意識下では彼を驚かせたかった。その無意識下では彼に嫉妬して頂きたかった。でもそれは、何のためにでしょうか。どうしてそんな思考が芽生えたのでしょうか。
私、いったい、誰を意識していたのかしら。
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部屋は、時計の音が響いていました。リビングの壁にかけていた、アンティークのコネチカットです。そのテンポに呼応する様に鼓動は緩やかに規則性を取り戻して、彼のゆったりとしたリズムに、少し汗ばみ始めた肌に、軋み始めたこの身体に私は、やっと口を開きました。
「ココさん……」
顔を上げる為に、その分厚い腕周りに手を寄せれば彼の力は少し抜けて、私達夫婦は、とても近い距離で見つめ合いました。私はいつのまにか彼の膝の上に乗っていました。(それはいつもと変わらない、ことでした)夫の、長く揃った睫毛のその艶と、瞳の薄い境目やその模様まで、よく見えました。
それが、きめ細やかな肌、形の良い鼻梁、適度に厚い唇が持つ淡い色合いと調和して、本当に、彫刻の様に美しい造形でした。それなのに私を見つめてほんの少し、微笑む目尻はもう、癖になっているのでしょう。
「クラル……」
ようように吐き出された声のその掠れた低さまで、隠しきれない慈愛が滲んでいて、それは彼の喉元から香る男性の色気と良く、似ていました。
「私、あなたに、」
私は姿勢を整え、でもこの両手は、彼に触れたままでいました。
「うん」
私の手の下にある彼の逞しい胸は、ぽん、ぽん、と温かく脈打って、強張りました。私の背中の、腰の辺り。身体を支えるように回されて組まれていた彼の手に力が篭ったのが、分かりました。
「あなたに、内緒で」
「……ああ」
だから私は、精一杯の後ろめたさを抱いて、白状したのです。
「チョコレートを作っていました」
「そ、−−え?」
「研究室の一室を、お借りして。鉄平さんから株分けして頂いたショコラツリー。……その、絶滅種を再生したもので、一般流通の目処はまだたっていませんからあなたも召し上がった事、ないかしらと、思って。うまく育てば樹液がとても味わい深いチョコレートになりますから、そちらを加工するか、どうするかは、決め兼ねているのだけれど。バレンタイン用に……」
「チョコ、レート……?」
「ええ。以前、別案件で再生依頼をしたシャーレの中に、遺伝子情報が混入していたみたいで……ただ、古代種ですから成熟に必要な腐葉土がかなり特別な配合で」
「チョコ……」
「ご相談にのって頂いたのは、そちらの事なの。私からけぶった香りもきっと、そのお世話で付いたものだわ。毎日専用の腐葉土を鉄平さんから頂いていますから」
「……そう、か」
この胸は申し訳なさで、一杯でした。
「紛らわしくしてしまって、ごめんなさい」
「いや、良いんだ。いや……うん」
夫は、少し気まずそうに、口元を押さえました。そして、彼の膝に座る私をじっと見つめて、言いました。
「先走って……ごめん」
薄いスリップ姿の上に夫のシャツを、袖だけ通した私の姿は彼の目にどう映ったのでしょう。
「怖い思いを、させた」
「……いえ」
「それと、」
私は夫と視線を合わせたまま、首を横に振りました。
「君にさ、」
「ココさん」
私は、彼の言葉を遮りました。
「そちらは、仰らないで」
咄嗟に夫の口を手で、塞ぎました。
「……お願い」
私達はしばらく見つめ合っていました。「……ね?」辛そうに眉間を寄せる夫の視線に耐えきれなくなった私は念を押しました。掌の中で、彼の厚い唇がきゅっと結ばれた気配がしました。夫は、何も言わず、頷きもしないままそっと、私の手首を取って、優しく、その整ったら口元を露わにしました。
そして私を、今度は先程よりも強く私を抱き締めました。
「いや、言わせてくれ」
耳元に、彼の声が、息が、触れました。
「ココさん」
私は驚いてしまって、身を強張らせました。
「クラル」
抵抗は出来ませんでした。
「寂しい思いをさせてすまない」
ひと息に出された言葉に、身体が熱くなりました。
「本当は少し、いや、本当は気づいていた。だが、君の振る舞いに……甘えていた」
私、言葉を作れませんでした。
「謝るのは僕の方だ」
私、何かを言いたかったのに、何も言えませんでした。
「ごめん」
私、こんなことを彼に言わせたくありませんでしたのに。
「本当に、すまないと思っている。僕は、」
言わせたく、ありませんのに。彼は、私を抱きしめて私の耳の横、首元に鼻先を寄せているのでその口を私は、塞ぐことは出来ませんでした。
「君に、寂しさを抱かせていると、気付いていた。辛い境遇に立たせてしまうと知って、いた。なのに僕は、気休めでも君を安心させる事が出来ない。僕は、」
言わないで。と、言えば夫は、その口を自ら閉ざしてくれたかもしれません。でも私は、何も言いませんでした。
「僕は美食屋だ。これからも、ずっと、僕は旅に出る。また君を心細くさせる。なのに、僕以外の男が君と親しくするも、君の心を支るのも、君に触れるのも、耐えられない。分かっているのに、」
何も、言えませんでした。
「君を、手放せない」
彼が繋ぐ言葉に、静かな熱を感じました。
「君には、傍にいて欲しい」
私、息を飲んだ喉の奥で、いいの? と。
「君の居る場所が、僕の帰る場所なんだ」
彼の体にそっと手を添えたその指先や、微かに零れ出た吐息の奥に、掠れた呼吸の中に、飛び出しかけた言葉を彷徨わせました。
「だからもし、何かあったら僕に話して欲しい。寄り添わせて欲しい。何があっても、何を聞いても僕は、」
でしたら私を、
「クラルを離さない」
どうして彼は、私が欲しい言葉を、淀みなく伝えて下さるのでしょう。
「離せない」
それなのに私の心はどうして、こんな彼の隣に居る事が許される幸福をもってしても尚、満足が出来ないのでしょう。
「愛してる」
静かに、吐息を漏らす様に彼の名前を呟いて、ただ彼の体にしがみつく私に夫は、惜しみない愛を下さいます。
硬い胸から拍動や浅い呼吸の騒めきが伝わって、しずしずと私の空洞へ流れ込んできました。愛してる。君だけだ。クラル、クラル。と、同じ言葉を繰り返し繰り返し繋ぐ彼の声は次第に湿り気を帯びて、私のはしたなさに届き始めました。
私、なんだか気恥ずかしくなってしまって。思わず顔を少し、動かしました。そうしたら夫も私にあわせて身じろいで、視線が触れたら嬉しそうにまなじりを細めて、つられて同じ様にしてしまう私の唇に温かい吐息を擦り寄せてもう一度、その場所で、「愛してる」と、仰って下さったその声に私も、同じ答えを返したこの唇を夫は、その柔らかくも張りのある熱い質量の口元で、塞いでくださいました。
吸うように、食むように、或いは彼の分厚い舌の器用さで、私の内側をまさぐってこの身体に産まれていた寂寞の毒素を、掬い上げて代わりに請け負おうとする、ように。
そうして、
「……あの」
「……ん?」
「不安を抱いて、」
ごめんなさい。そう、息継ぎに伝えかけた私の唇を夫は言葉よりも早く、塞いで、音を立てて吸って、
「君はそんな事を言わなくて良い」
と、彼はこの髪をなでて下さって、クラルの我が侭ならもっと聞きたいよ。と、親指で目尻を撫でつつ口元を舐めても下さってそして、ふと、真剣なまなざしを覗かせて
「だから君が、気に病む必要は、何も無い」
彼の名前を呼んで驚きを隠せないでいる私の前で、夫は、「常に正しくあろうとしている君を僕は良く知っているから、ね」と、やらかな言葉を温かいキスとともに、下さいました。
指を絡め合う私達の手には、いつかの誓いが超然と、輝いていました。