マダムと
マダムと会話を終えてその場を離れたクラルは、誰の目にも明らかな上機嫌だった。
「本当に信じられません。まさかお会い出来るなんて……」
それはマリアが横で溜め息を零しても、気づかないくらい。
「良かったわね……」
夢心地って、こう言う時に使うのかしら。マリアは真横の親友を見て思った。
シャンデリアの控え目な明かりがクラルに注がれていて何となく艶っぽいのはきっと、頬の紅潮のせい。ただ原因はアルコールで無いのは明らかで、それこそ見る人が見れば、はたはたとしたプリズムが爆ぜていておかしくない歓喜の表情。
「……マリア?どうしたの?」
ふと、マリアの視線に気づいたクラルが彼女に目を留めた。真っすぐに、柔らかく笑み見つめる。
マダムよりさきにキャプテンに話しかけた時彼に、そう言えば先のダンスタイムでは四天王のお三方がいらっしゃって下さいましてな。噂には聞いていましたが本当に、気後れする程の美丈夫達で……お見かけに?ああ、そうですか。もうお戻りになってしまいましたかな。そうそう、あの小松シェフもご参加下さいまして…。なんて会話が降った時はマリアの横で相槌を打つ笑みにぎこちなさが宿ったのに。今のその表情にはもう、すこし前の恥じらいの赤さも動揺のに青さも無くて、マリアはそっと、胸中で呟く。クラルって、案外単純よね…。
「…とりあえず、あんたの感想は後にして部屋戻りましょ」
ほんの少し、溜め息を交えて言えばクラルは、
「あ。そうね、もうご挨拶は終わりでした?」
「ええ。もうおしまい。女だけであんまり長居してるのも、ね」
人の動きに則って、先ほどとは別の場所を2人は歩いた。その途中ではすっかり空いたシャンパングラスをギャルソンに回収してもらい、時たまかかる声には少し立ち止まって応え、天井から伸びるギリシャ様式の石柱の横を抜ける。壁には先ほどとは異なりながらも、やはり一目で傑作と分かる芸術品や色とりどりのか花が生けられている。
高価な調度品や著名な人物の秀作は人の会話の手助けとして、良く機能するのだろう。手には触れられない位置の高さで飾られた物たちの下では、関心の高い人たちが談義している場所もあった。
「あら、」
ふとある一枚の絵画の前を通りかかった時、クラルは立ち止まった。
ふっくらとした頬を持つブロンドの女性が画面の真ん中でたおやかに微笑んでいる。淡い色彩に、やらかなタッチ。女性の横にはまた別の女性達が栗色の髪を風に流して、一糸纏わぬ彼女の為に1枚の布地を差し出す。
「ねえ、マリアこれ」
「あら、ボッティチェリじゃない……そう言えば、クラルあんたこう言うのも、」
「大好きです」
マリアの声に、クラルは力強く呟く。
「そう……。ここ、時間外は美術ホールになるみたいだから、明日にでも、来たら?」
「え?」
マリアは目をぱちくりさせた。感嘆と一緒に絵画からマリアへ顔を映したクラルの声がいつもより少し大きかった。パーティーの喧噪のおかげで、押し込められる程度の大きさだったけれど。クラルの瞳がキラキラと輝く。
「良いの…?私、きっと、数時間動きませんよ……?」
「ええ……好きなだけ、居ていいと思うわ」
それでも、とマリアは思う。親友を自分が思う通りに着飾らせて、ヘアスタイルにメイクにと拘らせて仕立て上げた姿で華やかに浮き足立っているのは見ていてとても心が軽くなるけれど、マリアはクラルの為に、ひとつ、確認する事にした。
「まあ、それよりあんた」
「はい、何です?」
「本当に、ココに会わないつもりなの……?」
クラルは、黙った。
「…………え?」
暫くの沈黙の後にその手がきゅっと、クラッチを握りしめる。丁寧に化粧を施した目が見開いて、マリアを見つめる。え?何?何突然?? と言わんばりの表情を露わにしだしたクラルにマリアはちょっとため息をついて、そっと壁際へ引き寄せる。
「やっぱり変よ。あんた」
柱と壁の影、丁度人の少ない所は秘密の話に適切で、マリアはクラルへ詰め寄る。
「どうしちゃったのよ」
こんなの、マリアのよく知るクラルじゃななかった。マリアが知る限りクラルは、ココの事が大好きだ。付き合い始めやデートの話に、ココさんが、ココさんがね、なんて。何度惚気られたか知らない。マリア自身それなりに恋愛経験があるから、プレゼントや少し深い相談だって受けた事がある。ココがクラルをまだ、クラルちゃんと呼んでいた時からずっと。ココの行動で一喜一憂している。
「あ、その、あの…」
リップをきちんと引いたクラルの唇が微かに戦慄いた。いつもは真っ直ぐに遠慮無く見つめてくるのに、視線は彷徨って、遠慮がちに、俯く。
「あの?」
声を潜めてマリアは、語りかける。クラルは俯いたまま、
「あ、会いたくないと言う、訳ではないんです」
「そうよね」
「ただ、お会いしにくくて」
「だから、そこよ」
こんな話、こんな場所じゃ無くて部屋でした方が良い事位、マリアは分かっていた。分かっているけれど、クラルはずっと、この話題を避けていたから結局、話してくれそうならもうどこでも良いわ。と、思った。
だってクラルはマリアが心配を口にすればちょっと沈んだ、悲しい顔を見せるから。それ以上追求できなかった。
「なんで?」
けれど今なら、行けそうな気がする。
いつもより大胆な装いや、いつもよりも気が大きくなれる場所は、いつもより人を饒舌にそしてその衣装よりも心を大胆にすると知っていたから。マリアは思った。人の騒めきには弦楽器の生演奏がずっと控えめに響いている。だから、クラルだって、今なら……話せるんじゃないかしら。
「その、」
「やっぱりあんた、モバイル探しに行ったとき、なにかあったんでしょ?」
「それ、は……」
言葉を詰まらせたその目線が、僅かに戸惑ってまた伏せられる。
「あのね、マリア、」
そして漸く顔を上げて、マリアを見た。何かを決意して1度結んだ唇を開く。その瞬間、
「……クラル?」
アイホールに綺麗に置かれたブラウンゴールドのシャドウ、カールされたまつげにマスカラを塗った縁取りが見開き、瞳が萎縮する。ベージュの肌に良く映えるルージュで艶を乗せた唇は戦慄かせると言うより、震わせて、言葉を発するのを恐れているようでそもそも。その視線は、マリアの背後に注がれていた。
「ちょとどうし、」
クラルの二の腕に手を添える。その時、
「――――ココさん」
「え」
か細い震え声に、マリアは後ろを振り返った。
確かに、居た。
でもマリア達が居る場所のずっと奥の柱横、2人が向かおうとした出入り口とは別の扉の前。トリコ、ココ、サニーの三人が、恐らく彼らのファンだろう恰幅の良い男性に話しかけられて居た。男性の横には彼の婦人と思しき女性が居るようで、ココに触ろうとして、身を引かれていた。そんなココにトリコは何か話してその場を離れて行った。やっぱり、こういう社交はココの役目だったりするのね…。なんて思っているマリアの恋人のサニーはと言うとその一歩後ろで、2人の子供らしき小さなレディに、髪をされるがまま触られている。それに気づいた彼女の父親が、それを咎めてサニーへ何か話している。おそらく、そろそろおいとまを、とでもいっているのかもしれない。
「あら。まだ居たのね、あいつ、」等。と続けようとした言葉はでも、次のクラルの台詞で引っ込んだ。
「マリア」
マリアがクラルへ目線を返すとクラルは、ただ、恐らくココを見据えたまま、
「ごめんなさい。ちょっと、レストルームへ、あ。いえ、先に、戻ります。――本当に、ごめんなさい」
「え?」
声を上げたのと同じタイミングで、クラルが踵を返した。それは正にココから逃げる様に、反対側の出口へと向って人ごみへと、足早に紛れ込む。
「え!ちょっと、クラル…!?」
マリアは思わず、その場で叫んでしまった。そしてクラルにとって最悪な事に、マリアの声は良く通る。
「マリアだめ、」
その場で立ち止まる。急いで振り返って親友の名前を呼び諫めたその姿を、その場でマリアの声を聞いた人が注視した。でもクラルにはそんな目線気にならなくてそれよりも、マリアを超えたずっと奥の場所を捉えた視線が、ココが、こちらを見ていた。呼吸が止まる。
がっしりとして、一流アスリート並みの逞しさが伺える体躯は、上等な仕立てのテールコートを纏っている。ホワイトシャツ、タイ、多国籍の人がひしめき合う中では会場内の誰よりも特別抜きん出た長身、と言う訳ではないけれど、それでも目線を留めずにはいられない容貌容姿。騒がれる事は無くても通り過ぎる女性は頬を赤らめて彼等に注目している。
すらりとした鼻筋くっきりとした色の濃い眉、シャンデリアの採光で輝く形の綺麗な目は驚きで見開いて、美しい瞳の虹彩、グリーンのターバンから溢れる漆黒に近いブラックヘア、輪郭。適度に厚い唇が、僅かに呟く。その動きに乗る音を、クラルは良く、知っていた。視力は、普通の筈なのに。はっきりと分かってしまう。
ココさん…。咄嗟に音を忘れた言葉を転がし、目をそらした。駄目。頬が熱を持ったのが分かる。やっぱりこちらの誰より、彼が素敵。なんて身の内から沸き立つ想いに胸が締め付けられる。一番近い出口に向かう。マノロブラニクの4インチヒールが、大理石を蹴り上げる。
ココや、トリコや、サニー。そして、小松。4人で赴いたウェルカムパーティー。
慣例に倣ってキャプテンに挨拶し、すぐ帰るなんて勿体無いじゃないですか…!と言う小松に付き合い4人で談笑し、ダンスタイムを経た後、小松がお手洗いに立った。そうして、戻って来たら帰ろう。と、人が少なく目に付きにくい場所に移動した辺り。彼らの養育者でもあるIGO会長の知人と言う一家に声を掛けられた。
トリコの姿で気付いたと言う主人に、大きくなったと感慨深くされ、いや、昔から綺麗な子供達だと思っていたけれど、まあ3人とも良い男になって。とも褒められた。
こう言う時の受け応えは自然、ココに押し付けられる。小さい時に会った記憶が薄くて曖昧に返してしまったけれど、彼らの養父はその立場上、多くの人脈を持っているからきっとその一人だろう。と、仕方なしに商売用の笑顔で対応した。言葉を何度か交わす。その途中でトリコが、「酒飲みたいからちょい、カウンター行ってくるな」ココに耳打ちをしてその場を離れた。すみません、自由な奴で。と、言えば、いやいや。と形式的に応酬する。
ふと彼の婦人から、所でもう決まった方はいますの?と。ありふれた詰問をされた。もし宜しければ知人の娘さんに愛らしい方が居ますの。それには作り笑いで、謝辞を口にした後直ぐに「もう決めた子がいますので」とも返して、クローズドトークの後、求められた握手に少し気にしつつも、見送り終えた時だった。サニーが奥へ目を向けてそのまま、呟いた。
「い、ココ」
「なん、」
なんだ?そう、口に出し掛けた言葉が引っ込んだ。
「――クラル…!?」
その声量は人が思い思いに会話してざわめきを作るその場に置いて、大きすぎる物ではなかった。けれど、ココ達には聞こえた。クラル。聞こえて来たその単語を反芻しつつ、声に引っ張られるままその発信源へ視力を集中させる。目算してその距離、約100m。人の塊や煌びやかな色彩の中で1人見慣れた、女性の姿がその目に映る。振り返り、顔を上げる動きに目が止まる。
――本当に、いた。
目が、合った。マスカラで伸びた睫毛の下で瞳がココを見つめて、形の整った眉が戸惑いでハの字になっている。ルージュではっきりと色付いた柔らかい唇が、戦慄いている。ベージュの肌、色付いた頬、いつもよりその姿に華やかさを感じるのはきっと場を弁えたドレスやメイクのせいだろう。いつもの様にすっきりと整った姿勢に、今日はいつもとは違った色香が宿っている。
ココと居る時はただ下ろしている事の多い濃い色のブルネットも結い上げられて、肩の曲線がよく見える。ココにはよくわからないが、胸元や耳を飾るジュエリーもよく似合っていると、思って同時に、――胸元、開きすぎだろ。臍と、え、おい胸、少し見えてる。と、心配もした。あの、ドレスああいうデザインだったか……?いや、それより、それよりも、
「……クラル」
ココが、小さく名前を呼んだその時、まるで、それが聞こえていたかの様にクラルの瞳が揺れた。唇が僅かに動く。そして直ぐに、踵を返した。片側に数かに溢れていた髪と、長い裾が動きの後に続いて流れる。彼は、息を飲んだ。
「サニー、後は頼む」
サニーの返答も待たず呟いて、革靴に収まる足を踏み出す。ベストの下で鳴る拍動と共にココは人混みをかき分けた。角膜に焼き付けた唇の動きを読む。
ココさん。柔らかなコーラルカラーが呟いたそれは独り言だったのだろう。けれど、ココを動かすには、充分だった。