この場所に居る
この場所に居る人よりも、機敏な方だと言う自覚が彼にはある。美食屋としての経験で、獲物を追う事も慣れている。けれどココにとって、状況は悪すぎた。
いつもだったら、自身の体液に浮遊する成分を体内で化学変化させて生産した劇薬を指先から対象へ向かい狙撃し、その逃走を妨げるのに。今は、そんな事、想像でだって彼には出来ない。
今居るのは足場が悪い樹海の深層でも無ければ、生い茂る木々が行く手を阻む密林でもない。そもそも、対象が違い過ぎる。狩りがしたい訳じゃない。そんな血なまぐさい物じゃない。
ココは奥歯を噛み締める。−−彼女は、違う。
「ちょっと、ココ、あんたいったいあの子に……!」
マリアの横を過ぎる時に、僅かに呼び止められた。
「僕が知りたい……!」
一瞥もせず思うままに言えば背後で「え!?どういう…」マリアの動揺が聞こえたけれど今は、そんな言葉も、自分が醸すただならない雰囲気に目を留め始めた人の好奇心も、彼は拾っていられない。
ただ、人混みに隠れては現れる背中から視線を反らさずに、足早に歩を進める。
数時間以上前の通話で、こちらに居る間、会いません。と言われて仕方なくも承諾した。サニーに会ってしまえば良いと言われたが、素直にそうしようとココは思えなかった。だから会場入りしても探す事はしなかった。本音は探したかったが、理性で押し留めた。約束は、果たさなければ意味が無い。信頼を無くす行為はしたくない。愛しているから、もう、決めているから。詰問は次に会った時でも良いと思ったし、それを忘れた訳じゃない。
忘れてはいないけれど、ココは、持ち前の先見性でこれが最良の選択とも確信していた。――違う。そうじゃない。けれどその思考を、彼は一蹴する。ただ、
「逃げるほど、か……」
自分を見つめたあの顔を思い出す。驚き、戸惑って、なのにその頬はチークと違う赤みを目尻まで注し、戦慄いた唇は自分を呼んだ。ココの目だけが捕らえられる彼女のオーラは、困惑色こそ混ざっていたもののその瞳が潤む様にはたはたと煌めいて、いつもと変わりがなかった。
電子越しの会話が思考の横で反芻される。
会わないと言ったのに、意図せずとも対峙した彼女のその表情は、その意思の硬さとは相反する物だった。聴覚と視覚で得た情報。ココの呼び声に呼応したような口の動き。それが今、酷くミスマッチで追いかけざる得ない。何があった。何かあったなら話して欲しい。ただ、僕は君に会いたかった。感情が、喉からせり上がる。
「――クラルっ」
「―――――っ」
人目も憚らず名前を呼んで来る男の声にわずか、止まってしまいそうになる足を意思で留めてクラルは、人波を縫う。
立ち止まる事も振り返る事も出来ない代わりに、その声で、距離を計る。近くない、近くはないはず、よ、クラル。だって、幾ら彼が捕獲行為になれていたとしても、今、こちらは障害が多すぎる。人は塊の様に談笑し合い、不規則に動く。波間から突然現れるギャルソンにセルヴィーズもいる。
「すみません、」
人の塊を、失礼にならない様に塊の中を避けその隙間だけ選んで、足早に歩を進める。
それでも、ドレス、特に夜会の礼装と言われるイブニングドレスは女性を女らしさと言う概念に縛り付ける、拘束具だ。クラルは今、いつかに読んだ古典小説の台詞を思い出していた。
床を擦る長い裾、淑やかな動きしか許されない露出の面積、天井から注ぐシャンデリアの光量を集めて輝くジュエリーは、華やかな装いを際立たせる代わりにずっしりと肩や耳にのしかかって体力を削ぎ、何より歩幅を制限する履きなれない4インチのパンプスはカツンカツンと走る度に、折れてしまわないかしらと不安を呼び起こさせる。足が縺れる。
きっと、古いおとぎ話で娘が靴を忘れてしまったのは気を引く行為じゃなく、正しくそこから去りきる為に理にかなった全うな行動で、あの時代よくある事だったのだ。だってクラルも今、出来る事ならそうしてしまいたい。――違う、わ。クラルは心中で頭を振った。そうじゃない、そうじゃなくて、問題なのはそうじゃなくて逃げたい訳じゃなくて、ただ、今、お会いできない。彼に、どんな顔をしたら良いか、分からない。
会いません。そう告げた自身の言葉が、呪いの様にクラルの背中を押して居る。
「すみません、通ります。ごめんなさい、」
手で裾をたぐり僅かでも動きの制限を軽くする。何事かと振り返る人の視線など、気にしていられない。
「失礼を。本当に、急いでいまして。すみません」
大理石の衝撃が、パンプスの中の素足へ落ちて来る。マリアから教えられた動きを準えて重心をなるべく体の中心に置こうと勤めても、カツン。音と一緒に爪先が詰まって少しだけ痛さを覚える。重厚な扉へ近づけば、ドアマンがクラルの為にその戸を開く。「ありがとうございます」隙間から吹く風、溢れる光へ身を寄せてそこへ体を滑り込ませるとき、肩から背後へ、振り返った。
ココが少し先に、でも、さっきクラルと目が合った距離よりも幾分も近い所へ来ていた。けれど、マダム達誰かのドレスの裾を踏んでしまったのかもしれない。彼女達の隙間で足下に目をやり、申し訳なさそうにその場を通り抜けるココにしては珍しい失態の姿に、胸を締め付けられ、唇を噛み締める。扉から抜け出した。
一瞬、目が合ったかもしれない。
ココが顔を上げる時、クラルがその顔を彼から背ける時だった。ごめんなさい。ただ、唇の動きだけを残した。
∵
「え。逃げた……クラル、が?」
思考が追いつかない。クラルが、あのクラルが、ココから逃げた。私を置いて行った。私を置いて、ココから逃げた。
「なんでよ……」
マリアはその様子をただ呆然と見守る。思考が渦を巻いて意識が惑う。取り合えず、瞬きを繰り返す。
人混みの奥ではココが、マダム達の塊から漸く抜け出し、ドアマンよりも早く扉を開けて会場を後にしていた。
扉が音も無く閉まる。やがて、煌めきを思い出す。
だからそんな男の一部始終より、マリアには親友の行動の方が信じがたかった。
だって、クラル……。
マリアの知っている彼女は、確かに頑固で融通の利きにくい所だったり、マイペースだったりするけれども、そんな自分の性格に思い悩む時があったほどココに惚れている。マリアは自分が一番親しい事や、それなりに異性との関係があるから良く、相談に乗っていた。
デートでの振る舞い方、レセプションで同伴する事になった際のそのマナー。それに、初めて一緒に旅行に行く事が決まった時なんて、どうしたらいいのかしら。持ち物は何が良いかしら。と、動揺していて、その時はリンと一緒に、とりあえずホルタービキニのスイムウェアとヴィクトリアシークレットのレースがあれば間違いない、と結論を出した。惚気かと思う事も聞いた事だってある。だから、マリアには信じられない。
クラルが、ココから逃げた。誰が一番の色男かなんて始まったガールズトークに『ココさん』と、くすくす頬を染めて幸せそうに言い切ったあの、クラルが……。逃げた。
「あいつ、何したのよ……」
その独り言に、
「まえも、知らネのかよ……」
声に気づいて見上げれば、マリアの直ぐ傍にサニーが居た。
シャンデリアの光を受けた長い極彩色の髪。ゆったりと後頭部で結われているのは彼なりのパーティー仕様。
色素の薄い肌。ブルーアイズ。長い睫毛を持ちながらも線の細さなんてない、四天王の中では一番低いけれど190に近い長身に、鍛えられた肉体。ホワイトのテールコートがよく似合っている。
「サニー……」
4インチで背伸びしたマリアの少し高い位置にある顔が、ちょっと困ったようにマリアを見下ろしていた。
「よ、マリア。さしぶり」
「ええ、そう、ね」
不意に気まずい沈黙が流れかけて、「じゃ無くて……!」マリアが壊す。
「何、あれ!あのどくお!」
興奮気味に、サニーに食いついた。
サニーは少し驚いて一瞬身を引いたけれど、マリアは、御構いなしに続ける。ただ声だけは先の失態を鑑みて、語尾こそ荒ぶれど周囲には届かせないよう配慮して。
白い燕尾服の袖を掴む。
「私のクラルに何したのよ……!?」
「……んで、まえのになってんだよ」
「私のよ!今はココに貸してんの!」
「つみみだし」
「初耳でしょうよ!今日はじめて言ったもの!」
矢継ぎ早に捲し立てるマリアには信じられない。クラルが、ココから逃げた。今分かるのはその事実だけだけれど、彼女には十分だった。自分を置き去りにしたのもショックではあるが、今はそれよりも驚きが大きい。だってクラルは、ココの一言で幸せそうに笑うし、ココの一言で泣きじゃくったのを知っている。だから信じられない。だって、そもそも、
「てゆーかクラル、やっぱり変よ。ココと一緒の所で、凄く嬉しそうで連絡、したがってたのに……」
「――は?」
眉をひそめたサニーに、マリアも眉をひそめた。
「は?って、何よ…?」
「や、れが聞いた話と違うし」
「え?どういう事、」
問いつめようとしてふと、マリアは気づいた。