだろうか。


「そうですか、麻貴さんが」

 食器を洗っている暎紘さんに、今朝のことを話すとあっさりと暎紘さんは頷いた。知っているとは言わなかったけど、薄い反応からして、やはり封書には書いてあったのだろうと思う。何故言わなかったんだとは思わない、それは俺が望んだことだ。

「それで、今日の学校はどうでしたか」
「……特に、変わりは無かったですよ。各務先輩が会いに来てくれたくらいかな」
「……各務、さん。勤め先を支援してくださった方ですね」
「そうです、変わりはないかと気遣ってくれました」

 わざと煽るような言い方をしてしまった、とは思っていた。それでも暎紘さんは対して怒ってもいない様子だったから平気だと、そう思って見逃してしまった。
 その晩は風呂に入り、暎紘さんより先に床に着いてしまったが、夜中になぜか目が覚めてしまい起き上がろうとすると、身体に違和感を感じた。

「あッ……?!」
「……あぁ、おはようございます。未央さん」
「あ、暎紘さ、ぁ……なんでっ」

 暎紘さんは俺の胸に顔を埋めて、その先の飾りを口に含みコロコロを転がしている。俺はその小さな快感と、腹に潜り込んでいる大蛇のような鉄の熱さに嬌声を上げた。

「なんで……未央さんがあまりにも愛らしくて、思わず引き寄せられてしまいました」

 その表情は暗くて見えないが、やはり俺に怒っているようだった。各務先輩の件も、きっと麻貴と再会したことも、どちらにも怒っているようだった。俺に非は無い筈なのに。

「あっ、ぁ……ン」

 ガツガツと奥を抉られて、快感に慣れた俺の身体はいとも簡単に涙を流す。止め処なく溢れる欲の塊は、俺の腹と暎紘さんの腹を汚した。

「こんなに、可愛らしいのに。ずっとそばに置いて置けないだなんて……神様も酷いことをするんだな」
「ウっ、あっあっ……はぅ、ん……」
「はあ……小さい頃から俺だけがそばにいたのに、それでも俺を置いていくと貴方は言うんですからね」

 暎紘さんは悲しんでいるというよりも、俺を責めているのだと思った。俺がずっと暎紘さんを縛り付けていたかのように、それでいて俺が急に手綱を離したのだと、そう語っているように思えた。

「初めて懐いてくれたのは、俺だったはずなのに……」
「ヒギ、ァ……ッ」

 恥骨が俺の平たい尻に押し付けられている。そして中をグルリと抉じ開けるように腰を回す。その熱の切っ先が、もう入らないという処まで忍び込んで来て、俺の頭の中は真っ白にぼやけて、突然ピカリと稲妻が走った。

「ぁ……アー……」
「……あぁ。温かい」

 じょろじょろと言うはしたない音を聞きながら俺は気を失って、くたりとマットに身体を落とした。

「ちゃんと生きているんですね、未央さん」


「おはよう、未央にぃ」

 心臓がキュッと音を立てて、縮こまったような気がした。麻貴の声を聴くと、なんだか罪悪感めいたものが身体を通り抜けるんだ。……昨日、暎紘さんと致したからかもしれない。その事を後ろめたいのかも。

「ああ、おはよう」

 少し遅れて反応を返すと、麻貴は俺の顔をジッと見たままに、時間が止まったかのように動かないでいた。どうかしたのか……。

「まただ。またなんだね、ずっとなんだ」
「な、なに……」

 手首を急に掴まれて、心臓がヒヤリとする。まだ何も責められてはいないのに、麻貴の瞳に覗かれると、すべて悟られているような気がするんだ。

「まだあの使用人に抱かれてるんだね」
「……ッ……!」

 麻貴はクリクリした眼を狐の様に細めて、俺を笑った。まるで俺が自分の意思で暎紘さんに抱かれているのだと言っているような瞳だった。そんなこと、ある訳がないのに。

「その沈黙は肯定って事だけど、いいの? 未央にぃ」
「……別に、もう知っていた事だろう。否定する事もない」

 俺は観念した様に、息を吐き出す序でに矢継ぎ早にそう返す。別に、麻貴に知られた所でどうと言う事は無いだろう。

「そうか、そうだよね。ここには父さんも母さんもいないからね、監視の目が無くてヤリ放題っていう訳か」
「オイ! 口を慎め、麻貴」
「……やっと、やっと名前を呼んでくれた……っ」
「うわっ……!」

 ギュウ、と勢い良く抱き着かれて、ヨロリと足がふらついた。

「あの時から、ずっと家には戻ってこなかったから、ようやく聞けた」
「…………」

 麻貴は、子供の頃から気分の上下が激しかった。だからきっと、あの時もついそんなことを言ってしまったのかもしれない。俺も、図星を突かれてつっけんどんな態度を取ってしまっていたよな……。

「ずっと、未央にぃを待っていたんだよ」
「麻貴……ごめん。寂しい思いをさせたよな」

 そうだ。弟が出来たと言っていたんだ。麻貴が放置されていたことが容易に分かる内容だった。それなのに、俺は自分のことばかりで、あまつさえ麻貴のことを煙たがってしまった。それは、俺がされて嫌なことだったのに……。

「ううん。こうしてまた未央にぃと会えたから、そんなのどうでもいいんだ」
「…………」

 下がる様に背中に麻貴の指先が食い込む。俺も麻貴の肩に腕を回した。麻貴はたった一人の俺の弟なんだ……。

 日曜日。暎紘さんと一緒に遅めの朝食をとっていると、明るいチャイムの音が部屋に響いた。

「誰でしょう。見てきますね」
「はい。お願いします」

 暎紘さんは持っていたお箸を置いてから、少し小走り気味に玄関へ向かった。それにしても、暎紘さんは体力が鬼のようにあるよな。昨日の夜も、今朝だって……。俺のことを持ち上げながらずっと下から突き上げていたくせに、疲れるってことを知らないのだろうか。

「……やめよう。なんだか変な気分になる」

 箸で目玉焼きを突くと、キミがトロリと溢れだしてくる。俺はそれに醤油を垂らした。

「ちょっと、待ってください」

 ドタバタと廊下で足音がする。それも多分……二人?俺は思わず箸を置いて立ち上がってドアを見つめた。だって、もしかしたら強盗だとか、そういう奴かもしれない。

「未央にぃ!」

 ドアを勢いよく開け放ったのは、一昨日だって顔を合わせた麻貴だった。麻貴はニコニコと笑みを浮かべていて、そのままの勢いで俺に抱き着いてきた。俺はそんな麻貴を抱きとめたが、後ろで暎紘さんが苦虫を噛み潰したような表情で床を見ていた。

「……麻貴、どうしてここが……?」
「お父さんに居場所を聞いたんだ。お金しか払ってないから分からないなんて言うから、少し時間が掛かっちゃったんだけどね」
「そ、そうなのか……。でも、連絡くらい寄越したって……」

 そう言って麻貴の顔を見ると、急に麻貴は人形になったかのようにごっそりと表情を抜け落とした。俺はそんな麻貴に一気に肝が冷えた気がした。

「したよ、連絡。見ていなかったんだ」
「あ……れ、そうなのか。昨日は早く寝ちゃったから……」
「嘘だ」
「……え?」

 ギュウ、と胸元のシャツを握られて、少し目線が下にあるはずなのに、上から見下ろされている気分だった。

「麻貴さん」

 後ろで固まっていた暎紘さんが止めに入ってくれるが、麻貴は気にも留めないというように俺をジッと睨み付ける様に綺麗な瞳で見ていた。

「……お、起きていたけど……でも携帯は見てなかったんだ」
「なんで」
「そ、れは……その」

 なんだか責められているようで、俺はどうこたえるか迷った挙句言葉を詰まらせた。これじゃ、麻貴の思う壺だ。きっと麻貴は俺が、昨晩なにをしていたか気付いているはずなのに。

「この人とセックスしてたんだ?」
「……っ……」
「やめてください、麻貴さん!」
「そういえば、お風呂の明かりがずっと点いていたね」

 俺は黙って麻貴を見つめた。暎紘さんも諦めた様子でこちらを伺っている。

「……麻貴」
「なあに、未央にぃ」
「そうだよ。俺と暎紘さんは、してた……だから連絡が見れなかったんだ。ごめん」
「うん、いいよ。分かっていたから」

 俺が素直に正直にそう話してみると、麻貴はスッといつもの表情に戻った。そうだ、麻貴は嘘が嫌いだったな……。

「ところでね、未央にぃ」
「……どうした」

 弟に自らの性事情を話した事への気まずさと羞恥から、俺は笑顔を浮かべる麻貴から目を逸らした。

「僕、越してきたんだ!」
「……どこに?」

 急な報告に思わず麻貴に向けて訝しげな視線を向けた。なんでそんな事を今……。

「この部屋の、未央にぃの部屋の隣に!」
「……は……」
「どう? 嬉しい?」

 ニコニコと太陽のような笑みを浮かべて、俺の喜ぶ顔を待っている麻貴。俺はそんな麻貴をただ見返す事しかできなかった。なんでそんな、急に隣になんて……。

「……喜んで、くれないの?」
「そ、そんなわけ無いじゃないか。ただ、急だったから驚いて……」
「じゃあ嬉しいの?」

 そう聞かれて一瞬問いに詰まったが、瞬時に麻貴の眉間に寄ったシワを見て俺は声を上げた。

「う、嬉しいに決まってるだろ。でもなんで、隣には他の人が居たはずだ」
「そうなんだ? 僕が訪ねた時は空いてるって言ってたんだけどなぁ。……不思議だね」
「……っ……」

 俺は背後に立つ暎紘さんに視線を移した。暎紘さんも流石に麻貴がこの家の隣に越してくるだなんて、知らなかったみたいだった。目を見開いて麻貴の後姿を凝視していた。なんだってこんな、隣になんか……。この部屋だって一人で借りるには十分すぎるくらい広いのに。

「これから楽しみだね、未央にぃ。お隣さんでも、よろしくね」

 麻貴はニッコリと笑って、俺のダランと垂れた腕を掴み握ってきた。俺はそれに笑顔を作って、ただ麻貴の温かい手を握り返した。


「あ、やだ……暎紘さん……っ」
「……なんで、こんな事になっちゃったんですかね」

 暎紘さんはここ最近のストレスを俺にぶつけるように、強く尻たぶを握った。痛くはないが変な気分になってきた俺は、半泣きになりながら必死に身体を捩った。

「未央さんもそう思いますよね?」

 あれから本当に麻貴は隣に越してきたみたいで、毎日のように俺と暎紘さんの家に押し掛けてきた。悪気のない麻貴に俺が何か言えるわけもなく、暎紘さんとの触れ合いはだんだん少なくなっていた。

「ぁっ!」
「未央さんも、気軽に麻貴さんに触れさせないで下さい……俺だって、妬いてしまうんですよ」

 暎紘さんは掴んでいた尻をグッと広げると、顔を出したそこに濡れた指を差し込んだ。

「ぅ、あ! あ、ぁ……」
「……未央さん、少しキツくなっていますね。でも、これはお仕置きですよ。未央さんが麻貴さんにばかり優しいから……」
「ぅっ! あぁあっだめ、むり……やだっ」

 グググ、と暎紘さんの切っ先が、指が入っているままの俺の中に潜り込もうとして入ってくる。流石に切れてしまう……そう思った時だった。


「なにしてるの」


 湿った部屋のなかで、急に温度の低い声が響いた。暎紘さんは直ぐに俺から身体を離し、俺はその反動で身体を弓の様にしならせた。。

「俺がいつも来てたのに、未央にぃはそんなに遊び相手が欲しかったの」
「……へ……」

 暎紘さんに今まで触れられていたソコが熱を持ってジンジンとしている。ここにいるはずのない麻貴の声が聞こえて、俺は幻聴かと思いチラリとその声の方を見ると、麻貴が扉に寄り掛かり痴態を晒している俺に目を据えていた。

「あさ……き」

 喉に声が張り付いて上手く発音ができない。麻貴は嫌悪感や不快感を想っている表情では無くて、ただワガママを言っている子供を見ているような目だった。まるで俺が意地を張っているかのように思っているのかもしれない。

「……っ」

 固まったままだった暎紘さんが動いて、俺に毛布を掛けた後にのそりと立ち上がった。そしてふらりと麻貴の下に行ったかと思うと、急に頭を下げた。

「……麻貴さん……旦那様には、どうか……」
「え……暎紘さん」

 麻貴はそんな暎紘さんをちらりと一瞥したかと思うと、すぐに視線を俺に戻した。そしてにっこりと顔に笑顔を浮かべたかと思うとそのまま口を開いた。

「未央にぃ、こんなオモチャを誑かして。勘違いさせちゃってるじゃん、可哀想に」

 麻貴は部屋に足を踏み入れて、俺の散らばったTシャツなどを踏みつけながら俺の下に歩いて来た。そして布団の上で芋虫のように丸まっている俺の目の前で膝を折り、俺に目を合わせた。

「ほら、未央にぃも言ってあげてよ。『勘違いさせてゴメンネ』って」
「え……」
「早く言えよ」

 俺はその低い低い声を聴いた瞬間、ああ間違っていたんだ。麻貴はきっと俺のことを頼れるお兄ちゃんだなんて思ったことはない。きっと守ってもらおうだなんて考えたこともないのかもしれない。そう思った。

「ぁ……勘違いさせて、ごめ……あ、暎紘さん」

 暎紘さんは振り返って俺を信じられないという風に見つめて、突っ立ったままだった。麻貴はふっ、と息を吐いて笑った。

「だってさ。兄弟ふたりで話したいことがあるから、少しどこか行っててよ」

 麻貴がそう言うと、暎紘さんはゴクリと息を飲み、それからまた俺をちらりと視界に入れてから背を向けて出て行った。

「悪い子だね、未央にぃ。暎紘さんはきっと未央にぃに捨てられたって思ってるよ。ずっと未央にぃを見てくれてた唯一の人なのにね」
「な……っお前が」
「でも、未央にぃもそう思ってたから言ったんでしょう?」
「…………」

 そんな麻貴の言葉に俺は何も言い返せずに視線は宙を彷徨った。麻貴はそんな俺の様子を見てか、鼻だけで笑ってから「早く服を着て」と言った。それから熱気の籠る部屋に暑い、とだけ呟いて部屋を出て行った。

「未央にぃはやっぱり俺がいなきゃだめだね」

 服を着てリビングに戻った俺に、ソファに我が物顔で座っていた麻貴がにっこりと満面の笑みを浮かべて言った。麻貴はずっと俺に対してそうやって思っていたのかもしれない、今ならわかる。麻貴に求められていたのでは無く、俺が麻貴を望んでいたのだと……そう、麻貴は思っている。

「……そう、なのかもしれないな」

 今思い返してみて気付く、きっとそれはあながち間違いじゃないのかも知れなかったと。実際俺の幼い頃は暎紘さんと出会うまで、麻貴のことしか見ていなかったし、俺の存在意義は麻貴が生きている限り有り続けるなんて考えていたこともあった。麻貴がいなければ今の俺だって必要なくて、あるはずのない存在なんだと本心で思っていたんだ。
 それから暎紘さんと出会い、色々突っ込む所はあれど一緒にいることが増えて近しい存在になって……あれは思えば寄生先を変えた害虫のようだったかもしれない。麻貴だけを求めていたわけでは無かったけど、結果として麻貴がいなければ俺はなにも出来なかったのだから。暎紘さんとだって出会っていなかったかもしれない。

「そうだ。弟の写真が送られてきたんだ。ちゃんと歩けるようになったんだってさ」
「え……なんて名前なんだ?」

 麻貴が持っている携帯に映しだされたのはくるくるの巻き毛の男の子で、真ん丸の瞳はこちらを不思議そうに見ていた。そしてその瞳の色が、湖のような澄んだブルーで巻き毛だってゴールドで光を透かしたように煌めいていた。

「……これは、誰の弟なんだ……俺たちじゃない、だろ?」
「新しい使用人のジルがお父さんなんだって、そうお母さんが言っていたんだ」
「……は……? なに、言ってるんだ……」

 巻き毛の男の子は画面が暗くなって消えていた。俺はどうしても頭が働かなくて、ただその黒い画面を凝視しているだけだった。使用人のジル……? お母様がなんだって……?

「女の人って、新しいもの好きなんだよ」
「麻貴……」

 麻貴は依然として笑顔で、俺はそれがなんだか怖く見えて思わず指先が震えた。どういうことなのか、聞こうとして口を閉じる。きっと麻貴に聞いた所で俺は信じることも理解することもできないだろう。俺の心の中でなにかがガラガラと崩れていった気がした。


「未央さん」

 あれから俺はどう過ごしていたのか、分からない。ただいつの間にか暎紘さんが帰ってきていて、いつものように俺の食事を作り、麻貴も一緒に食卓に着くことが多くなった。

「……暎紘さん」

 暎紘さんはちらりと玄関の方を確認して、俺に手を伸ばして来た。いつものように腰を抱かれて、顎を掬い取られて暎紘さんと視線を合わせた。そして近づいて来た暎紘さんと唇を合わせた。

「……未央さん?」

 暎紘さんはいつもと違う俺の様子に気付いたのか、濡れた唇を離して俺を見つめた。暎紘さんの眉間に小さく皺が寄り、俺を心配している様子なのが分かった。

「……麻貴がそばにいる時は、こういうのは少し止しませんか」

 顔を逸らしてそう言うと、暎紘さんが息を浅く吐いたのが分かった。俺は身体を離してからソファに腰を掛けてテレビをつけた。
 ガヤガヤと煩くテレビの中の人たちが様々に喋っているなかで、俺の後ろではいつまで経っても足音が聞こえずにいた。

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