彼の来訪に、研究所は色めき立ちました。友人達は元より、あまりお話したことの無い方迄やってきます。夫は人当たりのいい表情で礼を尽くして下さいますが、念を押すことを忘れません。
「あ、触らないで。僕、毒があるから」
いつもの彼らしい警告を交えていましたがその行動は、いつもの夫らしくありませんでした。(と言うか私が居た状態でその紋切り型は、意味をなすのでしょうか)いつもは、消命と言う、存在感をまったく感知できない程希薄にさせて、歩くのです。そうすると人の目をやり過ごせますし、騒がれずに済みますから彼にも私にも都合がいいのです。なのに、今日は、違いました。
今日はとても上手に、人をあしらいます。
時期が時期ですから噂を聞きつけていらしては、彼に甘味を差し出す方がとても多いのですが、「すまないけど……」後に続く言葉はその人に合わせて、丁寧に、あしらっていました。それは本当にきちんとしていて、こう言われてしまえば断られても仕方がないわと思えてしまう所作でした。私もこのようにすれば、遺恨を残さずに済むのかもしれません。
彼は、本当に巧みです。頃合いを見計らって場を離れるその動きも、自然でした。
数日前、私の靴音が良く響いていた廊下に今日はもうひとつ、彼の革靴の音が響きます。間隔は私のよりうんとゆっくりですが足取りはとても確りとしています。
「君の白衣姿、久々に見た。やっぱりいいね」
「……そうです、か」
「クラル?」
彼の指定した時間に歩く廊下は、以前と違って不思議と、私達以外の方が居ません。グルメ研究所は24時間態勢ですから、誰かしらは必ず居ますのに、先ほどのざわめきと一変して、研究棟はとても静かでした。
「いえ、なんだか、釈然としなくて……」
「何がだい?」
誰も居ないのを良いことに、夫は私の肩を抱き寄せていました。
私は腕にタブレット端末を持っていますので夫には触れられませんが、その手をのける素振りはしません。職場ですが、夫婦ですから。アジア圏出身の方は一瞬目を見張りますがそれ以外の方は全く気にしないのです。そしてこの階層には後者の方が多いので、まあ、慣れてしまいました。(たまに見かけるのです。研究者同士の番が、とても多いですので)
「みなさん、あなたの言葉だととても素直だわ。いつもはもっと食い下がりますのに」
「……君には、苦労をかけるね」
私に体はすっぽりと、夫の脇の下辺りに収まっています。彼は本当に、とても背が高いのです。見上げると、目元の睫毛が長いことと、フェイスラインのシャープさが良く分かります。見慣れているはずのなのにその遠さに侘しさを覚える、不思議な距離です。視線が触れ合います。彼は、私を愛しそうに見下ろして、体を一層引き寄せてくださいました。
「次にお願いされたら、夫がまたこちらに来た際にでも直接お願いします。と、言おうかしら」
彼は気まずそうに黙り込んでしまいましたので、この話題はここで、終わってしまいました。
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それにしたって全く、信じられないことです。
ラボに行く道すがら、私達はどなたとも会いませんでした。彼が人の注目を集めたのは改めて待ち合わせをしたゲートフロアだけでした。階内に誰もいらっしゃらない、というわけではありません。人の気配はそこらかしこに漂って、ついさっきまでいたのだろうという匂いを感じる道すがらもありましたのに、私達は本当に、どなたとも会いませんでした。
全く不思議な状況です。私のアソシエイト達にも、会わないなんて。
「貴方に、お会いしたがっていたのに」
扉横のセキュリティにID証をスキャンさせます。高レベルな機密実験ではないので、解錠さえしてしまえば、簡単にテールゲートできてしまいます。そもそもの責任者は私ですから、裁量も私にあります。
「今度でいいよ。今日は、君の秘密の収穫に来ただけだからね」
「……ココさん」
「終わったら帰ろう」
「え?」
何を仰るのかしら、この方。
「君の実験なら大丈夫だから、今日はフレックスにして一緒に帰ろう。ね?」
「ね? と、可愛らしくされても私、困ります」
スキャン認証が下りたのを確認して、登録指でテンキーを押します。この後はパスワードと指紋の認証作業です。
この世の終わりが視えてしまったようなお顔をしている夫の事は、見ないようにします。
「……奥さんが、冷たい」
「はいはい」
ぴ、ぴ。と、設定コードの8桁をひとつひとつ入力します。
「君って、職場と家で性格が変わるタイプだったっけ?」
「どうでしょうねえ、考えたこともありません」
「昨夜はあんなに……可愛かったのに」
「あら、セクシャルハラスメントですか。感心しませんね」
夫は、如何ともしがたいお顔で静かになりました。やっぱり冷たい。とでも思っているのかもしれません。実際、そうなのかも、しれません。私は一度短く笑って、口を開きました。
「職場ですし、どうしても気が張ってしまうのかもしれません」
夫の意識が私に向かう気配がします。仰ぐとこちらの想像通り、私を見下ろしている彼と、目が合います。
「もし、お気を悪くされたら……」
「いや」
肩を抱いて下さる夫の掌に力が優しく、籠ります。
「君と軽口を言い合えるのも、夫婦って感じがしていいなって思ってるよ」
夫は、とても出来た方です。彼は自然に腰を折って、滑らかな動きで私の額にキスをしました。ですから、次は私が沈黙を選んでしまいました。
最後のナンバーを打ち終わったとき、解除を示すグリーンランプが灯りました。開錠の音が聞こえます。
再び施錠される前にと、ノブを握ろうとした手を制してドアを開けたのは、夫でした。私のラボで、彼は名義上、研究視察の来客者ですのに彼は、本当に、自然に、なさいます。
「レディファースト」
どれだけ気取っても、すまして見せても、この方にはきっと永遠に、敵わないのでしょう。
「……ありがとうございます」
ですから何もかも、見透かされて、この方の前に立つと、自分でさえ蓋して盲目になっていた感情が、私にも、視えてしまいまうのです。