不意に
不意に右耳へと滑り込んできたその一語一句を、ココは脳内で復唱した。
「それ…は、つまり……」
驚かないで、と。クラルは前置きをした。けれど、それは無理な話だった。唐突に、今は他の誰でもないココだけに聞き取れた声を、台詞を、何度も何度も反芻する。
「――クラル、それじゃ今、君は……」
同じ所にいます。と、クラルはそう、ココに告げた。それがどこを指しているのか勿論ココには分かった。けれど確信が欲しい。そう思ってしまえば声は自然と、彼女の二の句をせかす。
その点に関して、クラルはきちんと、クラルだった。
『はい、グルメ馬車です』
「冗談じゃ……」
『こんな冗談、言えません』
本当に、クラルだった。口調や、くすくすと笑う調子がゆったりとしているから勘違いされすいがその実、勘がいい。
『ヘリの停留所でマリアに拾われて、連れられた先がそちらの待合室でした。小母様がお仕事の関係からご予約を頂いたそうですが、ご都合が合わなくなったと…』
「ああ……そういえばマリアちゃんのご両親は、会社を経営されていたね」
脳裏に、昨夜何気なく付けたテレビを思い出してココは相づちを打った。タイミング良く画面に映ったコマーシャルは一流モデルを起用したハイブランドコスメの新作広告。その、最後に映し出されたブランド名は、今や世界中の上流階級をファンに持っていると言う女性の名前だった。(曖昧なのは、ココ自身興味が薄いから。サニーは知っていたらしいけれど、ココはきっと、クラルに関わりがなかったら一生知らないままだったと断言できる)記憶違いでなければそれは、マリアの母親だ。
なるほど、それであれば驚く事ではなかった。ココは理解し、しかし、そこまで考えが及ばなかった自分を憎々しくも思った。同時に自分が疑問を口にするより先に察して答えてくれるところに、関心を覚える。
もう少しもったいぶってくれても嬉しいけれど。
「だからフォーマルウェアの指示があった訳か」
『はい。夏服と冬服だけでなく、イブニングとカクテルドレスの2つを指定された時、気づけば良かったです……』
「まあ……まさかグルメ馬車とは思わなかったから」
『ええ。バインダーを手渡された瞬間、目を疑いました』
それを聞いたココは、その姿を想像してつい笑いを零した。いつかの記念日に、仕掛けたサプライズを思い出す。クラルは心底驚いた時には目を丸くしてしばらく放心する事を、ココはその日初めて目撃した。その顔はまさしくこう言えた。鳩が豆鉄砲を食ったよう。
『ココさん……?』
「あ、いや、」
ココの心中でも見透かしたのか。訝し気な声をあげたクラルに、ココは調子を整えつつ取り繕う。
「何でもないよ」
『なら……構いませんが』
そうして、一つの事を思い出した。――そういえば今夜、船内の社交ホールでオープニングパーティがあったな。
出航初日夜に行われるレセプションはハレ日に相応しく豪華絢爛に誂えられるのだろう、プログラムにはダンスタイムの記述もあった。今日の出発にはサニーだけでなく、小松もいる。ココは、意外ときらびやかな空間が好きな年下の友人たちを脳裏に描く。行動を共にしている限り、十中八九、連れてかれる事は目に見えていた。それならば……。と、ココは次いでクラルの姿を脳裏に浮かべた。やっぱり、タキシードじゃなくて燕尾服を持ってきて良かった。礼式を重んじる彼女のドレスは前者でも後者でも連れ添って違和感など無いけれど、僕がタキシードを着て横に立つならクラルには、ベール付きのホワイトドレスを着ていて欲しい。
うんと長いマリアベールをココは想像した。今日は、ただのパーティだけれど。
『それよりも……ココさん』
「ん?」
けれど彼女から名前を呼ばれたそのとき、不意に、ココは気づいた。何か、変だ。無意識に、モバイルを握る手に力を込める。
おかしい。と、感じた何かに意識を集中させる。直ぐに思い至った。
『ココさんへ、お伝えしたい事があります』
「……何だい?」
声、だ。クラルの声。いつも通りそれはゆったりながらもすっきりとした発音で、滑舌がいい。くすくすと、僅かでも聞こえた忍笑にも朗らかさが伺えた。しかしいつもとの違いが一つあった。それはココとの会話に置いてのみ、声に潜む柔和な色。それが、なぜか今日は伺えない。
ココの促しに、クラルは一瞬だけ戸惑った気配を伝える。しかしそれは直に払拭され、代わりに意志の強い声がココの耳を打つ。
『私、こちらにいる間……貴方とお会いしません』
「、はあ!?」
ココは、盛大に声を上げた。
声は吹き抜けの空間に響き、疎らながらも存在していた周囲の人の気を図らずも惹いたが、「クラル、君、どういうことだ!?」ココは、構わずに動揺を露にした。
だって、ココに衝撃を告げたクラルのあの声。その声は僅かに、彼女が何事にも譲らない頑固さを伝え始めた時の記憶を呼び起こさせた。
そんな彼の動揺を前にしても、クラルは至って冷静に、『ココさん』それどころか幼子に言い聞かせるように、続けた。
『仕方がありません』
「それはどういう、」
『私と貴方とでは、乗船の目的が違いすぎます』
それにココは、その場で目を見開いた。目的。その語句が示すものを、きゅと閉じた口の奥で潜思する。しかしそれには直に、
『私は今回こちらへは、バカンス……休暇できています。でも、ココさんは、そうではないでしょう?憶測ですがココさんよりも上の方から、何か事情があって、今回の修行を仰せつかったのでしょう。美食屋としてよりも……四天王と名を連ねる方の、お一人として』
すっきりとした滑舌の良い声が告げる。ココは、より固く唇を結んだ。そこも勘付かれていたのか。と、言葉が喉の奥で転がる。
『そうであればお会いするのは良く、ないでしょう?美食屋四天王の一人である貴方が、その人として行動されている時に、女性を連れていてるなんて。私は、』
クラルは僅かに言い淀み
『ココ、さんの』
言葉を考えあぐねてやがて
『名誉に、傷を付けたくありません』
「何を言って、」
『始めは、伝えるべきか迷ってしまいました』
何を言っているんだい。そう言いたかったココの言葉はしかし、クラルの声に押し殺される。
『けれどただ、黙っているだけにしてもそれでは、貴方に対してあまりにも不実だと思いまして。どうあれ、貴方を欺く事はしたくありませんから』
「クラル、」
『すみません、……あの時、ご連絡を受け取れなくて』
「いや、それは…それより、」
『長話しすぎてしまいましたね。お借りしている物ですからこれ以上は、』
「かけ直す」
『ココさん……それは、マリアに迷惑がかかりますから』
「なら、今から会おう。会って話そう」
『ココさ、』
「今、部屋と言っていたね。どこのラウンジが一番近い?」
『いけません』
「な、」
『お教えできません。先ほど、お伝えしたでしょう?』
「僕は承諾していない」
『ココさん、』
「君一人くらい庇えない僕じゃない」
『それは、』
「会わないなんて…」
『それは今だけです。こちらにいる間だけ、』
「そうだとしてもだ。最愛の君にそんな事を言われて、行儀良くしていられるか」
ココの声は、クラルが出すそれより意思強く、そして僅かに怒気を含ませた低音は人を服従させるだけの力を感じさせた。「クラル」追い討ちのように、名前を呼ぶ。強く、けれどしっかりと甘く囁く声。クラルは、『いけま、せん』声を出した。
『貴方は今、四天王のお一人、ココ様として、こちらにいらっしゃいます』
「何を、言って……」
『どうか、そのように振る舞って下さい』
「クラル、」
『ココさん』
そして、ココの声を遮った。僅かな逡巡の後、けれどココが何かを言うよりは素早く、優しく。
『私を、愛して下さるなら……お願い』
卑怯だ。ココは、思った。
そうお願いされてしまえば、彼には頷く事しか出来ない。
ココはその場で項垂れて、キツく眉間にシワを寄せた。苦々しい表情のまま、前髪を掻き上げる。ココの足下に、自身の陰が深い色を差す。
「……君は時々、本当に頑固だ」
『…………』
その呟きに、クラルは沈黙で返した。それでも一瞬、何かを言いかけて止めた気配を感じたからココは、そこもクラルらしい。と、思った。惚れた弱みとでも言うべきか。ただ今日は、愛しさとは別の感情が湧いた。畜生。ココは、知らず唇を噛む。
「分かった。僕の負けだよ。君の、言う通りにしよう」
声だけは軽快さが伝わるように振る舞う。
「君の言い分は、全くの荒唐無稽と言う事でもないしね」
パパラッチ、ゴシッパー、或は攻撃の機会に切望しているネットジャンキー達。ココは立場上、その全てから好奇の瞳でみられていると自負している。有名税とばかりに、好き勝手祭り上げられている事も、一定の人の中で自身の性的指向が拗じ曲がられている事も知っている。
それでもクラルとの交際の中で、下手を打つ事は無かったし、逢瀬は自身のホームグランド、旅行の時は完全オフの日でもあったから彼等は比較的大人しかった。ただ1度2度、優男四天王の熱愛スクープとすっぱ抜かれ、記者の品性を疑う記事が流出しかけている事をマンサムがココへ教えてきた事だって、無かった訳じゃない。(マンサムから渡された所謂ゲラ刷りにはどこで調べてきたのか、クラルの出自に関する記述もあった。その時心底、この記者の存在自体つぶしてやろうかと思った)もちろん、1度目2度目と差し替えさせてから、すっかり大人しくなっているけれど。
慎重においていてそれなのだから、確かにクラルの言い分はあり得ない事ではい。修行は公の行為では無いにしろ、今回は揃い踏み過ぎている。トリコ、ココ、サニー、そして最近知名度が上がりだした料理人の小松。トリコと小松は1日きりの乗船ではあるが、降りる場所が場所だけに勘ぐり屋が目を光らせれば、厄介だ。
そしてその時最も恐ろしいのは、矛先がココでなく、クラルに向かってしまう事。諺を隠れ蓑に、火の気のない場所へ放火を企て煙を見せたがる人が居ないとは言い切れない。
『ココさん……』
「ああでも、クラル」
ただグルメ馬車はその特性上、いつかの様な悪意に塗れた人はいないと言い切れる。クルー達も場所に相応しい教育を受けているだろう。それでも、感情任せに予測できない行動をとる人と言うのはどこにだっているし、教育を受けていても素行が悪い人だっている。
現に今、ココの感情の揺れを察してか声をかけるチャンスと言わんばかりのオーラを垂れ流して、互いに牽制し合いながらもこちらを伺っている女性の存在は、1人、2人じゃない。その中には明らかにパートナーの存在を匂わせて居るのに、一夜の期待をココに向かって投げてくる。
「これだけ、約束してくれ」
『……何でしょう?』
ココは顔にかかりそうになる髪を後ろへ掻き上げた。不思議そうに、しかし緊張もしている彼女の声に思わず破顔する。そして、
「次にクラルに会った時の僕を、拒まないで欲しい」
こう続けた。
「僕を愛してくれて居るなら……頼む」