ずるい
ずるい。クラルはそう思いながらも、その願いを聞き入れるしか無かった。つい思ったままに、ずるいです。と言ってしまってココに、『今だけは、君に言われたくないなあ』と、苦笑まじりに言い返されてしまって、それも…そうだわ。と、思い直した。だからクラルには、分かりました……約束します。と、答える他の選択肢が無かった。だって先にその手法でココに沈黙を選ばせたのは、他ならない、自分だったから。
断線と成ったモバイルを胸に握りしめ、チェアの背にもたれかかった。天井を仰いで、目を瞑る。全身を固めていた緊張を取り去るように、 細く、ため息を漏らすその奥で、クラルは改めて実感した。――ココさんは、本当に……ココさんだわ。負けず嫌いで、駆け引きが巧みで、ああ……でもやっぱり、とてもお優しい。
意趣返しの様な応酬には驚いたけれど、そのおかげで今、クラルの胸に宿っていた罪悪感は減っている。そして、同じ場所に居ると言いながら頑に会う事を拒否してしまったクラルに対して、ココは、こう言ってくれた。次に会った時。
「次……」
クラルはふと言葉を漏らして、目線を横へ投げかけた。カーテンがゆったりとそよぐ、開け放った窓。その向こうには、抜ける様な青空がある。濃い、夏の色をした青。
IGOの寮を出た時はコートが必要で空はくすみ、後数ヶ月で干支が変わる時期だったのに…赤道にほど近い場所を進むグルメ馬車から伺える空にはぐらぐら燃えそうな太陽がその身を誇示している。少し傾いているのは、正午をだいぶと過ぎたから。マリアのようにスリーブの短いワンピースでも、きっと快適なくらいの熱光線。
次。
クラルはやおら、その言葉を胸の奥で繰り返す。次。次。うすい素材のジャケットとビジューのついたトップスが隠すその奥で、胸が甘く痛む。受話器越しのココの様子を思うと、あの、デッキで聞いてしまった事は焦りに支配された自分が生み出した、勘違いだったのかしら。と、クラルは思ってしまった。時が過ぎ去れば、残るのは明確な記憶でなくその時に得た感情になる。望まない盗み聞きで得てしまった情報なら、尚の事。邪魔、も、不謹慎、も。もしかしたらそんなに重要な事ではなかったのかしら、と。けれどもう、クラルは決めてしまった。ココに問いつめる選択肢を捨て、自ら、会わないと告げる選択を選んだ。それが最良な事だと今も思っている。彼はお仕事、私は違う。その区別を伝えて、頑なになってもう、後戻りできない。
それなのに。未来につながる言葉はいつだって、人を喜ばせる魔法を秘めている。と、クラルは同時に思ってしまった。次、次に、お会いした時……。その後に続いた言葉を思い出して、さっと頬に熱が籠る。僕を、拒まないで欲しい。
「……もう、はしたない」
それはココへ、と言うよりも、自身に対しての諌めだった。モバイルを握っていない方の手で、軽く頬を突っぱねる。きゅ、と、固く目を瞑る。その時にふと、クラルは気づいた。けれどそれと同時に、右手が震えを感じとった。
反射的にモバイルのディスプレイを上にする。ロック画面には見慣れないニュースアプリのポップアップが出ていた。
そして、思い出す。ーーそうだわ。いい加減、マリアにモバイルを返さなくては。
マリアは親友の状況を慮ってか、長話してきても良いわよ。と、言ってくれたけれど、クラルはそっと立ち上がる。優しさにこれ以上甘えていけないと言う気持ちと何より、断線直後直ぐに震えた端末には不在通知のポップアップが浮かび上がって、つい見てしまったそこに出ていた名前は、彼女の恋人、その人だったのだから。
「マリア。こちら、ありがとうございました」
「あら?もう良いの?」
もっと話してても良かったのよ?と、マリアがソファから顔を上げる。
自室を出て、壁際の空中階段を下りた所のリビングスペース。そこにあるソファの真ん中に深く腰を沈めて、恐らくこの客馬のパンフレットと思しきブックレットを読み込んでいたマリアにクラルは声をかけた。
「ええ、必要なお話は済みましたから」
「そう」
どっしりとした革張りのソファは、一目で上質さが分かるものだった。年月を感じさせはしても、美しく鞣された表はしっとりして、清潔に磨かれている。その横に回って、クラルはマリアにモバイルを手渡す。マリアはそれを受け取ったと同時に、「それで?」「え?」ちょっと、にやりと笑った。
「これから会いにいくんでしょう?」
「え!?」
クラルが座れるよう、のっそりとソファの端へ座り直したマリア。その、空いた場所に腰掛けた丁度その時に、クラルは声を上げた。
「な、なぜ……?」
「何故って、あんたの顔みたら、思っちゃうわよ」
「え、私、どんな顔してるの……?」
「嬉しそーな、幸せそーな顔よ。さっきと大違い」
その揶揄いに、クラルは咄嗟頬に手を当てる。そんな、だったらきっと、あの事だわ……。思い当たる節を思い起こして、自分の単純さに呆れてしまう。でも、勘違いは正さないといけないわ。そうも思って、クラルはマリアへ向き直った。
「マリア、私はね」
「分かってるわよ。あ、でも夜にはちゃんと帰ってきてね」
「その、お話じゃなくて…」
「うん……って、眉間に皺よってるわよ。あんた、本当に表情豊かになったわよねー」
「私の、顔の事は、もう良いから……」
だから、聞いて下さいな。と、両手の平をマリアに向ける。息を整えて、
「私、こちらに居る間、ココさんとは会わない。と、約束したから」
「あら、そうなの……え?」
クラルにとって、マリアの反応は概ね想像通りだった。
「え?なんで?だって、あんた、ココよ?あんたのダーリンでしょ?ステディでしょ?ボーイフレンドでしょ!?」
ものすごい勢いで、食らいついてくる事だって、想定していた。けれど大きな瞳をまんまるにして、予想外の言葉を聞かされたとばかりに、恋人じゃないの、会いたいってさっきまで、思ってたんじゃないの!?と、矢継ぎ早に言葉を重ねられれば、クラルはちょっと、腰が引けた。
「そう、ですが……」
「もしかしてさっき、喧嘩しちゃったの?え!私のせい!?」
「いいえ、喧嘩していませんし、マリアのせいでもありません……と言うか、なぜそうなるの?」
「……だって、ココとの連絡、しないでって、拒んだから…」
クラルは、あら、そういえば。と、思い至った。確かに、待合室でそんな事があった。
「違いますよ。喧嘩をした訳でも、本当に、マリアのせいでもありません」
「そう、なの……?」
「勿論」
少し萎縮して、伺うようにクラルを見つめるマリアを、クラルはまっすぐに見つめ、すっきりと答える。
「これは、私が自分で決めた事です」
努めて、表情は穏やかに、続けた。
「だって今回、あの方はきっと四天王のお一人として、お仕事でいらしたのよ。それなのに、」
途端、言い淀んだ。
「……クラル?」
マリアが訝し気に、クラルを呼ぶ。クラルは、不意に思い出し、戸惑った。少し前に聞いてしまった、柱裏の言葉。あの時、あの場所で、ココと会話をしていたのは、女性連れの修行を、不謹慎と言い切ったのは……。クラルはしばらく潜思した。そして、思った。これは、やっぱり、マリアに聞かせてはいけない事じゃないのかしら……。全てを明け透けに話す事が、本当の友情とは限らない。親友を不用意に傷付ける可能性があるならそれは、彼女にとって知らなかった出来事であるべきじゃ無いのかしら…。と、クラルは、思った。そもそもあの言葉を口にしたサニーの本意も彼女は知らない。そう、思ったら喉元が干上がって、同時に、立ち上がっていた。
「え?クラル?」
急に立ち上がった親友へ、マリアは目を白黒させてクラルを見上げる。クラルは、
「ごめんなさい」
マリアを見下ろして、困ったように笑い
「急に喉が渇いちゃったの。何か…そうね、お水、いただいても良いかしら?」
「え、ええ……ドリンクバーに、アックアミネラッレのボトルがあるわ」
「それは素敵」
言うが早いか、歩を進めたクラルを見送り、マリアはそっとソファに体を預けた。
「……相変わらず、マイペースなんだから」
ぽつんと、零した独り言は非難と言うより懐かしさを味わう声色だったけれど、小さな呟きではクラルには届かない。特に、ドリンクカウンターから教えられたボトルを取り出そうとした時、直ぐに現れたバトラーが、自身の職務ですよ。と、やんわりとした物腰でクラルへ待つように、そして、種類はガス入りかそうでない物が良いかと話しかけていたから、その言葉は聞こえなかった。
代わりに、行動を持て余したクラルがふと、その場所から投げかけた言葉は、マリアにしっかりと届いた。
「そういえば、サニーさんから着信があったようですよ。早くおかけして、仲直りなさって下さいね」
「え!?嘘っ!!」
マリアはその言葉の正確性を、急いでロック解除したモバイル端末のポップアップで確かめる。
「え、ほんとだわ。うそ、うそ、どうしよう!?」
「そこまで、慌てる事なの……?」
美しいグラスに注がれた水の一杯がバトラーの手で恭しく差し出される。気泡がつぶつぶと水面を弾かせているそれを礼と共に受け取りつつクラルは、親友の慌てっぷりに少し、首を傾げた。