02



『すまない。遅くなった』

 そう告げられたのはでも、直接でなく長方形の端末越しだった。
 それでもなまえは柔らかく頬を染めて笑む。スピーカ越しであっても、最愛の彼氏の声は充分な幸福感をもたらしてくれる。姿の見えない逢瀬に、僅かの侘しさを感じるけど、それも邂逅の期待を高める良いスパイスだ。

『退屈しなかったかい?』

 問い掛けについ、ふふ、と笑ってしまう声も、先程リン達と交わした物に比べれば何処か甘い。

「平気です。リンちゃん達と直ぐに会えましたから」
『リンちゃん、何か言ってた?』
「いいえ、」

 何も。と、言いかけたがなまえはふと思って

「ただ、サニーさんが、ついに破局かって」
『そうか。サニーには後でスペシャルカクテルを飲ませてやろう』

 我ながら少々意地が悪いかしらとなまえは思ったが、ココの切り返しが嬉しくて喉を転がした。つられてか、ココもスピーカーの向こう側で、くくっと、笑いを零す。そして直ぐに小声で、有り得ないからね。と、囁く。なまえはモバイルを耳に当て直し、はい。と、頬を染めた。
 リンちゃんが今、近くにいなくてよかった、と、なまえは思う。自分はきっと締まりのない顔をしているだろうから。十中八九、からかわれる。

『所で、今、どこにいるんだい?』

 仕切り直しの様に発せられたテンポの良い声量に、なまえはまた、ふふっと笑った。

「今は、会場前のサロンと言うか、休憩スペースの様な所にいます」

 それはホールを抜け出した目の前にあるサロンだ。だがサロンと言っても仕切りがある訳でない。全て解放されているから、様子で言えばなまえが言い換えたように、休憩スペースのような作りになっている。
 でもハイレベルの地位に相応しく、クロークにほど近いそこは質の良いソファやテーブルが置かれ、傍には常にギャルソンが1人控えている。
 パーティー前後は勿論、最中であっても静かな歓談の場として利用出来る様にとの、ホテル側の配慮だろう。疎らではあるがホールの喧噪から離れたい人がぽつぽつとソファに腰掛けている。

 ココは記憶している会場図と照らし合わせたのだろう。ああ、あそこか。と言って笑う。なまえは、はい。と、区切って続ける。

「それと、リンちゃんも一緒に居るんですよ」
『え?』
「今は、お化粧を直しに行ってらっしゃいますが」
『話したのかい?』
「いいえ。まさか。だって、内緒ですから」

 なまえは唇に人差し指を添えた。siの吐息を吐くと、それに付属する形で「です」と、言った。
 勿論、ココにその音は聞こえても行動は見えていない。見える訳がないのだが、長い付き合いというのはそれだけで相手対する想像を、正解に近い形で浮かばせる。

『うん。そうだったね』

 だからココはスピーカーを耳に押し付けたまま、微笑んだ。その場でその姿を見れない事にはやきもきとした思いを抱いたがまあ、時間はたっぷりある。それに後、わずかな距離だ。ココは、目の前のボタンを押した。
 突き出た正三角形のアクリル板が、心地良く真鍮色のプレートに納まり、ドアー上部に配置されたランプが灯る。

『ところで、ココさんは今どちらにいらっしゃるの?』

 くすくすと笑っていたなまえが、ふとした調子で訊いた。

「ん?僕は、今もうエレベーターホールだよ」

 ココが告げるとなまえは電話口で、『まあ』と感嘆を漏らす。『お近くですね』そう言って、ころころ笑う。「うん。お近くだよ」そう復唱してココは、緩やかに破顔した。耳に心地良い音が、玲瓏と響く。
 姿が見えないのは、侘しい。けれど、ココは未だ少しだけ、まだ少しだけ、と思った。もう少し長く、なまえの声を聞いていたい。が、

「あのよ…もうエレベーター来るぜ」

 背後から言葉を投げて来た声の主に、ココは憤りを感じつつ視線を遣った。漆黒に近い黒い瞳が、分かっている。が、空気読め。と、鋭い燐光をもって睨みつけている。
 第三者の存在を聞き取ったなまえは、楽しげに喉を鳴らす。

「いや、だってよ!エレベーターん中電波入らねーじゃねーか!」

 こめかみから冷や汗を流した青い髪の青年の弁解と同時に、ホールに機体の到着を告げる音が響いた。





「うらやましーし」

 それは、電話を切って直ぐだった。
 声の方へ顔を向けたなまえは、あら、と、声を上げてモバイルをクラッチへしまう。

「リンちゃん。お帰りなさい」
「ただいまー。もーこれチョー大変だったしー」

 袷から除くお半襟を引っ張りつつ、リンは眉間に皺を寄せる。

「苦しいし、歩き辛いし暑いしもー脱ぎたい!」

 何て言いつつも帯に手を添えてお端折りを整える。

「でも、良くお似合いですよ」
「んー…ホント?」
「本当。季に倣った柄ゆきがとても情緒的。今日の行事にうってつけのお姿」

 今日の行事とは、このパーティーの中盤に行われる『振る舞い酒』の事だ。
 食の時代の更なる豊穣と今年一年の食運を祈願し、所長自ら酒乱島へ赴き捕獲してきた『御実酒』をパーティーの参加者全員に大盤振る舞いする催しである。
 ちなみに、『御実酒』は『御新木』と言う樹に実る果実だ。固い殻に覆われた中には清酒が並々と満たされている。それは甘く喉に清々しく、それこそ一流の杜氏が育て上げたように芳醇だと言うがただ、元日の御来光を受けたその日にしか成熟しない。年に一度、元日だけに味わうことが出来るこのお酒は、呑むだけで運が開けるとも言われている。
 去年迄はそのお開きを、所長自ら行っていた。けれど去年参加した会長の、新年早々むさ苦しいわい。と言う意見を受けて、今年からリンがそれを引き継いだ。

「んー。まあ、だからこそってのもあるけど……」

 リンは袂を持って、照れ臭そうに苦笑した。振り袖はより華やかに、との計らいらしい。

「着付けはご自分で?」
「んーん。お兄ちゃん」

 なまえはリンの帯の形をそれとなく整え、あら。と笑む。

「サニーさんは多才ですね」

 続けざまにくすくす笑う。

「こー言うことだけだし」

 リンは如何にも呆れた、と言わんばかりの風体でゆっくりなまえの隣に腰を降ろした。けれど、その横顔はどことなく晴れやかで。なまえはつい、目を細めてリンを眺める。
 リンとサニーは、仲の良い兄妹だ。頻繁に喧嘩をしているが、それはいがみ合いじゃない、ごく普通の現象だろう。明け透けに物を言い合える家族の存在に、なまえはつい、羨ましくなる。

「つーか」

 ふと、リンがなまえに顔を向けた。澄みきった青い瞳に見つめられれば、不意打ちにほんの少し、心臓が跳ね上がる。

「なあに?」

 けれどなまえはいたって平静に、先を促した。リンの口元が、にっと、弧を描く。

「なまえも、着てみる?」
「え?」

 一度、二度。なまえは瞬きをした。ひょいっと袖を持ち上げたリンを暫く見つめて、えー…と、間延びした声を上げる。

「私は、似合いませんよ」

 きっぱりはっきり、決めつけた。

「また言うー。そんなの。着てみなきゃ分からないし」

 リンは肩を落とし、呆れて笑う。なまえは少し顎を引き、

「第一、民族衣装じゃありませんか」

 なまえは、見かけはアジア系だが出身は違う。ドレスコードが仮装ならまだしも、正装と定まっている場所で自国以外の民族衣装は着用出来ない。

「お国の方以外の着用は可笑しいでしょう?」

 けれどなまえの主張に、リンは唇を尖らせた。

「それ言ったらウチはどうなるし」
「今日の主役に相応しいご様子で、素敵です」
「……ここで持ち上げんなし」
「リンちゃんは何でもお似合い。きっとイベントが一層華やぎますね」
「だったら二人揃ってた方が超よくない?調和だし!」
「あらあらあら」
「なまえ、アジア系だからぜっったい似合う!」
「有り得ません。有り得ませんね」

 なまえは強く言葉を繰り返した。けれど、リンだって負けていない。

「ココだってもっとメロメロになること、間違いなしだと思うんだけどなー」

 なまえは思った。リンちゃんズルい。恋人がもっと夢中になってくれるとの可能性を、彼の妹分でもあるリンから聞かされれば少し、なまえの心は揺らいでしまう。

「でも今日、ココさんはタキシードでいらっしゃいますから……」

 それでもなまえはすっきりと背を伸ばした姿勢のままそう言い、より難しいですよ。と、苦笑した顔の前で手を左右に緩く降った。
 ただ、男性がタキシードでパートナーである女性方が振り袖でも、それが正装であるなら失礼には当たらないから、なまえの言い分は言い分にはならないけれど。

「もー。頑固者ー」
「はい。頑固者です」

 唇を尖らせたリンの吐き捨てにはなまえは澄ました顔で返した。暫く顔を見合わせる。でも直ぐにお互い吹き出し、笑い合った。


「でも、羨ましーし」

 一頻り笑った少し後、息を整えたリンが徐に呟いた。

「リンちゃん?」

 なまえは聞き返しの調子で、リンの名前を呼ぶ。

「何がですか?」

 そして、穏やかに笑んだまま、先を促した。
 なまえを見て、そして小さく唸ったリンは苦笑して、

「さっきのこと」

続ける。

「こう言うパーティーで、きちんとしたパートナーと一緒とか……羨ましすぎってこと」
「そう……ですか?」
「そうそう。だって張りがでるでしょ?女の格好や振る舞いが、そのまま男性側の評価に繋がるって言うし」
「……まあ、そうですね」

 なまえは脳裏に自身のパートナーを思い描いた。
 ココは見た目のイメージ通り、物腰の柔らかい完璧な紳士だ。そんな彼に釣り合うよう、そんな彼に自分の所作のせいで恥をかかせないよう、なまえだって何冊もマナーブックを読んだ。

「それはそれで、色々と大変ですけどね」
「………」

 特に、なまえはココやリンの様に特別な肩書きがあるわけじゃないから。生半可じゃない。

「でも、リンちゃんだってパートナーがいないわけじゃないじゃないですか」
「へ?」

 少し湿っぽくなってしまった雰囲気を払拭するように、なまえは明るくけれど声を潜めて、サニーさん。と、笑った。
 リンの表情が少しずつ信じられないものを見る顔に変わっていく。なまえは喉を鳴らして笑う。

「ないし」
「そうなの?よくお二人でいらっしゃるから」

 くすくす笑い続ければリンは呆れたと溜め息をつく。

「そりゃあ兄貴だからだしー。パートナーっていったらほら、なまえとーココみたいにラブラブなカップルって言うか、ウチだったらトリコって言うかー!」

 かと思えば段々と饒舌になり、終には絶賛片想い中の相手の名前を出して、きゃーきゃーと両手で頬を挟んだ。幸せな妄想をしているらしく、頭も揺れている。髪飾りがしゃんしゃん鳴る。

「もートリコお〜……なんで今日いないんだしぃ〜」

 でも直ぐに現実を見て落胆した。なまえは、あらまあ。と、笑ってそして、項垂れたリンではなく、反対側に目を向けた。

 視線の先にはクロークがある。その奥の角を曲がった処にはフロア専用のフロントがあり、一階の受付で受け取ったカードでのみ開く自動ドアを挟んで、エレベーターホールが位置している。
 モバイルがクラッチの中で震える。手に取るまでもなく、それが到着を告げた合図だとなまえは気付いた。

 項垂れているリンに体ごと向き直り、胸中に宿るくすぐったさに逆らわず、ふふふ、と、笑う。

「トリコさんならきっと、和装も凄くお似合いでしょうね。だってあの方確か、グルメ神社に認められた、食男さんなのでしょう?」

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