ディスプレイ
ディスプレイと、マリアは睨めっこした。左手で握るモバイルフォン。ピカピカの画面に映し出しているのは着信履歴。その、一番上の入電アイコンが赤く染まっている。電話があったけれど、当人に何か理由があって取り次がれなかった時に起こる現象だ。そこを、マリアは唇をキツく結んで見つめる。
少し前に塗り直したエスティローダの甘い味がほんのりと舌に落ちる。
Sunny.
スペルを彼から聞いた日、これじゃあ女性の綴りじゃない。と、揶揄った事を同時に思い出した。これでいーんだよ。れが、俺だ。と、自身たっぷりに笑った笑顔と一緒に。
この名前をタップすれば、最新のモバイルフォンはあっさりと彼へコールする。マリアは人差し指をそっと近づけた。サロンでシェイプし、丁寧にアートが施されたネイルが乗った指先はいつも見慣れている自分の物なのに、マリアの望みと関係なく震えている。
きゅっと、手を握る。
「……マリア?」
声に誘われて顔を上げた。
「クラル……」
ソファに座るマリアの横でクラルが立ったまま、心配そうにマリアの顔を伺っていた。
「……そんなに、緊張なさることなの?」
困ったように笑う、優しい顔。ロールアップしたボトムスを身につけた、女性にしては少し高い背丈。ジャケットの合わせから覗いているビジューが、対面の窓から差し込む陽気にキラキラ輝いている。綺麗だわ。この子、案外スタイリッシュなカジュアル似合うのよね。と、マリアは思った。
クラルの右手にはスパークリングウォーターにライムの欠片を沈めた、コリンズ・グラスが握られている。
マリアはそっと、手を伸ばした。
「マリア?」
クラルがいぶかしむより先に、その左手を右手でがっしり掴んだ。親友の指先は冷房のせいか、それともマリアが右手を握っていたからか分からないけれど、ほんのり冷たい。
ある時からクラルの小指にずっと嵌められている指輪が、マリアの爪と指の間に引っかかる。
「クラル」
「はい…」
「座って」
「…はい」
引っ張って、クラルを自分の横に座らせる。そうして、クラルの手を解放してそのまま、その左腕に自分の右腕をぐいっと絡ませた。ぐっとその体を寄せる。
学生時代と変わらないクラルの体温。腕の感触。マリアの方に体を傾けながらも背をすっきりと正して座る親友は相変わらず健やかで落ち着いて、懐かしさに安堵を覚える。
「クラル、居てね」
マリアはクラルでなく、ディスプレイを見つめながら言う。
「はいはい」
クラルは一瞬だけきょとんとしたけれど、直ぐにくすくす笑いを零した。マリアは更に強く、クラルの腕を引く。
「絶対、どこにも、行っちゃいやよ?」
「行きません。行ったりしません。だから早く、仲直りしましょう、ね?」
クラルが二度、言葉を繰り返すのは絶対的な肯定の証。そうして、優しく言い聞かす言葉は心配の証。そう言うのって、ずるいわ。マリアは唇を尖らせたけれど、気持ちは前向きに成っているのを感じた。どうあれ、サニーから着信があったのは嬉しい。びっくりしてしまったのは全く予想していなかったから。戸惑っているのは、気恥ずかしいから。だって、久しぶりなんだもの。心の奥で照れ隠しを叫ぶ。
でもマリアは、本当は気づいていた。ラグに置かれた足が先はほんの少し喜びで踊っている。
真横で、クラルはくすくすと笑っている。
「マリア」
優しく、親友の名前を呼ぶ。いつものように、すっきりと。いつかと変わりなく淀みない発音で。
「分かってるわ…」
マリアは決心してサニーの名前をタップした。心の中で、えいっ、と。スピーカーを耳に寄せる。少しの沈黙の後に、コール音。ディー…。ディー…。ディー……。低くて重い接続の音を耳に迎え入れる。
暫くして、音が途切れる。
『……よう』
「よう、じゃないでしょ」
ばか。喉を通り過ぎようとした悪態は辛うじてとどめ、マリアは頬をそっと染めた。少し鼻にかかった声は、間違いなくサニーの物だった。
少しだけ右腕を曲げる。肘の曲げた所に当たる、クラルの柔らかい腕の窪み。
マリアはクラルがその動きで、グラスに口をつけるのを止めて不思議そうに、こちらを見たのを感じ取ったけれど別に気をひきたくてした事じゃない。こうするとクラルの、頑固な割にここぞと言う時にはちきんと現れる柔軟な所や素直な部分、嘘が苦手な所。そう言うものが自分の中に湧いて出てくる気がした。
「あのね、その、」同じ物をマリアも頑張って、湧き上がらせる「……出れなくてごめんなさい」
『いや……つに、』
「クラルがモバイル落としちゃってね、ちょっと貸してたのよ」
自分の名前を出された気恥ずかしさか、手の前のローテーブルにグラスを置こうとしたクラルの手が、一瞬だけ止まる。横で、「……サニーさんに、本当にごめんなさい。ってお伝えしておいて…」小さな声が、メッセージを頼む。
「クラルも、ごめんなさい。って、言ってるわ」
『や、そゆ事だったら、仕方ねーし……どせ、ココにだろ…。気にすんなって、ゆっとけ』
「そう。ありがとう。後で伝えとくわ」
『おう…』
そうして、マリアはきゅっと唇を結んだ。久しぶりに耳にするサニーの声はなんだかくすぐったい気持ちを誘発させてくる。
今、もし身につけているのが膝丈のスカートで、そしてさっぱりとしてポリエステルとサテンのワンピースじゃなかったらきっと、膝を抱えている位。出来ないからラグの毛を足の指で握る。
体の裏側を、それこそサニーの触覚でくすぐられている気分。
『れより、マリア……のさ』
「……なに?」
ほんの少し、畏まった声も、なんだかセクシーだと思う。
『や、その………悪かったし』
「え?」
だから、サニーがちょっと気まずそうに言った言葉をついつい聞き返してしまった。
だって、マリアには信じられなかった。ついその言葉を意味を探って、それには勿論、直ぐに答えが見つかったけれど気持ちが追いつかない。
『から、その…ナんだ……まえ、心配してくれたのによ。俺、その…すまん……』
「……サニー…」
『――となげ、無かったし』
「大人気でしょ。……もう」
マリアは、ふふっと笑う。
確かに、サニーの方がマリアより幾つか年上だ。気が合いすぎる所や、お互いに口が減らなすぎて忘れかけてしまうけれど。ただ、歳で言えばマリアだって、もう成人している。
だからマリアは、自分も大人に成ろうと思った。
「私も、ごめんなさいね。ちょっと、言い過ぎたわ」
きゅっと、クラルの腕により深く腕を絡めてその二の腕を掴む。マリアの様子と会話の雰囲気を察して安心したのかクラルはされるがまま、そこにあったパンフレットで本日、そして明日の船内スケジュールを見ていた。マリアが、肩にもたれてきても気にしない。
『まえのそれは、いつもの事だろ』
「なによ。そんな事無いわよ」
サニーが、はっと笑うように言ったから、マリアもつられて笑った。声を上げて、朗らかに。クラルはその横で、「あら、今夜ウェルカムパーティーがあるのね……」のんびりと呟く。そして、ドレスをプレスさせておかないといけませんよね……。のんびりと思う。用紙を膝に置き自由にさせた手でテーブルからグラスと取って、程よく染み出たライム果汁とスパークリンウォーターの調和を味わっている。
伸びやかなクラル。彼女と居るとマリアは、ちょっと大胆になれる。そう思った。
「……仕方ないじゃない。サニーが、私の事…構ってくれないから、よ」
『、まっ』
思ったら、呟いていた。モバイルの向こうでサニーが動揺したのか、息を飲む。
『ま、え…何言ってんだし』
「何って……本心よ」
『だん、んな事ぜって言わねくせに』
「普段は…そりゃあ、ね。恥ずかしいもの」
だから、今だってかなり、恥ずかしい。マリアは自分の頬が自分でも分かるくらいに熱を籠らせ始めているのを感じた。のぼせたように、少しくらくらする。でもきっと、同じ反応をスピーカーの向こうでサニーはしている。なんだかそう思って、マリアはふふっと笑った。
思ったら、一ヶ月前の自分たちが馬鹿みたいに思えて、途端にサニーに会いたくなる。そして、ふと気づく。
「そう言えばね、サニー」
気付いたまを、口にする。
『ん?』
先をうながすサニーの声は相変わらず独特に掠れている。それだけ、たったそれだけてマリアは朗らかな笑いに喉を震わせてしまう。
「いま、私、クラルとバカンスに来ているのよ」
『前ら……んと、仲いいよな』
「当たり前よ。姉妹みたいなもんだもの」
マリアはクラルの腕からその腕を解いて、窓際まで歩いた。
お礼代わりに身体を預けていたその肩を二回、ぽんぽんと叩く。クラルは一度だけマリアをみて、そっと微笑む。それも今のマリアには、なんだか気恥ずかしい。
笑い返して、外を見る。