大人になりたい
「あら、真木ちゃん。」
なまえの迎えから帰ってきた真木は、すれ違いざま紅葉に声をかけられた。
「なんか顔色悪くない?」
「そうか?」
自分のことに関しては疎い真木は、特に気にした様子もなくそう返す。
すると紅葉はまるで肯定されないのがわかっていたかのように、呆れながら真木の返事は無視して彼の額に手を当てた。
「熱はないみたいだけど…」
「…っ……」
あまり無理しないでねと最後に言い、肩をぽんと叩いて彼女は去る。
その光景を見て、なまえは何か言葉で表せない思いを抱いた。
「あれ…?」
「どうかしたか?」
強いて言うならモヤモヤした感覚。
「…ううん、何でもない。」
「ならいいが…」
本人が何でもないと言ったため、真木もそれ以上は追求しない。
そこで会話は途絶え、2人は無言のまま真木の部屋へ向かった。
「なまえ。」
「ん?」
部屋でしばらく仕事をしていた真木は、手を休めてなまえを見る。
「明日か明後日、幼稚園の帰りに買い物に行くが、誰かと遊ぶ約束をしているか?」
「してないよ。真木ちゃん何買うの?」
なまえがそう訪ねると、真木は優しく微笑んだ。
「お前の弁当箱と、鞄。それから遠足のおやつを。」
「あ…」
そうだ、来週の金曜は幼稚園の遠足なのだ。
しかもこの時期の遠足は、保護者も一人同伴で少し遠くにバスで出掛ける。
幼稚園で遠足がどんなものか聞いてきているなまえは、途端にはしゃぎ出した。
「遠足!遠足!」
「わかったからあまり騒ぐな。」
真木は苦笑し、頭を撫でてやる。
するとよほど嬉しいのか、なまえは真木に飛び付いた。
彼女は喜んだときいつもそうする。
真木もそれを知っている。
だが今回はうまく受け止められず、少しふらついてしまった。
「…っ……」
「真木ちゃん?」
「…強く飛び込みすぎだ。」
半ば呆れたようにそう言いながら、真木はまたなまえの頭をぽんぽんと撫でる。
そしてなまえを離しまた仕事に戻ったが、彼女は未だ興奮冷めやらず一人になってもずっとはしゃいでいた。
だが次の日、そんななまえの期待を裏切るように空は朝から雨模様だった。
そしてそれは夕方になっても止むことはなく、ただ静かに降り続いている。
晴れていれば真木の能力で飛ぶことができるが、この雨の中なまえを連れて飛ぶのにはさすがに無理があった。
しかしパンドラはマンションに部屋は持っていても、その駐車場に車を置いているわけではない。
「残念だが、今日は無理そうだな。」
「うん…」
弾んでいたなまえの気持ちは途端に沈んで、彼女はがっかりとした表情をした。
「予報では今日の夜には止むらしいし、明日行けばいいだろう。」
そんななまえを見て、そこまで落ち込む必要はないだろうと真木は慰める。
「じゃあ今日は真木ちゃん遊んで!」
「まだ仕事が残っているから、それが終わったらな。それまではおとなしく一人で遊んでろ。」
「うん!」
子供とは単純なもので、目先に別の楽しみが見つかるとすぐに笑顔を取り戻す。
そんななまえの子供らしさを見て、心が暖かくなるのを感じた。
「…っ……」
「ん、真木ちゃん?」
「いや、何でもない。」
急に頭痛がして、真木はこめかみに手を当てる。
大したものではないが、この痛みは目が疲れたときの痛みと少し違う気がした。
雨も強くなってきたし、なるべく早く帰ろうか。
「わ…!」
「風邪を引くかもしれないし、なるべく早く帰った方がいい。」
なまえを抱き上げ、彼女の頭を撫でてやる。
真木はそのまま早足でマンションへと向かった。
アジトに戻り、いつものように真木は仕事を、なまえはぬいぐるみで一人遊びを始める。
しかし1時間ほど経過した頃、なまえは部屋がいつもよりも静かなことに気づいた。
と言っても、普段も騒がしいわけではなく紙を捲る音とタイプ音が聞こえるだけなのだが。
不思議に思い、なまえは真木を見る。
「…っ……!」
そこにいた真木は、デスクに肘をつき頭痛を少しでも和らげるよう額に手をやって、苦しさを必死に抑えているようだった。
「真木ちゃん!」
返事をしようとしたのだろうが、それは声にならずただ掠れた音が返ってきただけ。
なまえはどうすればいいのかわからず泣き出しそうになった。
真木は変わらず苦しげな声が漏れている。
だがついに、彼の体は傾き床に崩れ落ちた。
「っ、あ……」
どうしよう、どうすればいいのだろう。
目の前で真木が苦しんでいる。
泣きそうになりながら、それでも泣くだけではどうすることもできないと思い、なまえは助けを求めに行った。
部屋を出て廊下を走ると、すぐ前に兵部と紅葉が話しているのが見えた。
「少佐!」
「どうかしたのかい?」
「真木ちゃんが!真木ちゃんが!」
泣きながらそう叫ぶなまえに、何か大変なことが起きたのだと悟った兵部は表情を険しいものへと変える。
「紅葉!」
「えぇ。なまえ、行くわよ。」
兵部に呼ばれた紅葉は、未だ泣き続けるなまえに大丈夫だと言うように手を握り、彼女の手を引いてあとを追った。
先に部屋へ着いた兵部は、すぐに倒れている真木を念動能力でベッドへ移動させる。
そして布団をかけてやると、接触感応能力で容態を知り呆れたように苦笑した。
「まったく。馬鹿だね、キミは…」
「少佐!」
遅れて来た2人もベッドへと駆け寄ってくる。
「真木ちゃんは!?」
「心配ないよ、ただの風邪さ。ただ、ちょっと仕事のしすぎで悪化したみたいだけどね。」
兵部は自分の子である真木の頭を優しく撫でる。
「心配ならついててやりな。その方が真木も喜ぶよ。紅葉、悪いけど氷枕と冷却シートを持ってきてやってくれるかい?」
「わかったわ。」
紅葉は瞬間移動で行ってしまった。
なまえは真木を見たあと、不安げに兵部を見上げる。
「…少佐、真木ちゃんそんなに無理してたの?」
「程度はわからないけど、最近は少し詰め込みすぎてたかな。これを期に少しは休んでくれるといいんだけどね。」
手のかかる子たちだと心の中で苦笑する。
すると真木が苦しげに兵部を呼んだ。
「少佐、」
「何だい?」
「うつるといけないので、なまえを、俺に近づけないようにしていただけますか…?」
苦しさの滲む声で頼む真木。
だがそれはすぐになまえによって否定された。
「やだ!真木ちゃんといる!」
「っ、我が儘を…」
「いや、なまえは真木の傍についててやりな。この子も心配してるんだ、そのくらい許してやれよ。」
兵部はそれだけ言うと部屋から出ていってしまった。
なまえは躊躇いがちに真木の手を握る。
先程の兵部の言葉を思い出し、何とも情けない顔をした。
彼は真木が最近仕事を詰め込むようになったと言っていた。
はっきりと言われたわけではないが、おそらくどこかで休みをとるためだろう。
そうだとすれば、その原因が何であるかわからないほどなまえも幼くはない。
「真木ちゃんが苦しくなるなら、遠足なんて、行かなくてもいいよ…」
弱々しく呟く。
そんななまえの言葉を聞いてか、真木は彼女の手を握り返した。
まるで彼女の言葉を否定するように。
「あら、少佐は?」
その時、紅葉が部屋に戻ってきた。
「どっか行っちゃった…」
「そう。じゃあ今までなまえが看病してくれてたのね。」
紅葉はなまえの頭を撫でる。
「真木ちゃん、氷枕持ってきたから取り替えるわよ。」
「すまない…」
彼の頭を持ち上げて、今敷いている枕を氷枕と取り替える。
「冷却シートもあるけど、貼ってほしい?」
「いや、自分で…」
「言うと思ったわ。でもその様子じゃ難しそうだからやっぱり貼ってあげるわね。」
紅葉は笑うと今度は彼の髪をどけ、額に冷却シートを貼った。
そうして次々と看病らしい看病をしていく。
その様子を見ながら、なまえは思った。
あのときのモヤモヤはこれが原因だった。
紅葉に言われる前から真木の顔色が悪いのには何となく気づいていたのに、自分は何も気を遣ってやれなかった。
今だって看病は紅葉がしていて、自分はただ手を握っているだけ。
そんな何もできない子供である自分がとても嫌で、自分自身に憤りを覚える。
なまえが泣き出したのと真木が咳き込み出したのは、ほぼ同時だった。
「…ふ…ぅ…ッ」
「ほら泣かないの。真木ちゃんなら大丈夫だから。」
真木の心配からの涙だと勘違いした紅葉はあやすような口調でそう言う。
「っ、紅葉…」
「何?真木ちゃん。」
「悪いが、マスクを持ってきてくれないか…」
咳をしながら頼んだ真木に、紅葉は呆れたように息をついた。
「うつしたくないのね。わかったわ、待っててちょうだい。」
そしてまた瞬間移動で部屋を出ていく。
2人になった部屋で未だ泣き続けるなまえを見て、真木は握られていない方の手でそっと彼女の涙を拭った。
「すまなかったな。明日も買い物に、連れていってやれないかもしれない…」
「っ、そんなの気にしてないよ!」
この状況でも自分よりなまえのことを先に考えて言った真木に、彼女はただ悔しさを覚えた。
早く大人になりたい。
この人を、真木を支えてあげられるくらいの大人に。
何もできない歯痒さ、もどかしさを抱えながら、未だ涙を流すなまえはそう強く思った。
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