彼がお戻りになったのは、2月の半ばへかかるころでした。


「おかえり。遅かったね」


 いつものように鍵を開けて入った扉の奥。リビングへと進んだ私を驚かすそぶりも見せず、こともなさげにソファで寛いで微笑むお姿に、驚きよりもうれしさが先に立ってしまったのは、仕方のないことでした。だってお帰りは、ご予定では3日後の14日、当日だったのですから。


「貴方も、おかえりなさい」


 それでも私の心は、薄荷を舐めたようにすんと、静かな清涼に満たされていたのです。
 



(つめたくて、ほのかにあまい)



 
 私の夫は、美食屋を営んでおります。一時期はお得意の占いへ傾倒し、ご自身のお店を構えてそれは、連日行列ができるほどの大成功を収めていましたが、元々の気質は前職と合っていたのでしょう。ある日を境に、彼は、美食を追い求める道へ戻りました。

 とても、腕の立つ方でした。常人離れした特別な才能を、いくつもお持ちでした。取り巻く環境も、何より、過去の彼が積み重ねた信頼が、再び表立つと決めた彼を押し上げていきました。仲間にも恵まれ、降りかかる大事はまるで、彼や彼と双肩をなす方達を育て鍛え上げる試練のように、彼等の時代を作って行きました。


「チーフの旦那さまって四天王の一人だって聞いたんですけど、本当ですか?」


 いつしか、彼は、知り合った頃よりもうんと、著名な人になっていました。


「あの、今度、家に遊びに行ってもいいですか? あたし、ココ様にあいたいんですー」


 それでも私と彼とが知り合ったとき、彼は、一介の占い師でした。(少なくとも私は、そう感じていました)


「ごめんなさい。……主人は人を招くことを、とても嫌がりますので」


 私が申し訳なさげにそう、女性たちに告げると彼女たちは一瞬、その眉を顰めます。人々の注目を集める彼はあたかも万人の共有財産であるとでもいうように、少し心外と言わんばかりになります。意識的であれ、無意識であれ、私はそれを目の当たりにするのが、とても嫌で、悲しくなります。

 私が彼のプロポーズを受けた時、彼は元々の知名度に相応しいほどの、美食屋となっていました。
 状況が一変したのは、彼が、私の知っている彼から誰もが名前も姿も顔も知っている四天王のココ様となったのは、あの日でした。式を挙げた一か月後。タイミングを得たように訪れた、Xディ。

 人々が、あの日、全世界に発信されていた映像を見た方の全てが、彼を認めてしまいました。あの日救済行動をなさった四人のうちの一人として、語り継がれました。IGOに加盟している各国では来年、新装される教科書の近代史に彼らの名前が一人残らず、印字されるそうです。世界の崩壊を、食い止めた特別な人物として、英雄のひとりと、して、後世に語り継がれるべきだと誰もが決したのです。
 テレビが、マガジンが、ペーパーが、凡そメディアと呼ばれるありとあらゆる媒体が、しばらく彼らの情報を求めて色めき立ちました。火の無い煙を立たせる人もいれば、犬のような嗅覚で私に行くつく方、そして主人の性格や人となりを解釈あるいは脚色をして、さもご自身が見聞きしたかのように、発信なさる方も、いました。

 私が知っている彼は確かにお姿も申し分なくて、物腰柔らかく、聡明な紳士でいらっしゃいますけれど、誰よりも努力家で、とてもとても慎重で、思慮も愛情も、深くて、それ以上はありません。女性にとても惚れられ易いのですが、人付き合いは好きではないのでお誘いは全てお断りしています。
 寧ろご自分がお気に召した人以外とは親しくなりたがらない方で、「すまないけど、妻以外の女性と親しくなるつもりもない。なりたいとも思わない。特にクラルを利用して僕にすり寄ってくるタイプには、嫌悪感さえ覚えるよ。ああ、君たちのことを言ってるわけじゃないよ。念のため、さ」私が横にいたとしてもお構いのなかったファンの方々に辟易としたのか、傍にいた私でさえ背筋がひやりと凍る笑顔で毒をお吐きになったことは一度や二度ではありません。
 SNSで交わされている好き勝手な考察には「こういうのはいつか飽きられるよ」と、どこ吹く風でいます。


「それより、そんなもの見てないで、デートしよう。君がいきたがってた美術展、今日は人が少ない相が出てる」


 私の手を引いて、外へと連れ出してくださいます。私はたちまちに幸福を覚えて、彼に甘えてしまいます。
 
 彼は、何年たっても恋人時代のままで、私はそれがとても嬉しく思っていました。的中率のとても高い先見力のおかげで、彼の知名度に比べたら私は、比較的穏やかな日々を過ごしていました。守られていたのでしょう。愛されて、いるのでしょう。



 それなのに、私の心は時々ものすごく、聞き分けが悪くなります。
 扉の向こうから、ノックが三回響きます。とんとん、とん。彼の、癖です。


「クラル」


 声は、心なしか上機嫌です。


「準備、出来たかい?」


 久しぶりにご帰宅なさったこの日、これから私たちは彼の提案で、お夕食を頂きに参ります。彼のお知り合いが営んでいる、一癖も二癖もある特殊な食材のお料理を得意とするお店で、久々に一緒に行こう。と、言われました。


「はい」


 ドレッサーの前、鏡に映る顔で位置を確認しつつ唇に、ルージュを置きます。鏡の中の女性はオフショルダーのワンピースを身に着けています。
 彼のスーツに合わせたそれは、ドレッシーで清潔なクリームホワイトで、お気に入りのひとつです。デコルテを美しく見せて下さるドレープの襟ぐりを持っているのですが、今日は心なしか深くて、こんなデザインだったかしら、もしかして、背中のボタン、掛け違えてるのかしら。そう、危ぶみました。


「ただちょっと、来てくださいますか?」


 立ち上がった私はそのまま鏡を使って自分で確認することもできましたが、今日は、彼を呼びます。


「え? ああ、入るよ」


 控えめに、ドアが開きました。鏡越しに目が合うと夫は、微笑みます。私も倣ってそのようにします。癖に、なっています。


「どうしたんだい?」


 彼は、嬉しそうにいらっしゃいます。長身で逞しいお身体ですので鏡に映る私達は、何年経っても、ちぐはぐに見えます。


「背中の、ボタンなのですが……」
「背中?」
「ええ。きちんと、留められています?」
「ん……」


 両手が、肩に添えられました。お身体に見合ってそれは、大きくてしっとりと熱い掌です。じっと静かな視線が背中に注がれているのを気配で悟ります。
 夫はもう、私に触れることに躊躇がありません。自信があるのです。


「留まってるね。安心して。相変わらず、器用だよ」
「そう、ですか」


 彼は、私に決して嘘をつきません。それは信用に値します。


「何か気になるのかい?」
「ドレープが、深くなっている気がして」
「ドレープ?」
「ええ」


 そう、おもいません? 確認していただこうと、振り向こうとした時でした。
 彼のたくましい胸元が柔らかく頭に触れて、私は一気に陰に包まれます。つい上を向けば見慣れても惚れ惚れとしてしまうお顔に上から覗き込まれて、いました。あら、もう。


「見辛く、ありませんか?」
「いいや、まったく」


 含み笑いの瞳と、目があいました。その視線がもう一度、ドレープの場所、私の胸元に移ります。戸惑うやら、気恥ずかしいやらで、私の体はつい、彼の胸に寄りかかってしまいます。
 遠慮を感じさせない視線に、鼓動は早くなります。


「何か、おっしゃって下さいな……」
「君、少しやつれたかい?」


 私が驚いて彼へと振り向いたのと、彼が私を抱き締めてくださったのは、同じ頃合いでした。その腕に胸に、包み込むように大きな体を腰から折って下さっているのがわかりました。


「……そう、見えました?」


 胸に、彼の鼓動の温かさを、感じました。


「何があった?」


 質問に疑問が返ってきます。YESの合図です。
 私は、ふとして口籠ります。


「――クラル」


 彼の声が、私の心を追いかけます。私の心は、まだ、薄荷の余韻を感じているかのようで、冴え冴えとしているのに、彼の声を受け取る耳だけは、仄かに熱を感じるのです。
 私を抱く、腕の力が強くなります。かたくて強い、筋肉質な腕は身に着けたスーツの生地を僅かに張っていますがそれはちっとも、窮屈そうには見えません。


「夜、キャンセルしよう」
「いけません」


 私ははじかれたように、声をあげていました。


「もうお食事のご予約を、なさっているのでしょう?座席のみでなく」


 一歩を引いて彼を見上げ見つめれば、彼は、


「そうだけど……君の調子が良くないのに、無理して行くことはない」


 とても心配そうな気配をその美しい双眸に潜ませて、私を気遣って下さいました。


「どこかが悪いわけではありません。ですから、お気になさらず」
「そうは見えない」
「錯覚です」
「君、帰ってきてから変だ」


 その声に、思わず声をなくしました。


「僕がいないこの、1週間弱で、何があった?」


 真剣で、誠実に溢れた声でした。心がはやります。


「クラル」


 胸の薄荷が昇ってきて、目頭のあたりですうすうと、心を刺激して私、私は訳も分からずに、苦しくなります。


「なにも、ありません」


 目の前の彼の、きれいな形の眉間にしわが寄ります。訝しまれています。


「本当に、何かがあったわけではありません。本当です。あなたに、誓って言えます」


 今度は彼が、黙って、私を静かに見下ろしています。


「ココさん」


 私は彼に向って、微笑んで見えるように顔を動かしました。


「ほら、この時期ですから……ね?」


 シャツを張るほどに逞しい胸元に手を添えて、少し寄れたネクタイの位置を整えれば、彼は、何かに思い至った顔をして、小さく唸り、おっしゃいます。


「全部、断ってくれて良い。それに君が、罪悪感を覚える必要は、ない」


 そうして、立つ瀬がないご様子でまた私を一掃に抱き締めてくださってそして、心底心苦しそうに「嫌な思いをさせて、すまない」私は、ただ、いいえ。と申し上げて私を抱きすくむ彼の背中をそっと撫でました。
 広くてあつい、背中です。




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