Twenty three

「……どうして」

 少女が、長い逡巡の末にココへと発したのは頼りないほどの囁きだった。それは意を決した問いかけとは違い、ただ内側の葛藤が零れ出たような掠れ声。
 それでも、夕食の準備をしようと部屋を出かけたココの背に届いた。

「……何がだい?」

 なるべく素っ気なくならないように努める。向かい合って、膝をつき、笑顔を作った。

「もしかしてお腹すいてない?」
「そちらではありません」

 戸惑い気味にも首を振り、まっすぐに自身を見る少女に内心で、そうだろうね。と相槌をした。君なら、そう言うだろうね。けれど表面では頬笑んでみせたまま、

「どうして、私が決めるのです?」

 一度は固く結ばれていた小さな唇がこぼすのは、どうしようもない蟠りだった。

「普通、は、そもそもの現状が異常ですから、言葉として不適切かもしれませんが、でも、普通は、にべもなく戻って欲しいことではないのですか? だって、ココさんの奥さんではありませんか。私が気付いてしまったのなら特に、今の私の意見なんて尊重している場合ではないでしょう」
「つまり、」

 逼迫していく少女の感情とは裏腹に、ココは自分の頭が冴えていくのを感じた。

「僕に、君の人間性を無視しろと言うことかい?」
「……そん、な、話はしていません」
「そうかな? そう聞こえたよ」
「だって、私は、……普通は」
「僕は普通じゃないから、わからないな」

 酷い言い草だ。と、ココは口を滑らせてから気付く。戸惑う少女に表情では温和を気取りながらも、舌の根に言葉の毒を滲ませるのを止められない。
 今のクラルは現状の答えに行き着いただけで、記憶は戻っていないのに。現にココが自身を指して言った、普通じゃない。と言う発言にも、訝しみの表情を滲ませるだけだった。
 全く理解していない。
 その発見が、僅かにココを苛立たせた。ただそれは目の前の少女に対してじゃない。この状態を招いた人物に対して怒りが募っていく。

「君は、出生か環境のせいか知らないが、自分の感情を蔑ろにしすぎだよ。こうなってしまった以上、僕は……」

 第一感情の出自は見誤っていない。

「今の、君を、僕は僕の妻だとは見ていない。そもそも幼児性愛なんて外道の趣味はないからね。いくら君が、僕の最愛だったとしても、」

 それなにココの毒は止まらない。

「今の君は、僕の知っているクラルとは別人だ」

 声に気を配り、表情に気を配り、でも結局は言いたい事を言ってしまった。

「だから、クラルちゃんは自分の事だけを考えれば良い。元に戻すと言っても今回はグルメ食材そのものが起こした自然な変化でなく、人為的な転換だ。反作用薬について君のチームが検証に検証を重ねているが、実際どんな結果に転ぶかはわからない。不確定なんだよ。絶対的に安全だと保証ができない以上、少なくとも僕に対して遠慮する必要はない」

 少女を戸惑わせると知っていながらも、ココは言葉を止められなかった。

「君自身の人生だ。もう少し、我儘になってもいいんじゃない?」

 少女は今度こそ、沈黙してしまった。



 翌朝、ココは日の光がカーテンの隙間から射し込むよりも先に、目を覚ました。緩慢な動作で起き上がる。一人きりの寝室は妙に寒々しい。数年間ずっと共にあった温もりの不在は、数日くらいじゃ慣れもしないし快適さも無い。適応したはずの寒気が肌から心の隙間へと溜まるようだ。
 空白の体温。空蝉さえない寝具。その名残に感傷を抱く前に、その場で背を伸ばして肩を回す。
 バスルームで顔を洗った。不揃いの髭を落とし、着替え、朝の陽光が空気を染める頃合いに外に出た。冷えた大気に呼気を混ぜる。それは冬空の下にいながらも白へ染まる事なく、風の中へ溶けて流れていった。
 肉体を鈍らせない程度のワークアウトが彼の日課だった。
 鍛え上げられた肉体と膝のバネを使い、一息で家の端から近くの樹海へと跳躍する。木々の間を駆け抜ける時、速度を纏った体が広葉樹や針葉樹の葉先で傷つけられぬようにする技術も、全速力でありながらも息を切らさぬ呼吸法もすっかり、彼の体に定着し、癖づいている。五分で家の先が見えない程に遠い川の水が生まれる場所へ行き、その周辺で体を動かし、帰る頃に水を汲み、五分で戻る。その水で朝の仕度をする。

 今やもう無意識に、ココの体は人の理を外れて機能していた。

 確か存在しただろう父母と離れた幼児期。箱庭で過ごした少年期。年齢が二桁を過ぎた時に体質が劇物の精製を可能にした。初めは恐ろしかった。しかし鍛錬の末、青年期にかかかる頃にはそれを操作し、使い、紆余曲折の果てに訪れた穏やかな壮年期、比翼連理の妻が、幼子になった。
 言葉として羅列すれば荒唐無稽なこんな話、一体誰が一縷の曇りもなく信じてくれるだろうか。机上の空論であるはずの事象が、彼の人生には余るほどに多く存在し、実在し続けている。

 水を火にくべている間に朝食の支度をする。今日は一段と外が冷え込んでいた。冷蔵庫と食料庫、そして、おそらくもう目覚めたであろう少女の嗜好を鑑みてメニューを立てる。
 おばけかぼちゃのスープ、黄金人参を練り込んだスコーン、クロテッドクリーム、コンフィチュールは雪桃。これじゃ緑黄色野菜が足りないと気付いて、おばけかぼちゃは昼食に回す事にした。代わりに緑鮮やかな野菜と海藻のスープを作る。同時にスコーンを焼いた。チーズも添える。
 少女がキッチンに顔をのぞかせたのは、丁度支度が整う頃合いだった。配膳の為に手を洗うココの背中に声が届く。

「……おはようございます」

 振り向いた先、入り口前に佇む少女の顔が少々気まずそうなのは、昨夜の顛末が原因だろう。無理もない。とココは思う。
 自分は間違いなく、少女を混乱させた。
 それでも整えられた衣服の上に、つい先日買ったばかりのエプロンが合わせれている。健気だと、思った。

「おはよう。直ぐに朝食ができるよ」

 だからココは続けた。優男然とした笑顔を添えて、

「並べるの、手伝ってくれるかな?」

 子供をあやすような声。
 コックを捻る。シンクに向かって水が流れ落ちていく。
 薬の完成が伝えられたのは、その日の午後だった。
 


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