教えて!
「真木ちゃん!お願いがあるの!」
ちょうど仕事も一段落つき部屋で寛いでいたとき、なまえが勢いよくドアを開けた。
手には筆箱とプリント、そして少し厚めの冊子を持っている。
「どうした?」
「勉強教えてほしいの!」
発せられた彼女の言葉に真木は驚いた。
何年も一緒に過ごしてきたし彼女が一生懸命勉強していたのも知っていたが、教えてほしいと言われたのは初めてなのだ。
「あ、忙しかったら別にいいんだけど…」
「…いや、大丈夫だ。どこがわからない?」
不安がったなまえを椅子に座らせ、その返答を待つ。
引き受けてくれたことが嬉しかったのかなまえは顔を綻ばせると持っていた冊子を捲り出した。
「あのね、ここなんだけど…」
そう言って彼女が見せたのは、高校課程の化学。
この冊子は、パンドラが子供たちの教育のために用意したものだった。
「もうこんなところまで進んだのか?」
「うん。でも最近ちょっと理解が追い付かなくて。」
難しいね、と言ったなまえをちらりと見て、真木は冊子に目をやる。
確かにパンドラは独自の教育機関を設置したし、自分も教える立場になったことはある。
しかし進度が早いと言ってもなまえの歳ならまだそこに到達していないのだ。
宇津美とマンツーマンで学習しているから他の子の進度がわからないのかもしれないが。
「お前の歳ならまだここまでしなくてもいいだろう。」
「うん、宇津美さんにも言われたけど、早く賢くなりたくて。」
「………」
どうやらわざとのようだ。
聞き覚えのある言葉に真木は苦笑した。
かつて自分も同じように背伸びをして必死に勉強したのを思い出す。
血の繋がりはないが、やはり自分の娘らしいと先日思ったことが脳裏を過った。
「ほどほどにな。」
「うん。」
頭を撫でてやり、なまえがわからないと言ったところを理解しやすいように話してみる。
今でこそ理解しているが、行き詰まったところまで自分と同じで真木は何か暖かい気持ちになった。
***
「すごい!わかるようになった!」
「よかったな。」
ひとしきり教え終えなまえが問題を解くのを見ていたが、完全に理解したようだ。
コツを掴めばなんてことないものではあるが、習得するのが難しい単元だ。
「だが、宇津美さんに教わった方が習得も早かったんじゃないか?」
いくら自分が化学を得意としていても、宇津美の能力に比べれば教え方は遥かに劣る。
早く賢くなりたいと思うなまえにとっては確実にそちらに聞いた方がいいだろう。
「そうかもしれないけど、今日は子供たちが宇津美さんといる番だから。」
「………」
「それに、真木ちゃんに教わってみたかったんだ!」
笑顔で話す彼女に、お世辞の心は窺えなかった。
純粋にそう思っての言葉に、真木も嬉しくなる。
大勢相手に教えているときにはなかなか得られない喜びだ。
いや、相手が彼女であるというのも大きいかもしれない。
しばらくそうして黙々と問題を解いていくなまえを見ていたが、そろそろ冊子中のこの単元も終わろうというところで真木は別のものが目に留まった。
「なまえ、こっちのプリントは?」
「あ、そっちは学校の宿題。このあとやろうと思ってたんだ。」
「そうか。」
捲ってみると、上の方に計算プリントと活字で書かれていた。
当たり前だが、今解いている化学はこれより遥かに難しい。
これほど差があるのによく疲れないなと感心し笑った真木だったが、ある一点を見て眉を顰めた。
「おい、一応提出物だろう。落書きはするな。」
「え、落書き?」
真木が目を留めたのは名前欄のすぐ後ろにあった絵。
印刷されたものではなく、明らかに鉛筆で描かれたものだ。
「あ、わかった。隼人くんだ。」
また知らない間に描いて…と呆れながらなまえは言ったが、真木にはよくわからない。
「隼人くん?」
「うん、友達。この宿題も途中まで一緒にやってたんだけど、いつの間にか落書きされてたみたい。」
笑いながらその人物の説明をされる。
どこかで聞いたことのある名前だが、普段なまえが日常を話す際には出てこない名前だ。
小学生だし男女隔てなく遊ぶのだろうが、彼女の口から男の子の名前が発せられるのは不思議な気分だった。
「………あ。」
「何?」
「いや、何でもない。」
思い出した。
隼人くん、確かなまえがジャングルジムから落ちたとき泣きながら謝ってきた子だ。
きっと彼も成長しているのだろう。
つい最近兵部とも話していたが、子供が成長するのは本当にあっという間だ。
「ちゃんと消しておけよ。」
「え…あ、うん……」
「………」
普通に注意したつもりだったが、思いの外きつい口調だった。
なまえも戸惑ったように返事をする。
まあ、教えていたからつい教師気分になってそんな風に言ってしまったのだろう。
「頑張れよ。」
彼女の頭にポンと手を置き撫でてやる。
するとなまえは嬉しそうに笑って鉛筆を動かした。
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