Twenty four

 その時、二人はリビングにいた。ココはソファの肘置きに体の左側を預けながら本を読み、クラルはその前のローテーブルでテキストを広げていた。鉛筆の先を迷いなく動かし、紙の余白を解で埋めていく少女はココの斜め先にいる。俯瞰すると微妙な距離感だが、今の二人にとっては心地よいものだった。付かず離れず。丁度良い。
 ココは開いた本の上から少女を伺った。視界の端でぼやけている文字は、海底に生息し硫黄をエネルギーとして生きる微生物について説明している。

「すらすらと解くね」

 声を掛けたのは読解に疲れたからでも沈黙に耐えきれなくなったからでもなく、ただの興味だった。
 少女は、集中していたのだろう。僅かな間の後、下げていただけの顔を上げた。

「何故か、わかるのです」

 神妙な面持ちで口を開く。

「へえ」
「私の記憶ではまだ習っていない筈の公式が浮かんで、解けてしまうのです」

 ココは片眉を上げ、

「……突飛もない発想に確信を抱いてしまう辺り、君の記憶は一時後退しているだけなのかもしれないね。顕在記憶は完全になくなった訳じゃなくて、潜在域にいるのかもしれない」

 仮説を声に出した。クラルは、

「そうかもしれません」

 ココから視線を外さないまま頷く。

「今、あなたが私を試したことも気づきましたよ。わざと難しいお言葉を使ったでしょう」

 よく見るとその瞳は少し呆れていた。仕方の無い人、と言う時の妻を思い出しかけて、ココはその記憶に蓋をする。

「まあ、ただの検証だよ」

 肩をすくませた。もう。と言いたげに少女も肩を僅かに上げる。その動きは大人然として、今のクラルの姿からしたら少々ちぐはぐで、それはなんだか不思議な笑いを誘うもので、

「ココさんは、すぐそういう事をなさるのですから」

 背が粟立った。
 クラル? つい、口から出かけた言葉を噤んだ。少女も自分の失言に気づいたのか、ココの前で目を剥いて唖然とし、直ぐに顔を歪める。
 なんだ、今の。ココの体を言葉に出来ない違和感が巡る。不自然な沈黙が降りている。どうにか、その不自然さを払拭しなければならないと思いながらも、脳裏に反芻するのは自身の言葉だった。顕在的、つまり確かにあった記憶が、潜在、つまり直ぐには出せない領域へしまわれている可能性。だから彼女は、

 バイブ音が、その核心を穿つかのように突如として響いた。

 その音は神経を研ぎ澄まさざる得なくなっていた二人にとって、いつもより大きく感じた。ヴィー、ヴィー、と、繰り返される短い振動が空気を壊す。着信だ。

「すまない。僕のだ」

 今、モバイルを持っているのはココしかいない。(クラルの端末はあの日から電源を切ったまま、少女から離したままだった)必然、ココ以外にはあり得ないがココはいつものように断りを入れた。

「……はい」

 少女が頷いたのを見届け、ディスプレイを確認する。リンちゃん。その煌々と光る文字を見るなり電話を繋いだ。

「やあ」

 席を立とうとしたが止めた。恐らく少女に関係がある話であり、それは今や彼女に隠すことでもないと気付いたからだ。少女も少女でその場から離れようとしない辺り、心得ているのだろう。仮に聞こえたとして、聞いてしまったとしてもお互いになんの問題はないと、分かっている。

『あ、ココ。今、大丈夫だし?』

 幼少期からの長い付き合いだというのに、リンの気遣いは変わらない。

「ああ、問題ないよ。何かあったのかい?」
『あのね、』

 一呼吸を置いたリンが伝えたのは、待ち望まれていた薬の完成だった。今の技術で作られる最高の物だと言う。治験試験の代用として繰り返したバーチャルクローンの反応の申し分なく、経年による人体への影響も、試算上問題はない数値を出した。

『ウチが確認した限りでもこれなら投薬に回せるかもしれないし。ただやっぱ、詳しくはココに直接資料とかを見てもらうしかないっていうか……投薬するならクラルヘどう伝えるかも相談もしたいんだけど』

 ああそういえば、昨日のことをリンちゃんに伝えていなかったな。ココはつい肝心な説明を後回しにしてしまっていたことに気づいた。

『どうするし?』
「ああ……」

 まあ今の方が改めて話を切り出す手間もなく、タイミングとして申し分もない。

「本人に聞くよ。そう、約束してるから」
『へ? 本人って?』
「伝えそびれていたけど、実は昨日帰ったらクラルが現状に気付いていたんだ。今の自分は大人から退行した状態だって理解している」
『え、え、何それ! ウチ聞いてない!』
「記憶が戻ったわけじゃないから、まあ、すぐ伝えなくても良いかなって」
『え〜〜……』

 通話口から響く非難めいた声にココは思わず苦笑した。

『ココってさ〜昔っからマジそういうとこあるし〜』
「ごめんごめん」
『ごめんが軽いし〜。まあ、別に良いけどー』

 それでもリンは一頻り不満を漏らしたきり、直ぐに開き直ってくれた。

『じゃあクラルとの話がついたら連絡して』

 天衣無縫な性格は昔から変わっていない。

「ああ、勿論。ところで薬液についてだけど」
『うん?』
「子細情報を僕が持っているIGOのアドレスへ送って貰うことは出来るかい? それと薬液について詳しい人と話もしたい」
『ん〜資料はウチから送れるとして、担当者については空いてる時間を聞いとく。多分直ぐ時間作ってくれと思うから、この後確認して、資料と一緒に送るし』
「ああ。ありがとう」

 そうして、通話を閉じた。
 リビングが再び静かになる。問題発生以前となんら変わりのないリンの調子に一瞬、クラルがつい先週のようにココの左側でくすくす笑っている気がしたが、そんなことはなく。小さな少女はココから少し離れた場所から、ココを見ているだけだった。

「リンちゃんからだったよ」

 感傷に浸る暇はない。

「君を元に戻す薬液が完成したらしい。どうする?」
「え」
「急かすようなことはしたく無いが……君自身に関わることだからね」
「はい。大丈夫です」

 いい子だね。と、口にはせず思う。

「まあ、今すぐ連れていかなきゃいけない事でも無い。僕自身も目を通しておきたい情報があるから、その後でもいい。ゆっくり考えてくれ」
「大丈夫です。お受けします」

 それは迷い無く、すっきりとした声だった。

「……え?」

 まっすぐにココを見上げたまま、少女が居住まいを正す。

「時間は十分にいただきました。投薬をお受けします。勿論、ココさんがお調べになった後で構いません」

 ココはソファに座したまま、その瞳を見つめ返した。意志強く、曇りない虹彩は平時となんら変わりない。緊張の色はあるものの、電磁波には濁りもない。

「……分かった」

 ココの同意に、少女が小さく微笑む。
 偶然目に留まった時計はもうすぐ三時になろうとしていた。
 
 



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