マリアは陽気さを胸にたっぷりと宿して言葉を紡ぐ。
「それでね。……どこに居ると思う?」
『…わかんねーし』
「ちょっとは考えなさいよ」
ほんの少し唇をとがらせる。
『無茶言うなし』
サニーは生来あまり考える事をしない。それは自身の美学に正直に生きるサニーらしい性格だった。マリアは勿論、分かっていたけれど彼女としてはちょっと寂しい。
「……まあ、良いわ」
それでも今は、サニーらしいわ。なんて。マリアは許してしまう。
「ねえサニー」
笑い零したくなるのを必死で押さえて、言葉を続けた。
「ワールドコネクトって、結構暑いのね。私、もうすぐクリスマスだって事、忘れちゃいそう。それと、グルメ馬車ってとても快適ね」
サニーが息を飲む気配を伝えてきた。ほんの少しの沈黙。そして、たっぷりとした息を吐き出して、
『マジか…』
聞こえてきた呟きに、マリアはついに声を出して笑った。愉快さを声に乗せたまま、目の前に指を寄せる。触るのを躊躇ってしまうほどに美しく磨き上げられている大きな一枚窓。その向こうは芝生を湛えた広いテラスが広がっている。目にまぶしいフォレストグリーン。そして、奥にある夏の空と海のサファイアブルー。
明るい景色は彼女の心も晴れやかにしていく。
「クラルから聞いたわ。あんたも今、グルメ馬車に乗ってるんでしょ?私たちと一緒だわ」
『まえら、なあ……』
サニーの声にマリアは、くすくすと笑う。ああ、何かしらこれ。とっても幸せ。だなんて思って、窓ガラスに額をこつんとよせた。
『んで乗ってんだし……』
「何でって、バカンスよ」
日に熱せられたそこは、じんわりと暖かい。そっと息を吸うと、ルームフレグランスの香りが漂っている事に気づく。恐らくグルメ馬車をイメージして調合されているのだろう。スパイシーで甘い香りはイランイランをベースに置いたエスニック。ああでも、サニーの香りの方がうんと好きだわ。マリアは思い出して心地よさに頬を緩ませた。記憶の香り(それは、ホワイトムスクやモスと調和した、シトラス、ミモザ、ベルガモットのフレッシュなノート)が鼻腔を擽る。
『よく、やくとれたな』
マリアは、少女の様にくすくす笑う。
「予約はママの関係でね、でも……ママ、行けなくなっちゃって」
『れで、クラルか』
「そうよ。バカンスはココと過ごさないって聞いて舞い上がっちゃったわ!久々のガールズトラベルよ!」
それは本当に、素晴らしい偶然だった。マリアが籍を置くカレッジが冬期休暇へ入る事、母親が予定していた旅程を辿れなくなった事、時期同じくしてクラルもバカンスを取得した事、そして、その時期に親友の恋人は修行へ向かう為に彼女は一人で過ごすと言う事。知らず声も、浮き立つ。
『ココ、いるし』
それでも、偶然と言うのは重なる時は重なる物。
「え?」
『だから、ココ。あいつも乗ってっし』
サニーの言葉にマリアは少し、肩を落とした。
「あー……知ってるわ」
午前の会話を思い出してため息を零す。クラルの言葉に驚いたのが遠い記憶のように感じるけれど、あれはまぎれもなく今日の事。
「でも、それはクラルがもう、話したみたい」
そう口にしてふと、マリアはクラルが何か言いかけていた事を思い出した。言いかけて、直ぐに喉が渇いたと席を立ってしまった少し前を思い出す。あれ、何だったのかしら?窓から少し体を離し、振り返る。
フローリングに落ちていた薄い影に窓枠からさし込む光が伸びている。その奥にあるどっしりとしたソファの上でクラルは先ほどと変わらず、パンフレットをめくっている。
『るほどネ。じゃあ問題なし、だな』
後で、問いつめようかしら。そう思った矢先に、サニーが口を開いた。
「なにが?」
反射的に聞き返せば、サニーが少し、ため息をつく。
『まえ、マジで言ってんのかよ……』
「……何の事よ」
マリアはそっと窓ガラスに背中を預ける。
それと同時に、クラルがソファの上で何か呟いた。ぽつん、と。本当に小さく、待って、と。呟いたけれど、今のマリアには届かない。そもそもクラル自身それは、マリアに向けた物でもなかったからこの場では誰も、気に留めない。ほんの少し、ドリンクカウンターで佇むバトラーが、片眉を上げた程度。
『きょ、は……あー無理か。した』
「……明日?」
明日、何かあったかしら?思って、マリアは少し首を傾げた。少し前に自身も見ていたパンフレットの中身を頭の中で捲る。けれどそれも次の瞬間、全部引っ込んでしまった。
『めし、食わネ?……久々によ』
「え……?」
『おま、聞き返すとかまじか!』
やや、恥ずかしそうにサニーは続けた。
『……デートの誘いだっつーの』
「いくわ……!」
それは予想外で、でも願ってない誘いだった。喧嘩するし、憎まれ口だって叩くけれど結局、マリアはサニーが好きなのだ。だからつい、即答で答えてしまったけれどマリアは、咄嗟に気づいた。
「あ、でも待って!クラルに確認させて、一応」
『おう』
今はクラルが居る。マリア一人で行動している訳じゃない。
「クラル!」
マリアは勢いよく親友の名前を呼んだ。
クラルは相変わらずソファの上で、行儀よく座っていた。
足を揃えて、背をすっきりと正したその姿は、品行方正そのものに見える。彼女が持つ信仰も手伝って自然と板に付いたその姿勢は、慎ましく気持ちの良い雰囲気を纏っている。きっと好ましく見る者が多いだろう。
けれどマリアはそう成らざる得なかったクラルを知っているだけに少し、侘しい気持ちに成る。それがもう既に彼女に成っている事は分かっているけれど、もっとくだけてくれても良い、と。
でも今は、そんな話じゃない。
「ねえ」
マリアは、訝し気にクラルを呼んだ。モバイルのスピーカ部分に手を当てて、クラルに近づく。
クラルはソファで品よく座ってる。ただ、先ほどと違って何かが可笑しかった。その手はパンフレットを支えているのに、なぜか視線は真っすぐに前を向いている。なのにその深い東洋の瞳は、何も映して居なかった。
おもむろに、クラルの唇が小さく、何かを呟く。でも、小さすぎてマリアには聞こえない。
「……クラル…?」
聞き返してもクラルにマリアの声は届いていないのか、何の反応もない。マリアに対しての反応は何もないのにその顔がどことなく青ざめていく、ようにマリアは見えた。
眉間にも皺がより始めて、何かとても、深刻そうに見えた。
「クラルってば」
マリアは、訳が分からないまま、クラルの肩を掴んだ。
∵
数分前。自身の腕から離れたマリアを見送って、クラルはそっと居住まいを正した。パンフレットを持ち直せば片手はすっかり空いて、ほんの少しの解放感と侘しさに苦笑する。
コリンズ・グラスをテーブルから取り上げ喉を潤した。もう、大丈夫ね。つぶつぶ弾ける炭酸の味わいとライムの心地よさを喉元に感じつつ思い、揃えた膝の上でページを捲る。
パンフレットにはタイムスケジュールと屋台村の出店舗紹介、そして、各寄港先で催されるパーティーについての紹介も載っていた。紹介には開催場所、ドレスコード、予定日時(これは変更の可能性ありとの記述が有った)そしてダンスタイムの有無。当然、今日明日の予定だって書いてある。
実際ついさっき目を通したページには、本日夜に行われる出航初日のウェルカム・パーティーの記載があった。夜間の時間まで行われる催しのドレスコードは、当然のようにフォーマル。クラルは、その記述を注意深く記憶する。
今回マリアとクラルは、客馬側からすればマリアの母の名代だった。であれば、その娘と友人である自らの立ち振る舞いが彼女の評価へ繋がっていく事をクラルは分かっていた。マリアの言葉通りなら今回のこの贅を凝らした旅は、彼女の母の好意と何より、クラルに対する信頼の証でもある。
だから、この場合の出席は義務。酷い体調不良でもない限り欠席なんて出来ない。クラルだって年相応に社交の大切さと人脈の重要性を、そして世の中にはその人でなくその周囲の人の立ち振る舞いや教養で、個人を評価するコミュニティの存在も知っている。
――初日ですし、ドレスは以前仕立てた物にしましょう。立ち襟で、シャンパンゴールドのホルターネックドレス。……きちんとしてますし。
それはいつかの晩餐会で、リンに付き添うIGO職員の1人として出席を命じられた際に着用したプレタポルテのイブニングドレスだった。その時にエスコート役で連れ立ってくれたココには、背中が一番開きすぎている。スリットも深いし…確かに印象は品が良いけれど、僕以外にはあまり見せて欲しくないな。と、困ったような呆れたような、でも嬉しそうな表情で評されたドレス。
けれど最終調整のフィッティングに付き添って貰ったマリアや、一緒にドレスを仕立てたリンには、フロントもバックもスタイルがきちん映えていてとっても素敵、と褒められた衣装。
そういえば。ふと、クラルは思い至った。
ウェルカムパーティー、ココさんはどうなさるのかしら……?
彼も、社会的に地位を持った人の一人だ。確かこの予約は彼の独断と言うより、IGOの上層部が絡んでいたはず。でなければ予約に数年待ちのこの豪華旅行に、まるで思いつきのような気軽さで行ける訳が無いし何よりココだけでなくサニーと、思い立ったら吉日の予約行動なんて無縁なトリコまで居るのが良い証拠。
勿論、ココ一人だったらパーティーなんて騒がしい所には足を運ばないだろうが、(それは彼個人に社交界での地位がある故に許されるボイコット)トリコ、とりわけサニーが一緒であれば、気がよく面倒見も良い長男気質のココは十中八九足を運ぶ。何より、ココは昨夜の通話でクラルに告げていた。
そういえば、小松くんも来るんだよ。
小松は、美食屋トリコのパートナー料理人。クラルより年上で、クラルよりも小柄な星付きホテルレストランの料理長。
クラルはココに連れられた彼のレストランで会って以降、数える程の会話しかしていないけれど、小松と言う男性は妙にこちらの興味をくすぐって気軽に、心の扉を開けてくる。現にクラルも、僅かな出会いしか無いのにすっかり、優しくてユニークで快活で勇敢な彼のファンだ。そうしてココも、小松に関してはとても寛大。
クラルが彼と2人で談笑していても、微笑ましく見守ってくる。嫉妬しない。いつかの会食を思い出して、クラルはほんのりと笑った。彼にとっても小松は好ましい友人なのだ。
――小松さんはお仕事柄、レセプションには関心が高いですし……であればきっと、ココさんもご一緒にいらっしゃるわ、
一緒、に。
その語句が芽生えた瞬間、クラルの身の内にあの時感じた疑問が湧き上がった。
さっきはマリアへモバイルを返す事が優先的だったからすっかりないがしろにしていたけれど、ココが告げた言葉が脳裏に浮かび上がった。 ――次に会った時。そう、ココは言った。その言葉に矛盾は何も無い。最もその後に、拒まないで欲しい。と、のお願いの方が普段に置いては気になる語句であるけれど、クラルは、クラルだったからこそやにわ、気づいた。
クラルが知っているココと言う男性は、行動を明確な言葉にする。それは美食屋としてでなく、占い師としての経歴故だろうが、言葉をぼかす事は滅多にしたりしない。結構なんでも、すっぱりと言う。だからこそ仕事の客人であっても、視えた未来が最悪なら驚くほど歯に衣着せぬ物言いを放つし、その分恋人に対しては顔を赤らめるほと歯の浮く様な台詞だって恥ずかし気も無く言ってしまう。
「……待って」
つまり次の約束を取り付ける時、ココははっきりと言うのだ。日時、時間、そして、時にはプラン迄。だからクラルは急速に思い出していた。彼が、過去、こうしたパターン。
たしか、男性禁制であるクラルの社員寮へ来た時。クラルがお隣の逢瀬を目撃してしまいそれを羨ましかったと口にしたそれを、本気にする。と告げて割と直ぐに、さくっと来てしまった。その時、君の驚く顔がみたかった。と笑って、当日まで内緒にされていた。そして彼とは、中一日中、ずっと自室で過ごした。そう、クラルは思い出して、呟いた。
「ココさんが仰っていた次って……」
はっきりと、あの時の台詞が思い出される。
――次に会った時の僕を、拒まないで欲しい。
クラルは背が粟立つ思いを抱いた。……もしかして、。その想像は心の中に留め、口に籠った言葉はあめ玉のように飲み込む。考えれば考えるほど、同じ解に辿り着いてしまう。つまり、ココはこれまでの過去、サプライズ以外で目的を明確化している。
「……クラル…?」
いつかに横に戻ってきたマリアの声も、今のクラルには届かない。
世の中には気づかない方が幸福だと言う事がある。クラルはその顔からサァっと、血の気が引くのを感じた。
どうしましょう。私、……嘘でしょう。
クラルは気づいてしまった。あのダイアローグでは今、2つの約束が成立して、矛盾を産んでいる。