彼は、誠実な人でした。
 どんなに離れて遠くに居ても、私のことを、想って下さっていました。私は、彼の人生においての生き甲斐にはなれませんが、彼はいつもこう仰って下さいました。愛している、と。
 私の生き様と彼の生き様は交わらないからこそ、素晴らしいのだと、お互いの生き方を愛してしまったからこそ、今、生活を共にして愛し合うこの時間が一番何より、尊いのだと、分かっていました。君がいるから絶対に、僕は帰って来る。とも、言って聞かせて下さいました。いつも、いつも彼は私を大切に慈しんで、彼にとって特別宝物のように扱って下さいました。
 
 私は、もしかしたらそれが、悔しかったのかもしれません。
 
 私は彼が旅から戻る為の岬でも無ければ灯台でもありませんもの。私は、私、です。IGO第一ビオトープのバイオテクノロジー研究棟で、自分だけのラボを持つことを許された研究者のひとりです。運良く四天王ココに見初められて嫁いだ女だ等と、そんな、浅いシンデレラストーリーの材料じゃありません。
 あたしより先に出会っただけ。だなんて、そんなことがどうして分かると言うの。何もかもが特別で、なにもかもに選ばれた男性の隣に居つづける重圧が、貴方に分かりますか。彼の隣に居ることを値踏みされて、彼と居るだけで私と言う人間の本質を知ろうともしないで一人前に嫌悪感だけは見せつけて来る方と関わることの、悪意を向けられる苦しみをご想像為さったことが、無いからこそあんなことが言えるのです。あんなことが、出来るのです。
 彼は、結婚しても恋人時代のまま、食材のシーズンになれば何日も家を空ける方です。心細さに襲われた夜は隣に居て下さらないのに、お戻りになれば独占欲を露になさる方です。私を、特別にして下さるのに、愛して下さるのに、その愛がただ切ないと思ってしまう私は、薄荷を舐めた様な感情だと、気取った修飾で有耶無耶にしてしまう私は、わたし、は……。
 
 彼を、一度で良い、心の底から驚かせてみたかった。
 
 驚かせて、流石僕の選んだ女性はひと味もふた味も違うのだと、その整ったお顔をくしゃくしゃにして心の底から、笑って頂きたかった。だってこんな不安、口にできますか。(できるわけがありません。)思い悩むくらいなら身を引けばと仰る方がいるでしょう。(気にしないと一蹴するには、彼のファンはあまりにも多過ぎるのです)口には出さずとも、お思いにはなってその顔に、憐憫色の軽蔑を、宿すでしょう。(凡人の私にだって、そのくらいは見えますから)
 
 だから……。
 
 隠し事が通用する方じゃ、ありませんでした。知っていたのに、どうして、どうして私は隠し通せると思ったのでしょう。ただ私は彼を、本当にただ、ただ、傷つけるつもりなんて、ありませんでした。
 
 

 私が持っていた秘密を隠すベールが、ついに暴かれてしまった、夜。私は、夫に抱かれました。

 何度も何度も、何度も。まるで夜が開けない場所に2人閉じ込められてしまったかの様に、彼は、彼は私を、こんな私をそれでも愛していると仰って下さって、離さないからと、繋いで下さって、彼は、私を、抱き続けてくださいました。ベッドはいつもより嬉しそうに、きしきしきしきし、と、軋みました。
 私はそれでも堪らなさに震えて、待って。と言いました。彼は、やだ。と、喉を鳴らしていました。彼が動くたびにこの体はしとどに濡れて、それは、とても、はしたないほどでした。そんな私の痴態を、夫は悦んでいるようでした。大きな彼の体躯に押さえつけられて、不自由になってしまうその時さえも、陶酔を抱いてしまったので「問題、無いから」そう改めて、求めらた時、私は、夫を、拒めませんでした。
 私達は荒い息遣いと深い口づけの隙間に、もの言わぬ期待を隠したのです。
 夫は何度も、何度も、何度も、私の中で痺れを切らしました。私はその度に、何度も、何度もなんども、彼を、この器に受け止めました。

 
「明日……僕も君のラボへ、行く。いいね」

 
 喘ぎすぎて咳き込む私の背をなでて彼が囁いた言葉は、声だけが甘く、有無を言わせない響きがありました。
 私はくたくたになっていて、何と答えたのかは記憶にありません。ただ、夫の熱い逞しさと激しい鼓動を体の奥と外に感じたまま、次に瞼を開いたときには、夜が明けていました。
 喉は枯れていて体は、すっかり満ち溢れていました。受け容れきれなかった夫の精が足を湿らせて、シーツは寝心地が悪くなっていました。

 彼は、私を強く抱きしめたままでした。

 私の身体は、爪先から髪のひと房に至るまで、(離さないから。)情熱を込めて囁いていた夫の香りが染み込んでいてそれは、私の頬を、微かに濡らしました。
 
 
 


 

 
 それにしても如何してこの方は、私のことになると本当に、見て見ぬ振りをして下さらないのでしょうか。全ての支度を整えて玄関へ向かった私は、コートをフックから取る時に一度振り返りました。
 

「本当に、いらっしゃるの?」

 
 後ろにいた夫はジャケットを羽織りつつ、私へ微笑みます。
 

「ああ、勿論」
「当日迄、待って下さることは……明日、です、し」

 
 信じられないものを見る目を向けられました。心が折れそうです。
 

「君ひとりでやってる事だったら、見逃したけどさ。違うんだろ?」
「それ、は……」

 
 何も、言えません。
 

「あと、本当は足腰辛いんだろ」
「あなた……っ」
「休めばいいのに……僕の奥さんは仕事熱心だからなあ」

 
 夫は意地悪そうな声とお顔をして、上機嫌そうにしています。もう既にくたびれかけている私とは大違いです。
 

「途中で倒れでもしたら大変だ」
「ですから待ってと、私、言いましたのに」
「あれじゃ無理だよ」

 
 声を零して、お笑いになります。しっかりとした立ち姿のまま、袖元を整えます。
 

「それより、クラル」

 
 不意に彼は、私を呼びました。フックに掛けてあったご自分のマフラーを手に取ります。
 高くて逞しいお体に、開衿シャツと生地の厚いジャケットはとても良く、似合っています。昼に近づきつつある陽光の中で見つめる姿は品よくされていて、そのまま、微笑んで私の首元に彼の、柔らかいマフラーを恭しく、そっと巻いて下さって、目尻にキスをしてくださって、

 
「往生際が、悪すぎるんじゃない?」

 
 とても穏やかな出で立ちですのにそれは、有無を言わさない笑顔でした。私に触れる手だけはいつもの様に、いえ、いつも以上に優しくて丁寧で、それが酷くミスマッチで、「ね?」「……はい」私の心はとうとう折れました。
 
 



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