Nine
夕食から、1時間と30分後。
「髪は?きちんと乾かした?」
「はい」
「歯は?」
「磨きました……あの、わたし、そこまで幼くありません」
無感情な声を出しながらも、小さく尖った口元に苦笑する。
「それじゃあ、何かあったら呼んで。リビングか、夜中は自室に居るから」
「はい。おやすみなさい」
「うん」
シャワーを浴びて、パジャマに着替えたクラルが小さくお辞儀をする。
ベロア素材の、温かそうな2Pだ。それも、リンが用意した鞄の中に入っていたらしい。
本当にこれを着てもいいのか。誰かのと間違えていないか。着古した物があればそれでも良いしそれで慣れていると困惑を見せた少女を、気にしなくても良い。と諭したのは、彼女をバスルームへと案内した時だった。こう言うのを、いたれりつくせり、と言うのでしょうね。そう、神妙に呟いた姿に思わず吹き出したのは、その姿に妻の名残を感じたから。
「おやすみ」
ココは廊下の入り口で、部屋へと消える小さなシルエットを見送った。やがて、踵を返した。
リビングの奥、暖炉傍のカウチへと腰を落ちつける。溜め息を零す。静かに、深く、大きく息を吐いて、そのままどさりと、天井を仰ぐ。
疲れた。
ぐっと、目を閉じその目頭を、鼻梁ごと摘んだ。
長い一日だった。
クラルなのに、クラルじゃ無い。思えば思うほど、寂寞とした感情に支配されていく感覚は、彼にとって厳しいものだった。
こんな感情を長く持て余すのは久々で、どうしたらいいのか分からない。
いつもは如何して居ただろうか。ココは、呼吸の奥で思案する。頭脳明晰と言われる男だけれども、何事に対しても動じないかと言えばそうじゃない。人並みに悩む時くらいあると、彼は自負している。あらゆる物事を経験すればする程、自分自身の見識では解決できない事象にも出くわす。その時、どうしていただろうか。
その時、……ああそうだ。手近にあったスツールに足を投げ出して、ココは眉間を寄せる。話をしていた。クラルと、このソファに座って、お気に入りの茶葉を淹れてお気に入りのティーカップをそれぞれ2人手にして、古くからの友人であるように語り合っていた。答えが必要な会話にはディベートに興じて、思考整理の時はただ、静かに相槌を打ってくれていた。時に、体を寄せ合って互いに触れ合って、ただ暖炉の火種が爆ぜるのを眺めていた日もあった。日の長い時期には、暑いです。と笑う身体を追いかけ、通じ合う温もりに愛しさを感じて、キスをした。
視線を暖炉の上に流す。柔らかく薪を爆ぜさせる灯火の上。そこには夕食時、小さなクラルが見つけたと言う写真が、いつかの挙式後の記念撮影が、精巧な額に入れられて飾られていた。色濃いシルバーのタキシードを身に付けたココと、ヴァージンホワイトのドレスやヴェールを身に付けたクラル。その日の幸福を隠さない表情で微笑む彼等と目が合う。清潔に着飾った、ただひとりを見詰める。
「君が、美食屋とは結婚したくなかっただなんて……初耳だよ」
苦笑する。
ココの独り言が微かに空気を震わせる。クラルは、写真の中でただ幸せに微笑んでいる。丁寧に施された化粧は彼女の魅力をより引き出し、きちんと結われた髪の艶はベールで隠されてもなお輝き、アンティークのジュエリーと緻密な刺繍のウエディングドレスの美しさに包まれても、その微笑みに目が留まる。
「…………」
神前の誓いがココの耳元で音も無く繰り返される。そっと横目で盗み見た、彼女の横顔。つんと尖った鼻先。燦然とした瞳と、睫毛。(これを愛し。これを、敬い。)クラルと手を繋いで受けた事前講習で受けた司祭の説教も脳裏をよぎる。(妻は、夫は。夫は、妻に対して誠実であり、その尽くしには優しさで持て成し、)籠もり、囁き、やがて(その舌に毒を潜ませぬよう。「なあ、これ僕、アウトじゃないか?」「舌に潜む毒は、嘘の揶揄ですよ」「……紛らわしいな」「あら」)聖堂の固い椅子の上、小さく声を潜ませて忍び笑った彼女の鮮明さに、心の緊張が溶けていく。
「クラル……」
予告無く消えた笑顔の残像は、全てを知り得る目には針を差し込まれるよりも厳しい。記憶だけでは心もと無いい。写真だけでは物足りない。
眉間の強張りを静かに解く。熱さが宿り始めた目頭から瞼を閉じ、呼吸を深く、深く吸う。愛しい残り香を、頭を委ねた革張りの奥から探る。いつ戻る? いつ君が帰って来る? 明日か? この日のことを話したら、君はなんて言うだろう? 驚いて、息を飲んで、戻って良かった。と、安堵を見せて、その目尻はあの日と同じように少し涙ぐむのだろうか。或いは全部覚えているんだろうか。
どちらにせよ、今の先を占うことに、ココはひと匙の恐ろしさを覚え初めていた。彼の先見の的中率は97パーセント。決して低くは無い。当たる方が外れる事より遥かに多い。だからと言って、決して外れない訳じゃない。他のことなら自信を持てるが、最愛に対して3パーセントの確率は、あまりにも高すぎる。
「僕は自覚していた以上に、君に執着していたんだな……」
もう一度深呼吸を繰り返す。睡魔に包まれるその間にもう一度、妻の名を呟いた。
クラルは目を丸くしてココを見上げた。(……子供、時代、ですか? 私、の?)そう、静かに問い返す。ココは心外を告げられたと見える表情に、笑みを含めた。
ああ。なんだい? そんな、鳩が豆鉄砲食ったような顔して。
周囲は特別なエフェクトが施された様に、白く滲んでいた。クラルにだけ、ピントが当たっている。(鳩、だなんて……。)困ったように声を零すその口元から僅かに身を引いたクラルを、ココは肩から抱き寄せた。
僕は話した。だから次は、君の番。自然な成り行きだろ?
すっきりと整った彼女の座りは、簡単には崩れなかった。(特別な出来事があったわけではありませんから、その……きっと退屈なさいます。)それでも優しく言い聞かせてくるクラルの意識は、間違いなくココへと傾いていた。
君の話で退屈した事は無い。
ココの断言に、クラルの頬は柔らかく染まった。(あら、まあ……。)と、吐息付いた苦笑の深層心理に、ココは可能性を見つけて、畳み掛けた。
君が、普通の生活を送っていたのだとしたら、それこそ訊きたい。君が思う普通を僕は知らないし、何より、クラルの過去だ。無関心でいられる訳がない。子供の君が好きだった食べ物とか特に。凄く気になる。
クラルは笑った。喉から漏れる控えめは音は鈴が転がるように周囲へと広がっていく。(仕方のない、方。)霞のかかった視界の中、ココも声を零して笑った。
その言葉を待っていた。
クラルを抱きしめるその時。彼女が薄いワンピースを身に付けていたことにココは気付いた。柔らかい素材の、品の良い衣服は、緻密なレースで作られていた。
目が覚めたら、全てが元の通りに戻っていた。
理屈は分からないが、寝て起きたらクラルは元に戻っていた。子供に戻っていた記憶は無いが、ココが知っているクラルに戻っていた。ココさん私、どうして家に? いつ帰ってきたのかしら……。そう、髪を肩から滑らせて首を傾げる。
そんな淡い期待は、朝の日差しに裏切られた。
「おはようございます」
聴こえてきたのは感覚の狭い足音、そして、幼い声だった。
「……おはよう」
キッチンに現れたのは、小さな背丈だった。
「朝食、あと少しで用意し終わるから、顔を……」
「もう、整えてあります。今日こそ、お手伝いを、いたします」
すっきりとした立ち姿。おさげに結われた髪は、いつかのアルバムで見た姿、そのものだった。違うのは身に纏う衣装くらい。襟元にチロリアンの刺繍が入った、ネイビーカラーのドッキングワンピース。真っ白なリブに二本のラインが入ったショートソックス。どれも下ろしたての清潔さが滲んでいる。
「ただ……」
おずおずとした声は、緊張を隠している。
「もし、お持ちでしたら、エプロンをお借りできますでしょう、か? お渡しくださったかばんの中身……しんぴんばかりで、やはり、その……」
ココは、生クリームを泡だてていた手を止めて、微笑んだ。
「じゃあ……朝ごはんを食べたらマーケットに行こうか。君のお気に入りを探そう。今日の朝ごはんは生クリームにメープルシロップ付きのフレンチトーストだよ。……好きだろう?」
ぱっと見開いた幼い瞳がココを見つめる。鳶色の、見慣れた色。「はい。ありがとう、ございます……」言ってから一拍の後、あれ? と傾げられた首につられておさげが動く。
あまいあまい香りの中でココは、ははっ、と笑う。妻が妻でなくなった、2日目の朝。
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