「おつかれさま」

 
 定期便が停まるターミナル近くのコーヒーショップ。人が疎らな店内。その、一席で、彼が待って下さっていました。席を立って、私の為に、椅子を引いて下さいます。小さな丸いテーブルで、彼からして丁度45度の位置に置かれていたスツールです。
 

「ありがとうございます」
 

 私はスカートが皺にならないように気をつけて、座ります。着座を促されたと言うことは、少し長居をなさるのでしょう。入店の時に購入したミントシトラスティーのカップを手前に置きます。彼の前にはおそらく、アールグレイクラシックが満たされたカップが置かれていてその横には、シルバーのラップトップが一台、開いていました。
 

「占いのお仕事を、なさっていました?」
「ああ」

 
 サイドにはコードがついていて、それは少し長く、先がふたつに分かれています。ヘッドフォンです。
 

「貴方が、人目につく所でなさるなんて……珍しいこともありますね」

 
 想うままに口にすれば彼は、肩をすくめて、「それがさ」大きいヘッドフォンの耳へ充てる部分を手に、持ち上げます。
 

「これを付けていると、声を掛けられなくてすむ」
「あら、」

 
 そうして悪戯を企てる子供の様に無邪気な前のめりの姿勢で、小声にもなりましたので私も、それに倣いました。

 
「大発見ですね」
「ああ、お陰で念願のひとつが叶った」
「念願? なんです?」
「夫婦になってから色々あって、クラルとカフェデートが出来なかっただろ?」
「ええ……もしかして、気にしてました?」
「気にと言うか、したかったんだ」
「まあ、初耳」
「僕は元々、不言実行型だからね」
 

 少し、2人で忍び笑いました。
 

「ひとつということは、もしかして、まだございます?」

 
 いつの間にか彼の距離がうんと近くなって、私の額に額が触れました。

 
「うん。ある」
 

 思わず顎を引いてしまったのは、それが私たちがキスをする時の、習いの一部だったからです。だって今は、人目を忍べない場所ですから。気恥ずかしく思います。
 

「そちら教えて頂けるかしら?」
「そうだな……」
 

 混じり合う視線の、彼の瞳の奥が、期待を込めていました。彼が少し身を乗り出したので、私達の前髪はざらりと絡み、彼の高い鼻先が、私の鼻先と擦れ合います。
 

「こちらでは、いけません」
 

 私はうんと、小声で囁きました。
 

「……残念」
 

 彼は勿体ぶった含み笑いをこぼしてそして、名残惜し気に私から離れました。そうして、まだ湯気が立つ紅茶の一口をお含みになります。
 私はいつもの様にじっと、彼のその所作や横顔の美しさを、男らしい髪形やその色を見つめます。カップの取手を握る指のひとつ、薬指にはまった誓いの指輪が、陶器の白に良く映えていました。目が合うとはにかむように細まる目元も、キーボードを叩く手の形も、コップを置いた後は直に、その左手で私の手を取って繋いで下さるその優しさも、とても心地良くて、その手を握り返した私も、目を細めてしまいます。
 私達は、他愛もない会話を楽しみました。昨夜訪れたレストランの、何もかもが素晴らしかったお料理の話。コンプライアンスに触れない程度の、私の仕事の話。彼が過ごした今日、一日のお話。家には私の夜食用に、と、素材の調達からなにからなに迄、全て彼が手がけたスープがお鍋に満たされていると、言うこと。

 それは混じりけのない私たち二人の、時間でした。

 私を認めてくださる夫の、目線や仕草は柔らかく、恭しくて、取り巻く態度や雰囲気は穏やかでした。
 けれど、そうであったからでしょうか。夫は、女性に声を掛けられはじめました。なので滞在時間は10分にも満たないものでしたし、席を立つ時、夫の背後にはいつの間にか有名チョコレート店の可愛らしいショッパーが置かれていましたが、「誰かの忘れ物だよ」「であれば……せめてお店の方に、」「気付かれる前に行こう」夫は慣れた素振りで私の手を引いて、私達はその宛先人不明の想いを置き去りに、しました。
 その時ふと私の中で、廊下で私を、いじわる。と言った彼女の陰りが夜の片隅を過りました。
 彼女の声が耳に籠り、背をざわめかせます。後ろ髪をひかれた思いがして窓ガラスに目を留めれば、とっぷりと深い夜の中、店内の穏やかさを映すそちらには、彼に肩を抱かれて歩く私がいました。その姿を、恨めし気に睨む見ず知らずの方と目が合ったのですが、「クラル、見るな」あ、と思う間もなく、夫は私を引き寄せて、店を後にしました。

 

 星の綺麗な、夜でした。月は子猫の爪先の様に細い形で、夫を見上げる度、その背後に冴え冴えと浮かんでいました。
 

「そう言えば」
 

 ふと思い出した体で、彼が仰ったのは丁度、玄関のドアーを開けたときでした。


「昨日も思ったけど、帰り、遅くないか?」


 人感センサーが私達に気付いて、室内に明かりが灯ります。彼は、ほんの少し眩しそうに、私の背中を押して先へと促して下さいます。
 

「そうでしょうか」

 
 少し、どきりとしました。

 
「ああ。研究の進捗、あまり良くないのかい?」

 
 首に巻いていたマフラーを取り去る過程で私は思わず、黙ってしまいました。
 検証実験は、順調です。来て頂いているアソシエイトの方達も優秀で、重なり起こるエラーも想定の範囲内ですから修正に困ることはありません。正直、実験だけでしたら、それぞれの日の決まった時間に帰宅が出来るのです。
 ただ、今は、もうひとつ大切なことが出来てしまってでも、それは目の前の彼にはいえません。
 

「クラル……?」

 
 夫の手が、私に触れます。頬に触れて、手や、腕、そして腰へと伝って、お互いに視線を交わらせたまま抱き寄せて下さいます。分厚い胸板と、逞しい肉体は、いつも私を気弱な娘にしてしまいますので、今日は少し、困ります。

 
「あの……。私、先にコートを脱いでしまいたいのですが」
「……それ、離して欲しいって、ことかな」

 
 本当に、困ります。そんな言い方はありません。

 
「君からしたら、たった一週間と3日、僕と離れていただけかもしれないけど、僕からしたら10年ぶりの奥さんなんだよ。クラル」

 
 見つめ合っていたからでしょう。そして、今はもう私達の自宅で、玄関の中ですからすっかり2人きりで、誰の目もありませんでしたので私達は自然と、お互いの距離を近くしました。
 彼の手が私の後頭部を捕らえて、鼻先から、唇が触れ合いました。お互いの熱を知り合って、離れた後は、額同士を摺り合わせます。喉を鳴らして笑うことも、忘れません。
 

「明後日から二日間は、お休みですから。もう少し、お待ちになって」
「ん……」
「今年もデート、しましょうね」
「勿論さ。でも、二日で満足するとは思わないで欲しい」
「それは……、」
「何度も、もう君に会えないかと思う目に、あった」

 
 本当に、ずるい夫です。
 

「途方もない、年月でしたね」
「ああ」
「私を作ったりなさらなかったのなら、その堪え性を、褒めて差し上げます」
「…………」
「作りましたね」
「………起きたら、居たんだ」
「居る訳がありません」
「本物の奥さん。堪能しとこう」
「もー、あーなーた」
 

 諌めた所で、夫は私に顔を擦り寄せるのを止めません。それどころかいつの間にか私は彼に抱き上げられてこの両足はすっかり、床と離れてしまって、彼に縋り付く他になくなってしまっていました。強くホールドされて、そのまま頬に、耳元に、首筋にと、キスを受けます。
 

「もう」
 

 相変わらず、仕様の無い方。そう、思いはじめた心が喉元をくすぐったくした時、です。
 

「ん……?」
「どうなさいました?」
「……いや、」
 

 彼の感覚が、私に宿る違和感を、感知してしまいました。私の首筋、鼻先を髪に、皮膚に押し付けていた顔の動きをもう一度準えて、鼻を鳴らし始めます。
 

「え、ココさん?」
 

 しつこいほど何かを、嗅覚から知ろうとなさります。ああ、もう、どうしましょう。
 

「あの、嗅ぎ過ぎです。くすぐったいわ」
「何の匂いだ、これ」
 

 どうしま、しょう。

 
「――え?」
「甘い匂いだ、が、君のと違う」

 
 嫌です。うそ、待って下さい。私、やっぱり時間等気にせずちゃんとすれば良かった。昨日を乗り切れたから私、慢心していました。

 
「樹液、か?……それに、草、湿った草の匂いも……腐葉土? それにしては」

 
 これ以上時間を掛けてしまうのは彼に怪しまれてしまうからと、衣服を改めて直ぐ研究所を出ずに、シャワーをお借りすれば良かったのです。その方がなんとでも言い訳が、できたでしょう。
 

「あの、あなた。もう、本当に」

 
 彼のお顔が、ついに、私の胸元に擦りつきます。

 
「初めて嗅いだものじゃないな。どこか、で――」
 

 どうしましょう。私、彼にだけは絶対に、秘密にしていたいのです。彼だからこそ、暴かれるわけにはいかないのです。心臓が五月蝿くて、離して頂きたいのに夫は本当に大柄で筋肉質でそれは、どんなに大きな猛獣さえ呆気なく討伐できてしまう程で、美食屋の中でも群を抜いた手練ですから、私の体や腕の力でなんてどんなにしても、叶わなくて、
 

「ココさん、おやめに」
「――クラル、君、」
 

 ですから、どうか、そのような目で、私を視ない下さい。声が、止まります。心臓が破裂しそうで、背中に嫌な汗が、伝います。
 

「そう言う、事か……」

 
 見透かそうと、なさらないで。今だけは盲目で居て頂きたいの。後少し、今だけなのです。だって私、あなたには暴かれたくないの、ですから、お願い、


「そんなお顔を、なさらないで……」


 私を抱く夫の腕の力が、強くなりました。危険を覚えた私の体はすっかり力が抜けてしまって、背骨はただきしきしと、軋みました。
 


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