誰も知らないピースサイン


  


「あなたはこんなこともできないのですか」

「申し訳ないです、お母様……」

「あなたを産んだ覚えはありませんわ
もっとこの家に見合うようなお人になって頂かないと困りますの」

「……はい、申し訳ないです」

「……さっきから申し訳、申し訳と馬鹿の一つ覚えのように……
思いたくはないけれど貴方は一応、麻貴さんの兄なのですよ」

「はい……」

「今後は麻貴さんにご迷惑の無いよう、いい加減面倒をおかけするのはおやめになさったらどうですか」

「はい、」

そう言ってからお母様は俺の顔も見ずに、サッと横を通り過ぎて行った。
今回は全面的に俺が悪い、麻貴に怪我を負わせてしまったのはどう考えても俺のせいだ。
それでお母様が怒り、俺に当たるのも理解できる。
これからは当分、夕飯は抜きになるかもしれないな……。

「……未央にぃ」

「麻貴、ごめんね……痛いよね、」

麻貴の額にはガーゼが貼られていて、そこからは少し血が滲んでいる。

「ううん、大丈夫だよ
それより僕のせいで怒られちゃった……ごめんね」

「違うんだ、俺がちゃんと見てたら麻貴は怪我しなかったんだよ……
ごめんね、麻貴……こんなお兄ちゃんで、」

使用人のひとに麻貴がカブトムシを採りたいと強請っていたのを見た俺が、取って見せるよと誘ったんだ。
そして大きな木に見合う大きなカブトムシがいるのを二人見つけて、俺が網をとってこようと目を離した隙に麻貴がその木に登ってしまった。そして案の定足場が途中で無くなり落ち、その途中で枝に引っかけた額に傷を作ってしまった。
俺は慌てて麻貴を負ぶって使用人の人に手当をしてもらった。

「こんなの、どうってことないのに……未央にぃも言わなくて良かったんだよ
僕が自分で上ったんだから」

「でも、俺がそこにいたらきっとキャッチ出来たんだ……俺が悪いよ、痛いよね」

お母様に報告しなければと俺はお母様の元に走ったのだが、見られてしまっていたらしい。

「あの人も、言わないって言ってくれてたのに……」

あの人とは、手当をしてくれた人のことだろう。いつも俺の事を気にかけてくれていたから、本当に黙っていてくれたのかもしれないけど……きっとバレたらその人が怒られるだろうし、それだったら俺がちゃんと怒られた方が何倍もマシだ。

「俺が悪いからちゃんと謝っただけだよ
麻貴も、大人になったらきっと分かるよ」

「……」

麻貴は不満そうな顔をしながらも、渋々と言った感じで「分かった」と、頷いてくれた。

「……僕も、大人になったら未央にぃの気持ちが分かるかな」

「どうだろうね
そういう大人になって欲しいな」

「うん……」

麻貴は、小さいからまだ分からないんだ。
俺の気持ちも、お母様の気持ちも勿論お父さんの気持ちも……他のみんなの気持ちも。


俺は物心ついた頃からなにもかも分かっていた。
俺はこの家にとっては、あまり良くない存在で。
みんなも、俺の扱いにはどうしたら良いのか困っていることも。

特にお母様はそうだ。
だって俺はお父さんの愛人の子だから……俺はそういうつもりは全く無かったけど、だからって関係ない。お母様にとっては俺は悪魔の子の様なものだ……むしろ悪魔とすら思っていると思う。

俺が3歳を少し過ぎた頃に、こっちに貰われてきた。というか、引き取り手がいなかった俺にお父さんがしょうがないからと目を掛けてくれたからだ。

俺はお父さんがいなかったら、きっとどこかの施設にでも行っていたんだと思う。だからお父さんとお母様には感謝してもしきれない……家もご飯も洋服も、ちゃんと用意してくれているし……これ以上わがままなんか言えない。

俺はまだまだ子供だ……だから、大人が考えるような先のことも分からないし、俺一人の世話だって満足に出来ない。
だけど周りの大人が俺をどういう目で見てるかだけは、ちゃんと分かっているつもりだ。


「……未央さん」

足音も無く、障子の外から聞こえてきた声に俺は慌ててペンを置いた。

「はい」

ささっと障子に寄って隙間を開けると、その前に立っていたのは使用人のうちの一人だった。

「昼間は大変でしたね、」

「いや、そんな……元々は俺が悪いですし」

この人は麻貴の事を手当てしてくれた人で、いつも送迎だとか力仕事を任されているように思う。

「夕飯を食べないのは成長期には良くありませんので、コレ作らせました」

「……え、……」

サッと出されたのはおにぎりが二つと、沢庵が乗ったお皿で……俺は思わず使用人の人の顔を見上げた。

「で、でも……」

「いいんです、本当は他の使用人も夕飯抜きだなんて反対なんです
僕のお夜食として作ってもらったので後でお皿は貰いにきますね」

「わ、悪いですそんな……バレたら、」

お母様から俺の部屋は随分離れているので、気付かれる事は無いかもしれないが、万が一という事もある。
それでバレたら、作った人も渡した人も……お母様からお叱りを受けるだろう。

「大丈夫です
美礼様は旦那様とお出掛けなさいましたのでご心配無く」

「……ご、ごめんなさい
ありがとうございます」

俺は頭を下げて、お皿を受け取った。
涙が出そうなくらい嬉しかった……、だけどここで泣いたらきっと、同情を買っているみたいでなんだか良くないから……ぐっと気持ちを堪えた。

「いいえ、そんな……当たり前のことですよ」

「……ありがとうございます……」

少し強面なその人は笑って、障子を閉めてから帰って行った。
俺……あの人の名前も覚えてない……失礼すぎるな……。

ずっとここに居る人の名前は覚えていたりするけど、あの人はつい最近入ったばかりの様に思う。
だからきっとここの事がまだ分からないんだ……お母様が俺にどんな感情を抱いているのかも分からないのかも知れない……その関係も……。

俺はおにぎりを食べながらも、この先のことを考えて悲しくなった。
あの人も、きっと何れかはみんなみたいに俺を腫れ物みたいに扱うのかも知れないから。


「暎紘さん、おはようございます」

「未央さん、おはようございます
今日はどこかへお出掛けですか」

「あ、はい……
少し公園に行こうと思って」

強面の人は暎紘さんというらしい。
というのはいつも食事を作ってくれる家政婦の佐藤さんに聞いた。佐藤さんはいつもお喋りで、この家のことをなんでも知っている。俺が小さい時からここにいる人で、俺の前では俺に分け隔てない対応をしてくれる良い人だ。

「……そうですか、暑いので気を付けて下さいね」

暎紘さんは少し家の方を見てから俺にそう返して来た。

「うん、ありがとうございます
夕食の前には帰ってきます」

多分暎紘さんは気付いたんだと思う。
今日は珍しく、お母様もお父さんも昼間から家にいるんだ。だから俺はコソコソと家を出て公園に暇を潰しに向かった。

何をするでもないので、公園にあるあづまやで日陰に入りながらボーッと周りを眺めていた。
そして夕飯時になったぐらいから、辺りから美味しそうなご飯の匂いが漂ってきて、やっと重い腰を上げて帰路に着いた。

「お帰りなさいませ、未央さん」

「ただ今帰りました
夕食には間に合いましたか?」

多分庭の門を開ける音を聞いていたのか、玄関に入ると暎紘さんが立っていた。

「……実は、皆さまは外食に行かれまして、私共もお暇を頂いております」

「えっそうなんですか?
すいません、お邪魔しちゃって……じゃあもう部屋に入りますね」

お休みになったのに、わざわざここまで出てきてくれるなんて、やっぱり暎紘さんはいい人だ。きっと事情を知っているのにも関わらず、こうやって接してくれてる……。

「あ、いえ……お待ちください、未央さん」

「はい? どうしました……」

「佐藤は今いないので、出来は申し訳ない程度になってしまうのですが……もし良かったら私が夕食をお作りしても良いですか?」

「え、でも暎紘さんも外食とか……申し訳ないです、俺の為に自分の時間を潰すだなんて」

俺が首を振りながら遠慮してそう断ると、暎紘さんは少し悲しそうに笑った。

「いえ、そんなこと無いです
外食はあまり好かなくて孤食もあまり好きではないので、未央さんが良ければと誘ったのですが……出過ぎたことを致しました」

「えっ! いや、顔を上げてくださいっ
そんな事俺にはしなくていいです!」

暎紘さんは俺にスッと頭を下げて詫びたようだったが、そんなことを俺にしなくても……むしろ俺が感謝してるくらいなのに……。
俺は慌ててそう言って暎紘さんの肩を擦った。

「……ていうか、むしろ俺が一緒に食べてもいいんですか……」

「っ!
もちろんです、未央さんが良ければ一緒にお食事を共に出来たら……」

「……すいません、やっかいになります」

俺はぺこりと頭を下げて暎紘さんにそう言った。
暎紘さんはその強面を緩めて、にっこりと笑った。

それから暎紘さんが御飯を作ってくれるのを待って、二人で親子丼とサラダ、おしんこを食べた。
簡単なものですいません、と暎紘さんは頭を掻いて謝ってきたが、俺はそんな事無かった。むしろ、俺の為に作ってくれた御飯ってだけで、本当にうれしくて涙が出そうになったくらいなのに……。

いつもは俺だけが暗い食事も、今日は暎紘さんと二人だからそんなこと無くて、親子丼も美味しくて会話も楽しかった。
その日の夜は初めてのことだったから胸がドキドキして、なかなか寝付けなかった。


「ねえ、未央にぃ」

「ん? どうした」

庭でシャボン玉をしていた麻貴が突然シャボン玉を吹くのをやめて、俺を呼んだ。
俺は変わらずにシャボン玉を空へ飛ばしていると、麻貴がそのシャボン玉を器用に手で割った。

「あ、ひどいなぁ」

「あのアキヒロさんて人と仲良いんだね」

「んー? そうだね、仲良くしてもらってるよ
麻貴もおでこを怪我した時にガーゼ貼ってもらっただろう」

「うーん、覚えてないや」

「お世話になったのに、」

「ふーん」

麻貴はそれだけ言って、またシャボン玉を飛ばし始めた。
俺もそれに従ってまたシャボン玉を飛ばした。



「暎紘さん、おはようございます」

「おはようございます、未央さん」

玄関の前を箒で掃除していた暎紘さんにそう声を掛けると、振り返った暎紘さんが笑ってそう返してくれた。

「あ、待ってください」

そう言って駆け寄ってきた暎紘さんは俺の首元に手をのばした。
俺は下に視線を向けたが、なにもみえない、なんだろう……。

「ネクタイ、曲がっていましたよ
これで完璧です、いってらっしゃいませ」

ネクタイ、直してくれたのか。
ポン、とネクタイの上を優しく撫でられて、ふと暎紘さんを見上げた。

「行ってきます」

この春中学校を卒業した俺は無事に進学校と言われる高校に入学した。
本当は中学校を卒業したらこの家から出て、働きに出るつもりだったのだが、久々に顔を合わせたお父さんに進学先のことを聞かれて咄嗟にこの辺りで有名だった学校の名前を出してしまった。でもその時のお父さんの笑顔が嬉しくて、そこから猛勉強して……無事に入学をすることが出来た。

お母様も、喜んではいなかったけど「高校に入るぐらいならそこしか許していなかったわ」って言ってくれたから……褒めてくれたのかな、なんて勝手に思ってる。

だから毎日この制服に身を包めるのが、凄く嬉しい。頭だけが取り柄だったから…頑張って本当に良かったと思う。もちろん、これからが重要だってことは分かってるけどね。

何というか、最近はお母様もあまり俺に口を出さなくなってきた。だから、やっぱり今までは俺に非があったのだと再確認する。高校生になって、家にいることが少なくなりそのせいでお母様に負担を掛けることが減ったのかも知れない。もしかしたら、麻貴が中学生になって、そちらに目を掛けることが多くなったからかも知れないけど……いずれにしろ、お母様に平穏な日が訪れたようで良かったと思う。

「未央さん、少し手伝ってくれませんか」

「あ、はい!」

高校生になったからか、良くこの家の事を頼まれることが増えた。男手が足りないからかも知れないけど、暎紘さんは良く俺を手伝いに呼んでくれる。俺はなんだかこの家の役に立ててるようで、それがたまらなく嬉しかった。

「実は、倉庫の中の掃除を頼まれまして……それを未央さんに手伝っていただけたらと……」

「はい、大丈夫です 任せてください」

そういうと、暎紘さんはたまらなく嬉しそうに笑った。暎紘さんの後ろについて庭の奥の方にある大きな蔵に足を踏み入れた。
あんまりここには来ないし、麻貴が小さな頃からお母様には麻貴をここに連れてくるなと口酸っぱく言われていたから蔵の中に入るのは初めてだった。もっとも、入ろうとしても南京錠がそれを拒んでいたのだけど。

今は南京錠は暎紘さんの手によって解錠されて、重い扉が鈍い音を立てて開かれた。その瞬間、むわっとした空気が顔を包んで、俺は目を閉じた。

「……こちらに」

暎紘さんが先に中へ入り、俺も暎紘さんに言われるがままにその後に続いた。

「……わっ!」

少し進むと、足元にあった大縄のようなものに足を掬われて転げそうになった。
しかし、すんでのところで暎紘さんに身体を支えられて、そのままの勢いで抱き寄せられた。

「……あ、ありがとうございました……」

驚いた事によってドキドキと煩い心臓を抑えて、足元から暎紘さんに視線を移した。
すると、意外にも暎紘さんはちっとも笑って無くて……むしろなんだか真剣そうな顔をしていた。

「暎ひ……っン……!」

顔がグンと近付いてきたかと思うと、唇に冷たい感触が触れて、半開きだった唇から口内へなにかが侵入してきた。

「ぅっ……ふ、……ンン」

口内を縦横無尽に、乱暴な動きをするのは多分暎紘さんの舌だった。俺は縋るようにして暎紘さんの肩に爪を立てた。
気付くと、ベルトは外されてズボンの前は寛いでいた。俺は何もしていない、と言うことは暎紘さんが全てやったのだろう。

「あきひろさ、……っ
やだ……、なにしてっ!」

パンツの中に手が入ってきて、ヒンヤリとした感触が股間を包んだ。
暎紘さんの腕が、俺の身体を支えるように腰に回されていた。

「あ……っ!
やぁ……っやめてよ……!」

暎紘さんは俺の声が聞こえないかのように、一心不乱に俺の股間を弄った。
腰を支えていたもう一方の手は、いつのまにか俺の上半身に伸びていた。

「やっ……ぁ、ああっ……やら、……ッ」

「……き、……きです……っ」

「ぁ、アッ……!」

首筋にジワリと痛みが走って、俺は暎紘さんの真っ直ぐな髪の毛を引っ張った。蔵に熱気がこもっているせいで汗がダラダラと垂れているのに。

「すき、……好きなんです、未央さん……っ」

「あっ……ぁ!」

何度も何度も、頭を馬鹿にするような薬みたいに。
甘く甘く叫ぶように暎紘さんは、それから何度も俺の名前を呼んで好意を伝えてきた。

俺が堪らず性を吐き出すと、その後も何度も俺の股間を弄ってきて……俺はその刺激に耐えられずに漏らしてしまった。……高校生にもなって……。
それなのに、暎紘さんは馬鹿にするでも無くて謝ってきて……だけど暎紘さんも俺から出たその汚い川に向かって性を吐き出していた。


「未央さん」

「暎紘、さん……」

夜になって、みんなが寝静まる頃に暎紘さんは寝間着姿でコッソリと部屋にやってくる。
いつも上げている髪は下ろされていて、格好も随分と余裕がある格好をしている。
そして背負っている雰囲気もいつもよりも断然甘い。

「今日は、羊羹を持ってきましたよ
……夜のおやつです」

そう言ってお茶と羊羹を差し出して、にこりと微笑む暎紘さん。
俺はそんな暎紘さんに、うんともすんとも、NOとも言えない日々を送っていた。

その毎日の逢瀬は話すだけの日もあれば、あの蔵での出来事のような事をする事もある。だんだんと身体の内部を暎紘さんが侵食していっているようで、俺はそんなに触れられなくても息が上がるようになってしまった。
暎紘さんは、そんな時でも普通の話をしている時でも、構わずに俺に愛を囁く。
例えば自分の育ちを俺に話している時には、こんな事を他の誰にも話したことが無いと優しく笑い……自分にこんな幸せな時が来るとは思わなかったと甘く語るのだ。

俺はそんな暎紘さんを見ていると、なんだか自分を見ているように思えてならなかった。

身体を触れ合わせる時だって、蔵のような乱暴な真似はしない。優しく優しく、まるで雲に触れるように俺に熱を寄せる。時折、眉を寄せてなにかの衝動に耐えているようにも見受けられる。

それを強制させているのは他の誰でも無い、俺の存在が暎紘さんをそうしているみたいだった。

きっと、俺が暎紘さんを拒んだとしたら……暎紘さんは構わず俺のことを見捨ててしまうだろう。
今までのことはなんだったのだと、暎紘さんは怒り、悲しみ、とにかくマイナスな感情を剥き出しにするのだろう……そんなのは俺みたいな馬鹿でさえも予想がついていた。
暎紘さんに好意を向けられるのは嫌では無い。しかし、それに甘んじて身を寄せていることも出来ない。宙ぶらりん、それが俺の的確な状態だった。

つまり俺は暎紘さんに身を寄せることも、離れることも望んでいない。ただ、今のままであり続ける事が俺の中で、多分一番重要なんだと思う。

だからきっと、こうやって身体を繋げたりして……囁かれる愛を受け取る事が、この状態を継続させることに他ならないんだ。

キスをすると和菓子独特の甘い味がお互いの口を繋いだ。蔵の時の俺は、キスをした事も無ければ想像すらした事がなく、息継ぎの仕方もろくに分からなかった。だけど、暎紘さんはこのいくつかの月の中でゆっくりと身体で実践して教えてくれた。

「未央さん……」

優しい目をして俺の名前を呼び、強面であった顔は切なげな表情に変わっていた。俺はそんな暎紘さんを見て、ホッと胸をなでおろす。俺は暎紘さんから求められる事が、嬉しくもあり怖くもあるんだ。
いつかこの関係に亀裂が入り、暎紘さんに歪んだ眼差しで睨まれるような事があれば俺はきっともう……。

「未央さん、好きです……
愛しています」

「……はい、」

なんと答えるでもなく、俺はそのまま曖昧に返事を返した。

そんな関係は俺が高校を卒業するまで続いた。
三年の歳月を経た今でも、俺の暎紘さんへの想いはよく分からないものである。きっと世間一般には理解されないかも知れない、だけど、暎紘さんを手離すという考えはどうしても俺には出来なかった。
暎紘さんは俺に答えを求めて来ないし、俺もその方がありがたかった。体良く勘違いをしていてくれればとすら思った。実際、暎紘さんがなにを考えているのか……何回も身体を繋げたというのに、考えは透けて見えない。

高校までの教育だと思っていたが、それは大学まで続く事になった。これもお父さんの計らいだった。
進学校を卒業するのだから、大学も、という話で……お母様のことが心配だったが、特に反対も出なかったらしい。
だから俺はまた頑張って、俺の頭が届く最上の大学に合格し、入学する事になった。それでもお父さんは誉めてくれた。そして、暎紘さんも……。

しかしその大学に通学するには実家から出る必要があった。いわゆる一人暮らしというやつだ。
俺は安い下宿先でもあればと探したが、今時そんなのは無く、シェアハウスとか……そういうものに行き着いただけだった。
その話をポロリとお父さんに零すと笑われ、悩みとはそのことかとまた笑われた。
どうやら大学での一人暮らしの費用も全てお父さんが出してくれるという事だったらしい。きっと、出世払いというやつだと俺は思った。


「未央さん!」

「どうしたんですか、暎紘さん」

暎紘さんが珍しく、足音を荒だてながら俺を呼んだ。

「私も、未央さんと共に東京に行く事になりました」

にっこりと至極嬉しそうに、そして俺も喜ぶと思っているようなその表情に、俺は呆気にとられてぽかんとしてしまった。

「未央さん、これでこれからも一緒ですね」

「そ、そうですね」

腕に暎紘さんの手が触れて、優しく包むように握られる。その手を、俺はどうしても振りほどけなかった。

「未央にぃ、東京に行っちゃうの」

ふと聞こえてきた声に、俺は振り返った。
暎紘さんの腕も慌てた様子で離れていき、一歩後ろに暎紘さんは下がった。

「……麻貴、
うん、そうだよ」

「なんで?」

俺と同じ高校の制服に身を包んだ麻貴が、俺を睨むように見ていた。
多分、俺に自慢がてら制服を見せにきたのかも知れない。

「大学が、東京にあるんだ」

「ここから通ってよ!
金なら父さんが出してくれるんだろ!」

「……麻貴さん……」

麻貴が足を踏み鳴らすようにして、俺に近寄ってきた。シャツを掴もうと麻貴が手を伸ばすと、すかさず暎紘さんが間に入ってくる。

「……どうせ……」

「?」

「……どうせ、コイツだろ
コイツとイチャつく為に東京に行くんだろ」

睨むよりももっと強い視線が俺を射抜く。
俺はハッとして顔を背けた。

「馬鹿なことを言うな
暎紘さんは俺を手助けに……」

「違う!
ずっとずっと知ってた、未央にぃはコイツにだかれ……」

俺はカッとなって、思わず手が出てしまった。
バシリ、という高い音が辺りに響いて、麻貴の栗色の髪が風を切るようにさらりと舞った。

「俺がどんな気持ちか知らないくせに!
知ったような口を聞くな!」

俺の頭はグツグツと煮立った鍋のような状態で、口も手も止めることが出来なかった。
麻貴に怒ったことなんて、手を出したことなんて、唯の一度も無かったのに。
俺は何も言わずに俯く麻貴に背を向けた。


「未央さん……」

俺を追いかけてきたらしき暎紘さんは、慌てたように俺の腕を掴んだ。

「俺のせいで……麻貴さんが知ってしまっただなんて……」

「……暎紘さん、大丈夫です
麻貴は父や母には言わないと思います」

俺は暎紘さんにそう言って、そっと腕を掴んで離した。

「で、でも……折角お父様から未央さんのおそばにいる事を許されたのに……」

暎紘さんはどうやら俺と東京に来ることが出来なくなると思っているらしい。
俺はそれには何とも答えることが出来なかった。
……それからは、夜の逢引もすることは無くなったが、その代わりに他で求められることが多くなった。

麻貴も、俺と暎紘さんには構ってこなくなり、今までの兄弟という関係ではなくなったように思えた。
俺はそんなことから早くこの家から出たいと思うようになり、引っ越しを急いで卒業式が終わった次の日に東京へ暎紘さんと共に移った。

もうあの家に戻ることは無いだろう。
東京へ向かっている暎紘さんの運転する車に揺られながら、そう思った。


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