「ハッピーニューイヤー!」
そのフレーズを合図に、掲げられたシャンパングラスが各々の近しい物と触れ合い、涼やかな音を奏でる。
黄金の柔らかい輝きに満ちた、夜のハイクラスホテル。その最上階に位置するレセプションホール。そこは今、真冬のこの時期からは想像もつかない、温かなざわめきに溢れていた。
少し遅れてやって来たなまえは、コートやバッグをナンバープレートと引き換えにクロークに預けるなり、クラッチだけを手にした身軽さでボーイがノブを引く重厚な扉を潜った。
始まりを告げられた会場は談笑の音に溢れて煌びやかだ。
何より、なまえを含んだ女性達は化粧やヘアメイクで自身を飾り、上質な素材で仕立てられたドレスに身を包んでいるし、男性達はその身に合わせた仕立ての良いタキシードを着ている。これも、絢爛さに一役買っているかもしれない。中にはそれぞれの出身国の民族衣装を着ている人もいる。
けれど入り口から数歩進んだなまえは辺りを見渡して、狼狽した。
――どうしましょう。すぐ、見つかるかしら。
小さく、溜息をつく。
ただこの電子端末に溢れたご時世、相手もモバイルを持っているからなまえのそれで連絡をとれば早い。だろうが、ホテル入り口に乗り付けたタクシーから降りた時に繋いだコールは、電源切れか電波不通の可能性を教えた。そして当然の様に、手持ちのクラッチにモバイルを入れる前に繋いだコールも、電波不通の可能性を告げた。
なまえは室内に敷き詰めたれた深い紅の絨毯の上で、少し、途方にくれた。
誰も彼も似たり寄ったりに映る今、数百もの人が居るこの大レセプションホールで人探しなど、それこそ砂漠で一粒のビーズを探すようなものだ。女神に、不満を呟いた。
でも、いつまでもこうしてはいられない。なまえは履き慣れないヒールの不自由さに足を取られない様、慎重に歩を進めた。人の輪に気遣い、クラッチを胸に抱く。
ビジューの付いた固い素材のそれは細長く、見た目には優雅に映る代物だった。中にはモバイルの他に簡単な化粧道具に金銭、ハンカチが入っている。
荷物を最小限に抑えているからかそれとも、素材のお陰かバッグに型くずれは無い。持つ者に品の良い印象を与えてくれる。
マーメードロングの裾に、ブラウンのラインと薄いレースを付けた、オフショルダーの夜会用ドレス。雪の様な白さを持つ衣装を身に付けた今日の装いならこれだし、と、なまえに渡したのは今、なまえが辺りの人々から見つけ出したい友人だった。多少お節介な彼女はついでに、ヘアスタイルの提案もしてくれた。緩く巻き、アップにして、サイドに流す。テストー、と、セットをした時に彼女は、完璧だし!と、高揚した。
そんな明るい彼女の事だからきっと、様々な人に囲まれているかそれか、最も人目を惹き易い人物の傍に居るだろうから直ぐにでも見つけ出せるとなまえは思っていた。けれど、どうにも見つからない。
うろうろしているとウェルカムドリンクを運んでいるボーイに声をかけられた。
一目で上等な物だと分かるシャンパンを薦められる。なまえは銀盆の上に整然と並んだフルートグラスを、礼と共に一つを受けとった。と、同時に彼の後ろから、同僚達が人混みを離れて近づいてきた。
それは偶然と言うより、なまえを見つけるなり一直線と言う風体で。なまえはつい、身構える。
「なまえじゃない」
「どうなさったの今年は?」
「あのお方はご一緒じゃないの?」
挨拶もおなざりに好奇心を露にする女性達は、自他共に認める、なまえのパートナーのファンだ。
勿論、なまえはそれを知っている。
だから簡単な挨拶と相槌を打ちつつ、なまえは思う。厄介な方たちに見付かってしまったわ。どうしましょう。
「折角のニューイヤーズパーティーなのに、おひとり?」
「恋人のいる子はみんな、ペアで来てらっしゃるのよ」
「ねえ、あの方はどちらにいらっしゃるの?」
なまえは愛想笑いを作り、「はい」「そうですか」「さあ……?」適当に答えた。
彼女達の好奇心を見せられれば見せられるほど、見逃して欲しい思いが渦まいていく。だって彼女達が気に留めているのは、なまえじゃない。なまえの、パートナーだ。だから彼女達は、なまえが身に付けているドレスについても尋ねた。
「それはなまえの趣味なの?それとも、彼のご趣味かしら?」
なまえは益々困ってしまう。正直に答えたらきっと、次のレセプションで彼女達はなまえとどこか似たドレスをセレクトするのだろう。いつかに髪を黒くしてきたように。知らず、口調を似せてきたように。自己顕示欲を隠さない大胆さで、略奪の機会を伺うのだ。
勿論、ココがそんな瑣末に靡くわけがないと、なまえは分かっている。
入社時からお世話になっている上司も、最近なまえのドッペルゲンガーにが増えとるなあ。と、豪胆に笑った後、まあお似合いだって認められとるんだな。と、良かったな!と、あっけらかんと笑ってくれたがそれでも、自分の恋人がそんな女性達に目の前でアプローチされている光景には如何ともし難い気持ちを抱えてしまうから、どうも割り切れない。もう、どうしましょう。困惑のまま脱出口を探していると、
「なまえー!」
名前を呼ばれた。
声がした方向へ顔を向ければ、見慣れた真っ黒な髪はいつものままに、ただこの日のために仕立てられた振袖を着込んだリンが、なまえに向って駆け寄って来るところだった。
「リンちゃん」
思わず、なまえは安堵した。助かった。と、思ってしまうのは、リンが社内で一番親しい友人だと言うだけでなく、まだ年こそなまえと変わらないが、役職で言えばなまえは元より、なまえを囲む同僚達の上司にあたるのだ。
「ハッピーニューイヤー!来てくれて嬉しーし!」
ざわめきの中、リンは着物の不自由さは感じさせない足捌きで近付き、なまえに向けてグラスを掲げる。なまえは自然と、微笑う。
「あけましておめでとう御座居ます。リンちゃん」
いつの間にか、女性達はなまえの傍を離れ、独身男性の輪に交じっていた。一瞬、その身の軽さには感心してしまったが、相手が離れたのならもう、なまえには知らない話だ。
リンに向き直る。
「遅くなってしまって、すみません」
「ホントだしー」
ホールに流れる四重奏の重厚なメロディ、そして、人々の喧噪。それに負けないくらいの快活さでリンは笑う。
「なまえもう来てくれないかと思ったし!」
なまえは、まあ、酷い。と、喉を鳴らす。
「リンちゃんのお願いを、反故になんてしませんよ」
そうは言った物の、会場はIGOが所有するホテルの中でもハイクラスのレセプションホールだ。何より幾ら所員とは言え、入社した年以降一度もこの催しに足を運ばなかった自分が顔を出すには勇気が必要だった。でも、公私共に仲の良い女友達の一生のお願いを無視出来る程、なまえは恋愛主義じゃない。なんとかパートナーにも話をつけてそして、あるお願いをし、数年振りにこの豪華な催しに参加した。
ホールの中央には巨大な鏡餅が君臨している。それを見た時は思わずプランナーのセンスに驚いたが、IGOですものね。そう思えば意識から外れてしまう。慣れとは恐ろしい。
けれどその足元に、いつかの古き良きロマンスムービー宜しく並べられた、一流のフレンチ、中華、イタリアン等が折混ざったそれぞれの国が、それぞれ新しい時に食べると言われている料理のラインナップを見てしまった時、なまえは少し、小首を傾げた。
――……お節を立って頂くのは……どうなのかしら。
ビュッフェスタイルは社交に重きを置いた立食パーティーのスタンダードだ。とは言え、和食に立食の文化は無い。
それでもIGOが誇る、職員や懇意になっている企業を招待してのニューイヤーズパーティーは、元日の夜を真昼に変えんばかりにゴージャスで。やっぱり、そんな僅かな違和感さえ、押し潰される。慣れとは恐ろしい。
「数年振りですが…凄いですね」なまえが身を寄せれば「そう?毎年変わんないし」あっけらかんとリンは言う。
幼少期からIGOで育っているリンからすれば恒例行事なのだった。
なまえからしたら豪華だと思うも装飾も、贅沢だと思う料理もごく普通の事。そう言えば、今年はリンのお願いもあるからこのパーティーに出席したい。と、恋人にお願いをした時、彼も同じことを言った。あんなの、毎年代わり映えしないよ。と。
思わずふふっと、笑いが溢れる。
「それよりリンちゃん。今日、」
「よー。ハッピーニューイヤー!」
なまえがリンに何かを言いかけた時、リンの後ろからサニーが近付いて来た。なまえに向けて片手を上げ、手にはチェリーの浮いたカクテルグラスを持っている。
「あら。あけましておめでとう御座います。サニーさん。」
自分より幾分も背の高いサニーを見上げ、なまえはゆっくり挨拶を返した。
はっきりとしたカラフルの長い髪を頭の天辺に結わえ、上等な仕立てだと一目で分かるタキシードに身を包んだ彼は、古い童話に現れるエルフの青年に似て美しい。
「お兄ちゃん!」
サニーと同じ色の瞳を彼に向け、リンが声を上げる。
「見て!なまえ来てくれたしー!」
「見りゃ分かっし」
上機嫌に笑う妹の頭に手を置いて、サニーは呆れた声を出した。
「つーか前はあんま飲むんじゃねーぞ」
ぐりぐりと手を動かし、リンの頭を撫でる。
「ちょ!何すんだしー!」
嫌がるリンを見てサニーはかっかっかっと笑う。手に持っていたカクテルを一気に煽る。その頬は、白い肌に僅かな赤みを宿している。
サニーさん、余りお酒お強くなかったんじゃないかしら…?目の前の兄妹を眺めつつ、なまえはふと、いつかにココが言っていた事を思い出した。あいつ等はまったく、人の迷惑を顧みないから一緒に呑むと大変なんだ。眉間に皺を寄せて空き瓶を袋に詰めていたココは、体質上飲酒を控えているから常に後片付け役を押し付けられるらしい。
なまえは自らも、手にしているシャンパンを一口迎えた。柔らかい絹を飲む様に、それは優しく舌に降りる。次いで喉を打つ炭酸もそれ程厳しくなく、良いアクセントだった。簡潔に言えば、美味しい。
「と、そだ。なまえ」
もう一口、と思った所でサニーがなまえを呼んだ。グラスの縁に触れる唇の代わりになまえは、視線だけで続きを促す。
「まえ、一人か?」
「いいえ、」
なまえは緩く告げ「もう直きに、いらっしゃると思います……」クラッチに自身のモバイルを入れたクローク前の時間を思い起こし、おそらく。と、付け足した。
リンの瞳が不思議そうにきょとつく。
「え?今日は一緒に来なかったし?」
「はい」
短く答えると、サニーが、
「いに破局か?ま、んな毒ヤローと3年続いただけ大したもんだし」
「え?」
「お兄ちゃん!」
ニヤニヤ笑うサニーの頬をリンはぐいーっと抓った。いって!冗談にきまってし!と喚く兄に、失礼だし!同じ口調で叱咤する妹。
「んで前がマジになんだよ!トリコ来ねーからって俺に当たるなし!」
「な、それとこれとは関係ねーし!お兄ちゃんのバカ!」
「おま!兄貴に向かって馬鹿ってなんだ!」
ぎゃいぎゃいぎゃい。ああ言えばお互いにこう言い合う。そんな仲睦まじい二人のやり取りが可笑しくて、なまえはつい、笑ってしまった。サニーのブラックジョークには一瞬惚けてしまったが、二人の応酬を見ていると、いつかに学んだ諺が頭を過る。喧嘩するほどなんとやら。仲良き事は、美しきかな。
「ご用事を済ませたら、直ぐにいらっしゃいますよ。それと、」
でも、それはそれ。これはこれだ。
「私、あの方と、体質如何でお別れする気はありませんから」
それこそ今更でしょう?との意味合いを込めてシャンパンを掲げ笑まいたら、リンとサニーは僅かに絶句した後、「なまえ……マジ、ココに似てきたし」口を揃えて告げられた。なまえはただ、あららと笑った。
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