著名人となった夫に、私はいまだに戸惑いを持っています。
 IGOに届く、プレゼントの山々はこの時期特に、大きくなり量を増します。それが食べ物であった場合、大食漢の方にはまたとない吉報なのでしょうが、四天王の方達はとてもとてもお忙しいので、贈り物は一度その仔細を彼らに伝えられた後、念の為の検査機を経て、慈善団体へと寄付されることになっています。なのでそれはまだ、良いのです。問題は、もっと身近です。


「あの、ココ様の、ですよね?」


 決意を持ったお声の女性に、いつしか私の体は、身構えるようになってしまいました。
 IGO第一ビオトープ、研究棟内。私のラボへと続くその、静かな廊下。行く先をふさぐように現れた女性の、その真剣なお姿に、張り詰めた雰囲気に、私と彼の関係をぼかした真意に、胸が辛くなります。


「はい」


 答えるか答えないかの内に、可愛らしくて小さな袋を差し出されます。上からセロハンの端が見えていました。チョコレートの甘い香りも漂います。
 私の返事が気乗りしていなくとも、お構いは無いのでしょう。


「お願いです。これ、ココ様に!」
「すみません」


 私も、お構いの無い返事をするのでそれは、お相子だと、思うことにしています。
 女性は、私の言葉に衝撃を受けたようで、目を見開いて、息をのんだその表情にじわじわと、不快感と悲しみを滲ませてきます。


「お引き受け、出来ません」
「なんでですか」
「そのようなことは全て、お断りしておりますので」
「渡してくれるだけで良いんです」
「すみません」
「おねがいします。今回だけ」


 この日、不幸だったのは、彼女です。彼女はこの日、初めて私に接近を図って意を決したのでしょう。けれど私は、このような申し出をもし全てお受けしていたのなら、今日だけでも大きな大きな袋が必要となるほどで(もしかしたらその方が、彼女の抱く淡い期待を打ち砕くことができたのかもしれませんが)食い下がられることにも、その一種の自己愛の姿にも、本当に辟易としていて、


「迷惑をかけてるの、分かってます。でも本当に、渡してくれるだけでいいんです。奪おうなんて思ってません。ただ、気持ちだけ知ってもらいたくて、そのくらいは」
「知らせてどうなさるのですか?」


 この日の私、とても嫌な人間でした。


「私からは受け取ってもらえるとお思いなら、そもそもの間違いです。夫は、どなたからもお受取りになりませんし、召し上がることもなさいません」


 私以外は。そう、あとを繋ぐように沸き上がった優越の言を、一息を置く空白の間に隠します。


「どうか、ご理解ください」


 隠して、これ以上黒くて醜いヘドロに心の内を満たされる前に、離れてしまいたくなったのでそっと、その方の横を通り抜けました。


「いじわる」


 あたしより先に、出会っただけじゃない。 憎々しげにつぶやかれたその呪詛を務めて聞き流して、それでも歩調は早く、振り向くことなく、なのに暗鬱だけは重く深く、白衣を纏う背中に圧し掛かってくるのです。

 靴音が響きます。
 私が履くパンプスの踵の音です。
 漆喰色の清潔な廊下に、それはよく響いているように感じます。

 ラボが近づいてきたからでしょう。擦れ違う方に、見知った人が増えてきました。それでも私は、彼等に会釈だけをして、通り過ぎます。左手に意識が向かいます。握り拳が指先が掌に食い込んでいます。薬指に、ある日の彼の懇願と、あの日夫と交わした誓いが超然と煌めいています。脳裏に、目尻を下げて微笑むたったひとりの姿が浮かびます。
 どこかで一人になりたい。そう、思い、唇をそっと噛んだそのすぐです。突き当りを右に曲がった時、通り抜けかけた人影に突然肩を掴まれました。


「あー、いたいた。さがしたよー」


 体が強張るより先に降ってきた声は、男性の、それもここ最近よく、お聞きする方のものでした。

 綺麗な鶯色の髪が、何よりも先に視界に入ります。
 私は驚きを持って、その方を名前を口にしました。


:
:
:


 彼が、思い詰めた顔で告白なさったのは、全てが落ち着いて滞りなく万事が動き始めた、春先でした。
 暖かく温もった家の中で、確か、ソファに並んで座ってその日の取り留めのないお話をしていた時です。ほんの少し落ちた沈黙の心地良さを味わっていた私に、


「来週、旅に、出ようとおもう」
「あら」


 珍しいことではありませんでした。
 彼の本業は今ではすっかり美食屋で、安定した食の配給とご自身が持つ『人生のフルコース』を埋めるために、グルメ界の果ての果てまで足を運んで、一か月家を空ける日もありましたから。勿論、旅立ちの少なくとも3日前にはご申告してくださいます。


「今回はどちらへ?」


 いつも通りだと、思って私は、いつも通りに返しました。


「ご準備で何か必要な物、ありますか? 何かお手伝いが出来れば……」


 彼の雰囲気は、細い梁に糸をぴんと伝うように、張り詰めていましたのに。私はきっと無意識のうちに、詮索の芽を隠していました。
 彼は、じっと黙して、私の手を握りました。分厚くて、しっかりとした指の一本には、おそろいの指輪が光っていました。息をのむには軽く、かといって口を挟むには重い沈黙の果て。
 やがて、クラル。と、夫は前置きのように私を呼びました。


「君には、荒唐無稽に、聞こえるかもしれない」


 私は自然と、その背を正しました。


「でも、ずっと、考えていた」
「……はい」


 彼は、一呼吸を置いて。


「次は、宇宙に行く」
「うちゅう」


 思わず、鸚鵡返しをしてしまいました。

 やがて彼は積を切ったように、でも真摯に、話し始めました。
 グルメ天文学の研究チームが、過去の観測を、ともすれば各国に根付く宗教観を揺るがしかねない大発見をなさったことは知っていました。彼と二人、それに関する資料を読み進めてはお互いに仮説を論じ合ったこともあります。その時に、彼の瞳が好奇の輝きを宿したことも、勿論気づきました。物言わず私も、覚悟を宿しました。
 私への説得に、精一杯の言葉を尽くす夫の姿を見て感じたのは、ああ今日がその日なのね。と、いう、一種の諦めでした。


「行くと言っても、長期じゃない。あ、いや、長期には違いないんだが……宇宙空間と地球軸でのタイムパラドクスがあって、行く先々で誤差はあると思うが大体地上での2日が、上では1〜2年に相当すると……」


 私は彼の最愛ですが、生き甲斐ではありません。
 その、どうしようもない現実が、いよいよやってきたのです。


「そちらはよく、存じています」


 彼の素晴らしいところをひとつ、お話しするとすれば、こういうところです。夫は、占い師でもありますから、タイミングを計るのがとてもお上手なのです。


「行っぱなしでは、ないのでしょう?」
「ああ。勿論。君との通信手段も今、開発してもらっている」
「あら、初耳」
「君の返答がどうあれ、必要なことだと思って……」


 ほんの少し、きまりが悪そうにしながらも彼にはきっと、私がそのご提案を無下になさることはないと、分かっていたのでしょう。だってこの時の私は、提出した論文の検証実験が認められて、研究室とそれに伴うアソシエイト達を雇える地位に就いたばかりで、忙しくしていましたから。


「無事にお戻りいただけれるであれば、私は、それで十分」


 それでも全て視えていたからこそ、私の中に宿る感情に寄り添っても、下さったのです。
 行かないという選択肢は、彼にはありませんでしたから、こそ。


「お戻りのご予定も教えて下されば、合わせてお休みを頂けますし、それなら私、貴方をお迎えもできますね」
「クラル」


 彼は、私を抱き締めて、感謝とそして、


「愛してる。何があっても君に、悲しい思いは絶対にさせない。君の為にも戻ってくる。必ず」
「はい、」


 私達は誓い合った夫婦ですが、同時に一個人であり、労働選択の自由はお互いにでさえ侵害できるものでは、ありません。
 それでも重ねた唇は初めて交わした頃と変わらず、温かく仄かに、柔らかくてそれはいつも、私を世界一の果報者にして下さいます。

 …………。

 新グルメ時代の昨今。将来なりたい職業ランキングに燦然と君臨する美食屋業は、フリーランスです。

 名乗ってしまえばどなたでもなる事が出来てしまうのにそれは、どのご職業よりも身の危険があり、保障もなく、子供が最も憧れると同時に、親が子になって欲しくない職業ランキングも1位だと言われている、お仕事です。
 それでも名うての美食屋ともなれば事情は変わります。
 つまり、IGOが認め、多くの美食を発見流通された方達であれば彼等には、親族が存在した場合に限り、機構から一通のインビテーションレターが送られてきます。
 ハントで傷を負った、或いは体のどこかを欠損した、命に関わることではないけれどライフで高度な治療を必要とする負傷を負った。その際の治療費は勿論、万一、命を落としてしまった際、本人が指定した人物に配当される生命保険諸々の記載が記された手続き書です。金額は、その功績や危険度によって、設定されております。現在最高金額が設定されているのは両手で足りるくらいでしょうか。

 それは、指先が震えて、血の気が引くほどの、高額です。

 私がその存在を知っているのは私宛に彼の、万一の際の手続き書が、婚姻の数日後に送られてきたからであり今こうしてお話しできるのは彼との口論に至りかけた程の話し合いの末、遂に折れて、彼の安心の為ならばと、署名を交わしたからに、他なりません。
 まあ、私が研究所で何かあった際の保障受取人も、彼になって、いますから、おあいこでしょう。

 恋人は夢心地ですが、夫婦は現実とは、良く言ったものです。

 夫は出会った時よりも逞しく頼もしく、そして、遠くなりました。それでも私は、そんな夫をとても深く、尊敬しています。
 



×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -