そう。私は、私が思っていた以上に、神経をすり減らせていたのかもしれません。盲目になっている内に穴がぽっかりと、開いていたのかもしれません。
 日々が穏やかであればある程、彼が、優しければ優しい程、例えようの無い暗鬱が胸の奥からせぐり上がっていたのでしょう。ですから、あの時、彼の視線を受けて私は、気付いてしまいました。

 私、彼に、勘違いして頂きたかった。

 結局私、彼が、驚いて下さるなら本当は、何でも良かったのです。彼に今以上に深く愛されたかったから、こそ。あの人との交流を拒めなかったのです。だって典雅に笑う夫じゃない、いつかに目にしたあの、嫉妬を籠らせた気性の荒い瞳の彼に、私、もう一度お会いしたかった。ご自分以外の男性が私に触れる、その、光景に嫌悪感を抱いて対象を睨み据えていたあの瞳をもう一度みたくて私、つまり、そう、私はあの人を、利用した。

 年を重ねて私、厭な女になりましたね。(私に関わるあらゆることで、その穏やかな感情を霰も無く乱して欲しいだなんて、浅ましい)


 室内へと私は、足を踏み入れました。後に夫が続いて、私の真後ろで、ドアを閉めます。薄暗い部屋です。廊下面にだけある窓のシェードはそういえば、1度も上げたことはありません。人影がよぎり、靴音が遠くなります。


「あら、そのままで」


 閉じたドアの真横。タッチボタン式のパネルに手を伸ばしていた夫の行動を振り向きざまに遮ります。
 手近な棚に、タブレット端末を置いた私に向かって、夫は、眉をひそめました。


「しかし……君には、暗いだろ」


 主語が私にあるのは、彼の目が特別でいらっしゃるから。


「平気です。このくらい」
「だが……」
「大丈夫、ですから」


 私は、微笑んで見える表情のまま、心持ち言葉を強くして、彼と開いていた1歩の距離を詰めました。
 手を伸ばして、夫の整ったお顔の美しい頬に、指先を添えます。


「あなたの事は、ちゃんと見えますから。ね?」


 頬骨から輪郭をそっと撫でます。指先にあたるちくりとした生え揃えの感触に私の目は自然と細まります。


「クラル……」


 夫の、形の良くて皺の薄い唇が、私を呼びます。整然と白い歯を少し、覗かせて、口角を嬉しそうにして、それはとても蠱惑的でした。私は指先で、彼の毛の短い揉み上げの先をなぞりました。
 私の腰のサイドには、彼の両手が恭しく触れて、包まれて、引き寄せられて、私たちは暫く、見つめ合っていました。


「……屈んで、下さらないの?」


 真夜中、呼吸を忙しなく繰り返す私を尚も攻め立てた時のように、両手それぞれの親指が、私の脇腹を優しく押すのです。
 それでも今の身体は、布越しに、触れて、鼻先は真っさらな、彼の香りを感じ取ります。あの、汗の香りとはまるで無縁でした。


「後ろが壁で、限界があってさ……。少しつま先で、立てるかい?」


 お互い、今出来る精一杯で顔の距離を近くして、引き寄せあって、キスをしました。
 触れ合い、吸い、絡める体温は夫婦のそれのまま、夫も私も、微笑んでいました。短いのか、長いのか、私には分かりませんでした。測る気も、ありません。慣れ親しんだ唇の感触と味わい、香り、癖、温かい体温。その全てが、触れ合うたびに惜しくて、足りなくて、このままでいたいと思ってしまったのは、夜の名残のせいでしょうか。
 ですから、ほんの少し開きあった口の中で、私の舌の窪みに夫の舌先が触れて、なぞられた時に起こってしまった変化に私は、思わず唇を離して夫の厚い胸板に、縋り付いてしまいました。


「……クラル?」


 夫婦の体温になってしまったのが、いけなかったのでしょう。


「どうした?」
「いえ、」


 夫婦の、体温になってしまったから、溶け出してしまったのでしょう。


「……少し、驚いてしまっ、て」


 夫はその痕跡を、とても深くに残して居たのに。いいえ、とても深い場所に留まっていらしたからこそ、今、私の身体は彼の気配に敏感なのです。


「ああ……」


 夫は、溜息に似た声色で、得心がいったと言わんばかりの感嘆を漏らしました。そうして私を、すくむ様に抱き締めて、少し意地悪な口調で、色っぽく、


「溢れ、ちゃった?」


 後ろから、私へと手を伸ばして、布越しに、撫でました。
 もう一度身体を震わせて、私、私は今日夢でも見ているのかしら、と、思いました。だって、これまでの夫はそんな事なさらなかった。私が傷つくこと、私が怯えてしまうこと、夫はご自分の人となりを良く理解なさっているからこそ、なさらなかった。それが前夜から、変化しているのです。
 ですからずっと困惑して、なのに、その時の私には、その夫の変化が嬉しくありました。(ああ、そうね、だからだわ)


「だから、早く帰ろうって、言ったのに」




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:




 あの日の、夜、夫は私を強く抱きかかえたまま、リビングへと運びました。


「あなた」


 私は、彼に、自分で歩くことが出来ますと言いました。彼は、その懇願を退けました。
 無言で、静かな抗議でした。
 夫は、何かを深く考えているようでした。コートを着たままだった私は、焦りの中で火照る体を籠らせていました。だからこそ衣服や状況を改めたいとお願いをしましたが彼の様子は、代わりありませんでした。私も彼の様に、感情の揺らぎが視覚で捉えられたらどんなによかったかしれません。
 彼と長く居るのに、その可能性の兆しは全く見えないなんて、人は、不平等です。
 彼は、あっという間に私ごとソファへと座り、腰を落ち着かせました。私はそうあるべき時の様に、彼の膝の上に着座させられました。彼の力は本当に、とても強いので、私に抵抗の選択は産まれません。
 深くため息を吐く彼の眉間は、寄っていました。


「ココさん」
「クラル」


 綺麗な目が、声が、私の言葉を遮ります。


「何を、隠してる?」


 私の喉は、緊張で強張りました。


「隠してる、とは……」


 快適を求めたリビングはいつもと分かりなく、私達を迎えてくれました。いつもであれば私達夫婦はソファに並んで、身を寄せ合い、会話を楽しむのですがこの日は、違いました。
 張り詰めた空気の中、皮膚から溢れた汗が、首筋を伝います。


「何も、ありません」


 絞り出す様に声を発して、後悔しました。彼は、誰よりも感情の変化に敏感でいらっしゃるのに、こんな行動は筒抜けでしょうに。私は奥歯を嚼んでコートの襟を、思わず握りました。


「本当に、何も」
「ああ。脱ぎたがってたね」
「――え?」


 戸惑いが拭えない私の手を、彼の掌が包んで、解いて


「ココさん――、っ!」


 私の衣服を強引に、剥ぎ取りはじめました。
 それは、コートだけではありませんでした。


「あ、あの、やだ、どうして」


 体も、足も、彼の力で抑え込まれます。それは本当に強くて、大きな筋肉を持つ男の圧力は本当に、この体を萎縮させてしまうので、抵抗はとても弱くなってしまって、その時にはもう私、彼に押し倒されていて、


「どうしてって、脱ぎたがってたから」
「コート、です、コートだけ、あの、」


 やがて私のコートの厚い生地が強引にこの腕をすり抜けるとき、夫の手は私の、ブラウスの合わせを、掴み、


「よかった、ただのワードローブだな」


 引き裂きました。


「−−やっ」


 コットン生地はまるで、薄紙の様に呆気なく伸びて、力に負けた釦の糸は千切れて弾け、床にバララと転がり落ちて私はもう、驚いてしまって、だって、彼が、私にこんな事なさるなんて信じられなくて、身体は竦んでしまって、


「あなた、あなた待って、やめて」


 竦んだ身体は彼の力にとても従順になってしまって、コートは床に落ち、ブラウスも袖から裂かれ抜かれてスカートのホックも壊されて、私は、徐々に霰も無くなって、スリップがランジェリーを隠してくださるけどストラップは、乱れ髪と一緒に肩に落ちかけて、あまりにも信じられなくて私はそこで初めて彼を真っ直ぐに見上げました。きっと睨んでいたでしょう。掌が強張っていましたから、表情も同じだったと思います。
 けれどその緊張も、とても近い場所から私を見下ろす夫の、激しい気性の気配に、震えているその握り拳に、眼光鋭い目と眉がうんと近くなって居ることで産まれる陰りに、なのにその緑が燃立つ程の悋気は私では無くて、この場に居ない第三者へと注がれている事とそして、リビングは私が居てもしんと暗くて、明かりは窓から差し込む薄明かりだけだと言う事に、気付いてしまったら、私は、私の胸の奥は、


「……話が、したかったんだ。だが、」


 決して静かではない鼓動が、打ち鳴って、


「君から、他の男の香りがするのは、」


 彼の声に、薄いレースの胸元へ擦り寄る鼻先に肌は汗ばみ、


「許せない、」


 はしたなく、疼いて、浅ましい謀略に気付いてしまった、私は、私は彼の頭を抱くように、しがみ付きました。掻き抱いてから、拒まれたらどうしましょうと、不安を過ぎらせたのに、私の腕は不安に対して我儘でした。


「ココさん」


 この唇もまた、言うべき物を分かっていたのに、それは声に出来ませんでした。


「あなた、勘違いなさってる」


 それでも幸運だったのは、彼が私を拒まずに、抱きしめ返して下さった事でしょう。暖かい掌と力の強い腕は軋む背中さえ愛おしくありました。


「……勘違い?」


 彼が、まだ、私を信じようとして下さる事の幸福をなんと言い表せば良いのでしょう。
 過去の私の振る舞いの蓄積が彼の中で信頼となって息づいて、その特別な視力が与える展望を、凌駕していると言う、特別な繋がりに私の胸は詰まりました。


「ええ……勘違い、なさっています」
「誓い合った筈の君から、他の男の香りがしたのに、勘違いだと言うのかい?」
「……どうして、男の香りだと思ったの」
「同じ匂いを知っている」
「同じ、におい?」
「ああ……樹液と、腐葉土、森林に似た土の香りだ。色々あったからね。よく、覚えている」


 彼の唇が動く度、その高い鼻先が、口先が、じわじわと私の皮膚に触れます。
 私の鼻先は彼の、少し硬い触りが心地よい髪の中に埋もれます。温かい匂いがします。私は、お腹に力を込めました。


「……鉄平、さん?」


 彼の指に力が篭りました。


「親しくしていたのは、知っている」
「実験を、手伝って下さっています」
「あいつには……あまり、良い印象が無い」
「再生屋の中でとても……優秀な方、です」
「だとして……服に、匂いが移る距離で」
「何もありません」


 彼の指が、私の皮膚に深く深く、食い込みました。それが、痛いと思う手前で彼が顔を持ち上げました。私の腕の中から、私よりもうんと大きくて逞しい体格の男性が、私を見上げるのです。
 じっと、静かに。(この時ばかりは私を疑っていました、ね、あなた。)


「何も、ありません。何も。私達の誓いに、誓えます」


 私はこの体に受け始めた彼の重さと熱を感じながら、繰り返して言いました。


「きちんと、お話をします。でも……この体勢は、少し、厳しいわ」


 彼は少し、思い悩んでいました。けれどまた、ほんの少しの時が経つと、大きくて節くれ立った彼の指や掌が、私の腰を掴んでそっと起こして下さいました。


「すまない……」


 そして、コートを拾い上げようとした私の肩に夫は、いつの間にか脱いだご自分のシャツを掛けてくれました。
 見れば彼は如何ともしがたい表情で口をまごつかせます。


「服、」
「はい」
「申し訳、ついでに……」
「……はい」
「新しいのを買うから、もう、触るなよ」


 私は、ほんの少し照れ臭さに頬を染めた彼の前で、つい少し、笑ってしまいました。そんな私を彼は抱き寄せて、更に「仕方ないだろ。……嫌なんだからさ」なんて仰るので私はもっと喉を鳴らして、安堵に満ちた笑いを零してしまったのです。
 それが良い事なのかいけない事なのか、分からない、まま、ただ、彼の腕のなかで、肩の力を抜きました。










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