Eight

『実は私、パプリカが苦手でした』

 クラルの過去の告白を、ココは良く覚えている。食後、せめて洗い物はさせて欲しいと譲らなかった彼女に折れる形で2人シンクに立った、その時。
 初めての恋人に振る舞った初めての手料理は、いつもと同じ手順を踏んだもののいつもより良い食材を手に入れ、いつもより気合いが入っていたからその言葉には少し、動揺した。『へえ……』それでも虚を張れたのはクラルの言葉が過去を示していたからだ。『苦いからかい?』からかい調子でそう返せば、クラルは肩をすくめて笑った。

『ご名答です』

 そうして、照れ臭そうに、

『ココさんには、隠し事が出来ませんね』

 柔らかい日差しと、シャボンの香りに満たされていた昼間。くすくすと喉を鳴らす彼女の頬はその唇と同じように血色良く染まり、瑞々しい瞳はココを捉えて微笑んでいた。お互いに今より若く、クラルの態度もまだ丁寧が過ぎていた、あの頃。

『でも、今は平気ですよ。お食事、本当に美味しくて……』

 穏やかな声で言葉を続ける彼女も彼女で緊張していたのだろうと、ココはふとして思った日もあった。
 そもそもココ自身、そうだった。
 あの頃はまだ、体内に潜む劇薬を持て余していたから、あらゆる事を充分に配慮していた。それでもお互いに想いあっていた。その気遣いを気取られないようにしようと願うほどに心を通わせていた。そうするに相応しい相手だと思っていた。
 それは、年を経ても変わらない。
 あの頃と違うのは、もうお互いがお互いの唇以外の場所の温度や潜む味を知っているという事。照れが減ったという事。正式な場で正式に、一生を誓い合ったと、いう事。
 かつての姿がいつかのスノーホワイトのドレスやベールを纏う。ファーストダンスでは少し、涙ぐんでいた、鳶色の瞳。それが髪を下ろしニットワンピース姿になって家のドアーをあけて、ココへと『お帰りなさいあなた。お食事の準備を致しましたから、……よろ、しいでしょう? ちょっと、憧れていたのですもの。それに貴方も以前−−』手を伸ばせば触れる事が出来た頬、身体、体温、香り、吐息。
 苦しいわ。と、照れ笑う声。


「学校は楽しいかい?」

 当たり障りのない会話を選んで食後の紅茶を口にする。クラルはデザートに出されたジュレを口にして不思議そうな波長をその瞳に滲ませた。

「そうですね。みなさん、楽しそうにすごしています」
「君の話だよ」

 ココは苦笑した。なんで他人事なんだろう。
 ガラスの器に盛られたクリアオランジュを前に宿った瞳の輝きは、今も彼女の電磁波に残ったまま。なのに、その顔には表情らしいものが無い。

「楽しい?」

 ココは問い直す。
 幼いクラルはじっとココを見つめて、

「……学校を、そのように捉えたこと、ありません」

 続けた。

「わたしはまだまだ、ふべんきょう、だと、自覚します。せめて人にご迷惑をかけないきちんとした大人になれるよう、きちんとしようと思い、ます」

 ココは静かに目を細めた。その模範的な回答に、見知らぬ大人の影が見え隠れする。そして不意に気付く。ティーカップのエッジに唇を寄せる。

「そう、か」

 紅茶をもうひとくち迎え入れて飲み下すその僅かに、記憶を思い返して再確認する。今のクラルはきっと、僕の知るクラルが語ることをやめた過去の姿だ。ある種の無邪気さで思い付いた感情を簡単に言葉に置き換え、口にしている。僕はそれを何処まで聞いて良いのだろうか。

「大丈夫。君は素敵な女性に育つよ」

 大人の君がどんな女性なのか知っている僕は、今の君に近い大人として、何を聞かせるのが適切だろうか。

「僕が保証する」

 それでもこのくらいは言っていいかもしれない。
 ココは、ティーカップをソーサに置いて、小さなクラルに微笑んだ。中身が少なくなった器を前に、クラルはじっとココを見つめ返す。静かに物言わず、真っ直ぐココへ注がれる視線の虹彩は、いつも見つめ合った妻のものより輝きが増している。彼を見上げる事で受けるシーリングの明かりのせいだろうか。それとも、歳ゆえの無垢さだろうか。

「……ココさんは何をされているの、ですか?」

 時を待って訪れた声。

「ん?」

 ポーカーフェイスは彼の十八番だ。

「ココさんの、お仕事です。何をされていらっしゃるの、ですか? 奥さまと同じ、ですか?」

 不慣れな敬語がたどたどしく繰り返される。

「いや……」

 ココは、ふっと口元を緩ませて答えた。

「僕は美食屋だよ。あと、たまに占い師もしている」
「へ?」

 ぽかん。
 そんな擬音語が相応しい表情を覗かせ、クラルは目を丸くした。

「びしょくや、と。うらないし……」
「ああ……」

 幼い瞳がまじまじとココを見つめる。ココは何となく顎を引いた。

「……奥さまは、とても……しんぼうづよい方ですね」

 やおら、放たれた言葉にココは意表を突かれた。会話に1拍子の間が空く。

「え?」
「ココさん、良い人だと思います。けど……びしょくやは大変そうで……わたしはむり」
「え!?」

 ぽつりと呟き肩を落としたクラルの前で、カトラリーを落としかけた。
 無理ってなんだ。無理って。心の中で少女の言葉を思い返す。そんな話、大人の君から聞いた事ないぞ!

「無理……? 何が、だい?」

 意を決して問いかけると、ジュレの欠片をスクープしようとしていた幼い手の動きが止まる。

「……聞こえ、ましたか?」
「ああ……」

 おかしな汗がココの背中を伝う。クラルは暫くココを見つめて、気まずそうに頭を垂れて、言った。

「わたしの、話です。おきになさらず」

 君の話だから気になるんだよ!

「ただ、美食屋との結婚は、りこんりつがとても高いと、おききしてますので。その、わたしはもし、ごえんが、あれば」

 ココはぐっと身構えた。やべ、なんか嫌な予感がする。

「美食屋いがいのかたと、と、思っている、だけです」

 ココは、覚悟していた以上の衝撃を受けた。同時に思った。美食屋、以外、と?そんな、話は初めて聞いた。

「そ、そうなんだ」

 当たり前だ。ココが良く知る彼の妻は、例えその情報を持っていたとしても語るべき相手をきちんと分別出来る。まして美食屋四天王である彼を前にして、そんな話題、出そうとも思わないだろう。

「あと、ヒモが多いのも美食屋だと、おききしました。ココさんはとてもしっかりしていらっしゃいますが、人は……せん、さ、ばんべつ。ですから」
「はは……」

 喉の奥から笑いが漏れた。
 このクラル、本当に子供なんだな。ココは挫けかけた心の中で復唱する。本当に……正直過ぎる。
 ただ当時に、こうと思った。

「……僕達に子供がいたら、君にそっくり……なんだろうな」

 思考と同時に言葉が口から漏れ出たその時、「ふ、へ?」次に意表を突かれた声を出したのは、少女だった。


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