「……鉄平、さん」


 IGOの第一ビオトープ、グルメ生物学はバイオテクノロジー検証棟。ラボへと続く、空調のよく効いた、廊下。
 私の肩においていた手を離した彼はくしゃりと笑います。


「どうしたのそんな顔して。美人が台無しじゃん」


 彼は、どなたにも軽口をおっしゃる方だと知っているから私は、「なんですか、それ」素直に、笑うことが出来ました。

 ですから私は私のラボに、その方を招き入れました。何よりよく、見知った人でした、から。夫は私が、夫以外の男性と会話を交わす事を実際快く思っていないのですが、職場ですし、致し方ありません。
 何より鉄平さんは再生屋のトップランカーで、何度も研究への協力をしてくださっています。とても、良い方です。警戒など、する必要は、ありません。


「ココ、帰ってきたんだってね」
「はい」
「今回はどこ行ってたって言ってた?」
「乙女座星雲の、惑星群だそうですよ」
「やべ、聞いといてわっかんねーわ、俺」
「あら」
「つーか乙女座の惑星群ってやばくね? 響きエロすぎでさ。なーんかあれじゃん、星には美女しかいない系。ハーレム感が凄いよね。ココめっちゃかっこいいからもってもてだよ思うんだようらやましー。つかあいつこーんな良い奥さんいるのにモテるってずるいくない? 雑誌で抱かれたい男にいっつも上位ランクインしてんの。俺だってさーグルメ日蝕の日、すんごく頑張ったのにさー、四天王がメイン扱いでくやしいっていうかさー」
「鉄平さん、紅茶だけでもよろしいですか? 生憎とお茶請けが切れていまして」
「あーうん。……クラルちゃんって俺の扱い慣れてきたね」
「あらあら」
「ココが帰って来た途端、メッセージ返してくれなくなるしさあ」

 
 ふと背後から、樹木の香りが匂い立ちました。振り返った視界いっぱいに、夫とは違う、明るい緑色が映ります。


「鉄平さん……」
「妬ける」


 ラボには、私たち以外、いませんでした。アソシエイト達はまだ、休憩から戻っていません。廊下に隣接している窓ガラスにはシェードが掛かっているのでどなたかぎ通り過ぎたとしても、その人影が写る程度です。光の関係で、あちらからはこちらの影さえ、見えないでしょう。
 見えない事を、私は知っています。


「その件については、お話をしています」


 奥の部屋から冷却ファンの音が、じじじじじ、と、聞こえてきます。
 自動演算の機械が、動いている音もします。
 水を満たしてボタンを押したケトルが、じわじわと響きを増やしてもいます。


「オシドリ夫婦ならぬカラスの夫婦だって、パパラッチされてるくらいだもんね」
「え?」


 私の反応に鉄平さんは首をかしげました。サニーさんとあまり変わらない背丈ですので、その表情は立っていても夫以上にはきちんと見えます。


「知らなかった?」
「ええ、……はい」
「ふうん」


 ケトルの中から、水が沸点へ至り始める音が聞こえてきます。


「流石のココも宇宙からじゃ、なんにもできないってことかー」


 音は次第に激しくなって、ぼたんがぱちりと、鳴りました。


「まあ、今のクラルちゃんには、好都合だよねえ。ココに、知られたくないもんね」


 無意識に引いた一歩が、テーブルの足に当たります。


「……意地悪を、仰らないで下さい」


 鉄平さんは、はははと、人の良さそうな顔で笑います。耳についた幾つものピアスがかちゃかちゃと動いています。


「いじわるくらい言わせてよ」
「そのような物言いは、感心しません。誤解を招きます」
「なんで?」


 ポケットに入れていた手を出して、動き出します。


「俺と君との、仲じゃん?」


 叱咤の為、名前を呼ぼうとした私の鼻先に、甘い、腐葉土の香りが、触れました。



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 星外へ旅立つ様になった夫は、帰星の度に、精悍さを増しています。タイムラグのせいで、私よりもうんと早くお年を召してしまうのではと危ぶんでいましたが、彼の外観は何日何週間と彼方へ行って帰ってきても、変わらないままでした。


「人生経験だけが、積み重なっている感じ、かな」


 お戻りの夜、彼は決まって、私を抱きます。私達はそうして、お互いが居なかった間に蓄積された変化を、それでも尚変わらない所を、認め合うのです。
 その時だけ、独り寝には広すぎるベッドがちょうど良く、満たされて、時折ちいさく軋みます。


「経過する時の総量に、体内の細胞は呼応す、る、と。言われていますのに」


 彼は喉で笑い、丁寧に、私に触れます。


「クラル、それはもう……コペルニクスやダーウィンが産まれる以前の科学観と、同じだ、よ」


 私はその丁寧さに、息を飲みます。


「も、」
「ん?」
「しゃべるか、なさるのか、どちらかに……っ」
「んー……君としたいし、君としゃべりたい」
「あな、た」


 私は息を詰めて、喘ぎます。夫が持つ指先や唇の熱さを改めて知って、枯渇しない雄の力に蹂躙されます。身体は歓喜で震えて汗ばみ、寝具も嬉しそうにきしきし、きしきし、と、鳴いています。
 やがて訪れた瞬間の夫は、とても色っぽくて美しくて、楽しそうで、だから私、つい、どんなことも許してしまって、くすくすと笑ってしまって、ああいま、なんて幸福なのかしら。と、胸が温かくなってそれが、堪らなく愛しくて。私を組み敷く彼の髪を両手でくしゃくしゃに掻き乱して、しまって


「ちょ、クラル、まって」
「まち、ま、せん」


 声を上げて笑ってしまった私と一緒に、笑って下さる彼を、彼の体温を、声を、微笑みを情の深さを、優しくて甘い匂いを、私はこの上なく、愛しています。

 愛しているからこそ、惑ってしまいます。

 ふと、目が覚めてしまった、真夜中のことです。
 彼が私を抱きしめて、その逞しい腕の中に囲って下さっていました。夫から滲む静かな鼓動やあたたかな血の巡り、呼吸のリズムを静々と、眺め続ければ続ける程、ひとりきりで目を覚ました記憶が、私の胸にひとつの薄荷を産み出すのです。

 それはいつも冷たくて、心許ない味がします。



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