Thirteen

「テレビ、ですか?」
「ああ。ちょっと、映らなくなってね」

 帰宅して、昼食を摂るためにダイニングへ移動した。すぐに戻る予定だったからオイルヒーターをつけたままにしていたおかげで、今日のクラルは玄関の中でコートを脱ぐことが出来た。
 昨日は寒ければ着たままでも構わないと言われたけれど、教えを守れる心地良さは格別だ。

「さっき見たら、点かなくなってさ。そう言うわけだからすまないが……直るまでテレビはお預けになる」
「わかりました。へいきです」

 玄関を潜ってすぐ、先にダイニングに行ってな。と、リビングルームへ向ったココの表情から、何かあったのかもしれないとは思っていたけれど、あまり大事でなくて良かったとしか思えない。何故異変に気付いたのかはよく分からないけれど。
 ココは申し訳なさそうに首の後ろを掻いていた。

「ごめんね」

 謝られても元々積極的に見たこともないから、別段気にならなかった。

「本当に、へいきですから。お気になさらず」

 キッチンのシンクの前で、袖口を捲りつつ繰り返す。ツイード生地のとても良い仕立てだから、皺や変な癖がつかないよう、慎重に整えた。とりあえず。外から帰ってきたから手を洗わないといけない。が、

「…………」

 シンクの位置が、高い。クラルは向かい合って絶望した。おそらくだけど、ココのサイズで設計されているそれは、両手をついて背伸びをして、辛うじて蛇口が見える程の、まるで壁だ。自分の背が同じ年齢の子の平均よりも低い自覚はあるが、それにしても高い。そう言えば昨夜借りたシャワーもヘッドの位置が高かった。バスルームの洗面はなんとかコックに手が届いたけれど、爪先立ちでよじ登るように使った。

「クラルちゃん?」

 シンクの端に手をかけたまま、ふむ。と思案していたらココに声をかけられた。

「どうしたんだい?」

 これはもう、手洗いうがいは、バスルームへ行ったほうがいいかもしれない。そう思い立ち、行動へ移そうとしたら、ココがクラルの前で屈んだ。キッチンマットの上で跪いた大きな男性の整った顔立ちが不思議そうにクラルを覗き込む。と言ってもそれでもやっと目線が同じくらい。クラルはその姿を見て、思った。
 しんちょうさが、すごい。

「ココさん、しんちょう何フィート、ですか?」
「え? フィート? メートル換算で言えば、2メートルだけど」

 クラルは計算した。6フィート7インチ。とてもでかい。それはもう、シンクの高さが違っても納得というか、この家が住み慣れた寮より天井も何もかも広く感じるのも、頷ける。いたしかたない。

「じつは……手をあらいたいのです。ステップか何かありませんでしょうか?」

 素直に、白状した。

「ああ、なるほど。届かないね」

 クラルの言葉を受けて、ココがぱっと辺りを見渡す。「あれじゃあ……低いな」彼の目線の先に望んだステップがあった。が、確かにクラルには足りない。まあ良い。ダイニングへと言われたから、そのままシンクを借りようかと思ったけれど、洗面所の方が適切だろう。

「へいきです。バスルームをおかりします」
「いや。あっちも、君には高いだろ?」
「つま先立ちで、いけました」

 ちょっと誇らしげに答えた。ら、何故か苦笑された。間近で見るココの表情は、愛しい景色を見るようで、少しどきっとした。

「なんでも、一人でしようとしなくて良いよ」

 ほんとうに素敵な顔で、笑う人。そう思った心に、じんわりとした暖かさが沁みる。
 なのに頭をぽんぽんと撫でられると、胸の奥がつんとした。よく分からない感情の変化に、思わず首を、

「ちょっと、後ろごめんね」
「へ?」

 傾げる間も無く、ココに背後から軽々と持ち上げられた。
 視界が高くなり、そのままシンク前まで運ばれる。今まで見えなかった景色が目に飛び込んできただけでも驚いたのに、「袖、ちゃんと濡れないように……ああ、もう捲ってるんだね。良い子だ。蛇口に届くかい?」クラルはその場から、ココを仰いだ。ん? とした顔で笑まれクラルは、しみじみと感じた。

 わたしいま、すごい子どもあつかいを受けてる。

 確かに自分はやっと年齢が二桁になったばかりの子供だけれど、これはこれでどうなのだろう。だって身体が、宙に浮いている。足が床から離れてぷらーんと垂れている。
 それでも背中に当たるココの胸板や鼓動、体温が、重心を支えてくれる手の平は、どこか懐かしい安定感があってクラルは降ろしてと言えなかった。
 もし、自分にも父親がいたらこんな風に優しくしてくれたのかな。こうやって抱っことか、してもらえたのかな。そう、思う心が少しざわつく。普段見れない景色も新鮮さがあってわくわくする。
 その時、ふと何故か脳裏に、昨日見た写真が過ぎた。
 タキシードを身につけていつも以上にきちんとしたココが、真っ白で清潔なドレス姿の女性と微笑ましく写っている一枚。
 その人は、柔らかい雰囲気を纏っていた。美しくて、幸福そのものだった。自分はその人の伝手で今ここに引き取られていると、ココは説明してくれた。

「ソープは、その横のだよ」
「はい」

 細い流水の音の中。ココに支えられたまま、ボトルに手を伸ばす。濡れた掌にワンプッシュを受け取ると、透明なジェルからは爽やかなマンダリンの香りがした。

「とてもいいにおいです」
「ああ……」

 心のままに言えば、頭上からココのしみじみとした声が落ちる。

「妻が、選んだんだ」

 手を泡ぶくで満たしながら、クラルはココをその場から仰いだ。目が合えば、また、綺麗な形の目を細めてココが笑う。

「ハーバルナッツのオイルが配合されていて、手の乾燥を防いでくれるよ」

 静かな声で先を続ける。長い睫毛の中で柔らかい虹彩をゆらめかす。
 ほんの少し寂しげに、微笑う。思い返せばココは時々こんな表情を覗かせていることにふと、気付いた。だからクラルは、思ったままに口を開いた。

「おくさま、はやくお戻りになると、いいですね」

 言ってすぐに、前を向き直した。指が凍えきる前に、流水へ手を潜らせて泡を濯ぐ。
 腰を抱えてくれるココの手にぐっと力がこもったのは、クラルの腕が不規則に動いたからだろう。

「……そうだね」

 真っ白な泡がシンクに溜まりくるくる揺れる。ウエディングドレスと同じ色。ぴかぴかとしたホワイト。後でもう一度、あの写真が見たいとクラルは思った。
 そして−−もし、おくさまが帰ってきて、もし、わたしを気に入ってくれたら、わたし、ココさんのお家の子になれたり、するのかな。





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