私初めは、彼に恋をしていました。それは勿論、彼が夫になるうんと前のこと。
 10年も経っていない筈ですのに、もうずっと遠い昔のことのように感じるのは、何故でしょうか。ずっと、遠い、思い返す度に懐かしい過去を眺めているような錯覚を覚えてしまうのは、どうしてなのでしょう。
 ……あの頃は、彼に名前を呼んで頂けるだけで嬉しかった。声をかけて頂けるだけで、触れて頂けるだけで、身体中が温かく満たされた。それなのにいつから私、こんな風になってしまったのかしら。私、いつから彼を、愛しはじめたのかしら。
 おかしいですね。恋に落ちた日のことは、鮮明に、はっきりと、思い出せるのに。彼に抱く想いが愛だと自覚した日のことはよく、思い出せないのです。分からないのです。(愛しているかと聞かれたら、よどみなくこの口は、はい。と言えるのに。この頬が薄紅に染まった日の記憶が、どうしてこんなにも曖昧なのかしら。)
 ただ今は、彼の不在を知って心がおちていくその時に私、彼を一番近くに、感じているのです。
 彼が、留守に為さる日。私は、ただ、職場と家を往復する日々を過ごします。リビングは使いません。休日は怠惰だと知りながらも寝室にディバイスを持ち込んでいます。ある日は理由を作って、IGOの仮眠室に泊まることもありました。だって私達の部屋は私ひとりには、広すぎて、食卓も、大きすぎて、私ひとりの為にキッチンを使う気にもなれなくて。なんだかひとりで座る食卓は、口に含む物全てを美味しいと思えなくなって、しまって。

 ……ですから、IGOのカフェテリアを利用していました。作ることを考えると、そこはプロの手ですし、食事補助もありますし、人も居ます。時間があえばアソシエイト達と一緒に摂る日もありました。あるいは研究室で、忙しさに身を置いていました。そうしたら気にされたのか、あの人は何度かお声をかけて下さいました。勿論、初めはお断りをしていました。けれど、出発なさった日に改めて、お誘いを頂いて、丁度私も、ご相談したいことがありましたから……。


「お尋ねするのに適切な方だと、思いましたし、」
「食事? したのか? 彼と? まさか2人でじゃ、ないよな」


 夫が、信じられないと言う表情で追求します。
 私は精一杯、不思議そうに見える顔をして彼を見つめます。


「2人、ですよ」


 彼はそのまま、絶句しました。


「どうして、他にも居るだろう。その、リンちゃんとか」
「リンちゃんは、専門外ですし……今は色々とお忙しそうで」
「だからって、あいつと……君が、」
「ご相談に乗って頂きたいことがありましたから。……貴方以外の男性と一対一だなんて、貴方とお付き合いする前みたいで何だか、不思議な気持ちでした」
「……分かった」


 彼は、眉間にしわを刻んだまま、大きく溜め息を吐きました。


「終わったことは、しょうがない。それは仕方ないとして……今後は止めてくれ」


 私は、彼の目の前で少し息を飲みました。

 どうしてそんな事を仰るの? どうして、そんな事が言えるの。 そう、思ってしまいました。だって、だって夫は、美食屋です。何日も何日も家を空ける方です。短かくて1週間、長くて1ヶ月、いいえ。それ以上。
 分かっていました。知っていました。どう言う方か、何をなさっている方なのか、そんな彼に対して当然私はどう振る舞うべきなのか知っていました。充分に理解していました。けれど、仰ぎすぎた理想は現実の中において緩やかに、決意と覚悟を蝕んでいくと、あの日の若さは教えて下さらなかった。気付きもしなかった。平常であれば取るに足らない事でも、あらゆる条件が重なる事で気鬱を誘発させるのだと、経年につれ現れた柔さが不意に、私達は対等であると言う誓いの記憶を前に、或いは謂れ無い妬みを前に、ある日の高揚を爛れさせていくのだと私は、知らなかった。

 林檎が赤く色づく様に、青さは時と共に成熟していくものでしたのに。私はそれを、見誤っていました。

 私が仰いでいた理想は、見知らぬ誰かが私達を納得してくださる為を夢見て選んだ、甘えでした。


「……なぜ?」


 甘え、でした。


「はあ?」


 彼は飛び出してしまった驚愕にご自身で驚いて、気まずそうに口を塞ぎます。私は目を瞬かせます。


「良いじゃ、ありませんか」


 彼が、目を見開いたのが見えました。


「貴方、いらしゃっらなかったのですもの」
「……クラル」


 声が高くなりつつあるのが、自分でも分かりました。


「ただ、お食事を、カフェでご一緒しただけだわ。私、ちゃんと自分の分は自分でお支払いしたわ。ご相談に乗って頂いただけで、本当に何も無かったわ。ご一緒していなかっただけで人は沢山いらっしゃったわ」


 それでも私は口を噤む事が出来ませんでした。


「先にあなたにお伺いすればよろしかったの? でも、あなた、そもそもこちらにいらっしゃらなかった。通信だって、まだ不安定で、」
「クラル、」


 彼の手が私の頬に伸びて、触れて。それでも私は止まらなくて、


「私、あなたとお話ししたくなっても、ココさん、いらっしゃらなくて。でもこんな事あなたに、言えないでしょう? 私がこんな事言ってしまったら、ココさん、」
「クラル……」


 眉間をもう一度険しくした夫が、でも、それは怒りじゃなくて、辛そうなお顔で私を抱き寄せてくださって、私達、視線を合わせたまま、


「あなた、気に為さるでしょう」


 夫は、唇を結んでいました。


「あなたの生き甲斐に、私が、口を挟めないでしょう」


 少し、何かを言いたげに開きましたが、私の言葉の方が先でした。


「だから私、私に出来る限りの事で、気を紛らわそうとしたの。あなたに罪悪感を植え付けたくありませんから」
「クラル」
「だって、あなたには自由で居て頂きたいって、したいように、なさりたいように生活していて欲しいって本当に、思っているのにあなたがいらっしゃらなくて私は、」


 その時、言葉に詰まってしまいました。
 私の視界はぼけていたので、夫がどんな表情をなさったのか分かりませんでした。ただ、言い淀んで戸惑う私を彼は強く、抱きしめました。
 薄い半袖のインナーを身に着けた夫の、男らしくてしっかりとした肩口に、頬が触れて、ひんやりとして、


「ココさん」
「うん」
「私、」
「……」
「わた、し……」
「分かってる。分かってるよ」


 彼が私を抱き直してくださるその時に私そっと、彼を抱きしめ返しました。鼓動が大きく胸を打っていました。瞬きをすると、視界が晴れました。だから私、しゃくり上がりそうになる声を押して、


「……ごめんなさい」


 温かく力強い腕の中でした。いつもより少し早い拍動でお互いの身体を満たす中、夫は、苦しそうなお声で小さく唸って、辛そうな吐息と一緒に、


「なんで、君が……」


 私を更にきつく、抱きしめて下さいました。


「そんなこと言わなくて良い」


 私は、彼の腕の中で、ただ消えてしまいたい。そう、思っていました。




:
:




 或る方は、私達を"不釣り合い"だと言いました。


「……お食事、ですか? ご一緒、に?」
「そうそう。だってクラルちゃん、昨日もお昼抜いてたでしょ」
「食欲が湧かないだけですので……お気になさらず」
「そんなんじゃココが帰って来たとき、倒れちゃうんじゃない? 俺、只でさえあいつに良く思われてないのに。大事な奥さんが根詰めすぎてぶっ倒れたとかなったら、近くに居たのに何してたんだってめっちゃ怒られそう」
「……それは」
「無いって言い切れないっしょー? ね? 俺の顔をたてると思ってさ」


 或る方は私に、"どんな手を使ったの"と、お聞きになりました。


「そんな緊張しなくても、取って食べたりしないって」
「……夫以外の男性と、ふたりで食事をするのは、とても久しぶりですから」
「マジ?」
「ええ……」
「それ、ココが嫌がってるから?」
「それは……、結局は人目の問題です。ゴシップが好きな方はどうしても、いらっしゃいますから。私の振る舞いで彼の評価を貶める訳にはいきません」
「………ふーん。てかそれで足りる? 少なすぎない?」


 或る方は、"彼はだまされている"と、


「つか最近、退勤後何してんの?」
「……」
「うわ、その顔。ばれてないと思ってたな」
「……はい」
「いやいや、アソシエイトの子達は知らないけどさー。俺は見抜くよ。俺、これでも伝説の再生屋の孫だかんね」
「どう、ご関係が……」
「まーまー。で、何してんの? さっきも言ったけど、根詰めすぎてクラルちゃん倒れちゃったら暴走しかねない人が居るの、忘れちゃ駄目だよー」
「………」


 或る方は、"あれは偽装結婚"だと、


「バレンタインのチョコレートぉ?」
「はい。その為の、材料育成なのですか……どうも何か不足しているのか……鉄平さん? 聞いてらっしゃいます?」
「……あのさ、クラルちゃんって結婚して結構経つよね? てか交際期間含めたら」
「7……8年でしょうか。それが何か」
「ふつー手抜きになってかない!? つか既製品で良いじゃんもう! 相手美食屋四天王のひとりじゃん! 手作りとか難易度たけーよ!」
「ですから今年は、原材料を以前検証のついでに鉄平さんが再生なさった古代種を使用しようと思いまして。そちらでしたらココさんもご賞味無いと思いますし。ショコラツリー、覚えていらっしゃいますか?」
「あ、前に分けてってお願いしてくれたの、そう言う事だったんだ」
「ええ。ですが……肝心のチョコレートが、どうも巧く成熟して下さらなくて」
「うわー。まじかよー。いや、あれ色んなテイストが育つから超むずいよ。努力家だとは思ってたけどさー……」


 或る方は、"認めない"と、


「クラルちゃんさあ、もう少し肩の力抜いても良いと思うよ」


 或る方は"私の方が相応しいのに"と、或る方は"一般人が出しゃばるなんてあの人の負担を増やしている"と、


「周囲からのプレッシャーつーか、嫉妬? 凄いとは俺も感じてるけど」


 或る方は、"奥さんのせいでフルコースが揃わないんだ"と。或る方は、……或る方は、


「ココもきっと、クラルちゃんにはクラルちゃんのままで居て欲しいと思ってるだろうしさ」


 "子供が居ないのは、彼に愛されてないから"だと。


「私のまま……ですか?」


 耳を塞ぐのにも、限度がありました。


「ま、俺は本人じゃないから巧く言えないけど。とりあえずショコラツリーね。ちょっと特別な腐葉土が必要だから、調達してあげるよ。ま、クラルちゃんには資金調達でお世話になってるし」


 友人が励ましてくださるように、心のさもしい方々だと決めつけて一蹴してしまうなんて事、私には、出来ませんでした。
 ですからせめて、せめてもの抵抗として。私は、彼を、驚かせて安心して頂きたかった。彼が私を選んで下さった事に、その選択に、間違いは無かったのだ、と。思って頂きたかった。そう、思って頂けたら私は、………。


「ココ、喜んでくれると良いね」







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