要望

「旅行、ですか?」
「そう。どうかな」

 ココの提案にクラルは目を瞬かせた。ご旅行。と、心の中で彼の提案を復唱する。言葉に付随して、いつかに見たCMが脳裏に流れる。歴史的な建築物、魅力的な文化体験、あるいは情熱的な日差し。深い碧と白い波。蠱惑的な眼差しで見つめ合う男女、だけは一旦記憶の外に出す。
 時刻は午後11時。
 あの件からある程度の日を置いた安息日の、夜。
 毎晩の通話が幸いしてか、ふたりの間に気まずさは無かった。邂逅には、久しぶり。をお互いの言葉で言いあって、家に着けばキスをした。

「来月、君のロングホリデーにちょっと足を延ばしてさ。そうだな……」

 やがて全てが整って、就寝の為にとふたり並んでベッドへ横たわった、今。うんと近い距離でふとしてココがクラルへと与えた提案は、彼女の心を湧くつかせた。お泊まり。ご旅行。それも、ココさんと。新しい刺激の予感に、眠気が遠くへ行ってしまう。

「リゾートとか……どうかな」

 リゾート。その言葉にクラルは顔を輝かせた。記憶のヴィジョンと一致する。

「素敵です」

 歴史的な建築も、魅力的な文化体験も学生時代に経験があるけれど、思い返せばリゾート地に足を運んだことはない。長い学期休みにはよく寮に残っていた。一年の中で一番大きな休暇も、クリスマスのシーズンだって、親友が気を利かせてハウスステイに呼んでくれはしたけれど、シニアクラスへ進んでからは主に、区の教会で手伝いをしていた気がする。
 休み明けによく日に焼けた肌の同級生たちを見て、内心少し、うらやましかった。出自も環境も違うから、仕方がない事だったけれど。

「そう言えば私、リゾートへは足を運んだことありません」

 そう、ふふっと笑い零した言葉に今度はココの表情が明るくなる。

「そうなんだ。意外だな」
「そうでしょうか?」
「ああ。だが君の、初体験ならちょっと張り切ろうかな」

 少し間を開け、「ひとつ、良いところを知っているんだ」ココは続けた。

「リゾート用に整備された諸島で、沖合はサンゴの群生地になっている場所があってね。玄関口にもなっている島はレストラン島なんだ。海中を眺められるレストランがある」
「まあ」

 枕に顔を寄せたままココを見上げ、クラルは相槌を打つ。ココの声はゆったりとしていて力強く、少しの低さが心地良い。何時もは思慮深く光る瞳が、ボクシングデーの少年の様に輝いている。可愛い方。そう、思えばつい笑みも深くなる。なんとなしに枕を抱え込む。

「透明度がとても高くてね。水質も申し分ないから確か、海中生物の観測所も併設されている。まれに珍しい奴が泳いでいるみたいで……君には、こっちの方が魅力的かな」

 ふと思いついたようにシニカルに笑ったココに、クラルはくすくす笑いを溢した。

「私、海洋生物は専門外ですよ」
「ああ、そうか。第一ビオトープは確かに、陸上生物が多かったね」
「ガウチの生態調査も行っているので、すべてではありませんが……概ね、陸暮らしの仔ですし…私自身の専門も、獣類ですし」
「じゃあ、こっちかな……その島から船で少し行った小島ひとつに、島全体が自然保護目的の動植物園になっている所があってね。動物の生態に合わせた展示を行っている。目玉は、ナイトサファリだ」

 ナイトサファリ。その語句が耳に落ちた時、クラルは以前読んだトラベル雑誌の巻頭を思い出した。
 そこに印字されている記憶の文章を読むより先に、ココが続ける。

「生態学に基づいて飼育されている夜行猛獣達の森を、徒歩でめぐる場所なんだ。僕は行ったこと無いが……中々楽しい所らしいよ。檻も灯りも極力減らしていて、野生に近い状態の彼等が観れる。勿論、安全の保障もされている」

 言葉を聞きながら、クラルはふとして微笑った。

「私にはとても魅力的で、スリリングなお話です」
「だろ? 君、好きそうだなって」
「ですが、ココさんには……退屈ではありませんか?」

 ほんの少し声を潜めて、けれどココを顔をしっかりと仰ぎ見たまま、訊いた。
 ココは、美食屋四天王だ。現在は訳あって休職中で、専らの収入源はハントではなく占いのスキルを有した易学の店の主だけれど、かつては捕獲レベルの高い猛獣達へ挑み、捕獲、あるいは捕殺をして市場に下ろしていた。
 しかも視力は10.0と飛び抜けて、本人曰く暗闇でさえ昼間のように見えるらしい。そんな彼が観光向けに用意されているナイトサファリで喜ぶだろうか。ココの視界には、彼が教えてくれたことが全てなら、暗闇が存在していない筈なのに。何より夜間に猛獣の気配を探るなんて、以前の彼なら日常炒飯事だったはず。
 クラルは静かにココを見つめた。ココは、

「どうしてだい?」

 心底、不思議そうな顔をした。思わず、あっけにとられる。

「どうして……とは、」
「君との旅行だよ? しかも初めての旅行だ。退屈に思うわけがない」

 言い切られた。クラルは、少し照れた。この人のこう言う所、中々慣れません。なんて、赤くなりかけた頬を持て余す。

「そうであれば……よろしいのですけれど」
「けれど?」
「ココさんには慣れ親しんだ場所かと思いまして……気に、かけてしまいました」
「なるほど」

 ふっと、ココが笑う。

「そんな事は気にしなくていい。だって、」

 やや、置いて。

「過去に、君は居なかった」

 声と同じ愛しさで、クラルの頬を優しく撫でる。そっと、身体を寄せる。

「僕の今の問題は、ただひとつ。クラルちゃんが、僕の計画に賛同してくれるかどうかって事くらいだ」
「あら……」

 分厚くて、逞しい肉体がクラルの身体の側面に触れる。クラルは、思わず頬の熱をさらに高くしてそして、笑った。

「勿論、お受けいたします」

 枕に頬を寄せて、ココを仰ぐ。清潔でさっぱりとした前髪の下で美しい形の瞳が安堵を見せている。それだけで自身の返答が彼にとってどれ程喜ばしいものなのか分かって、嬉しさが胸の奥に広がる。くすくす、笑う。

「よかった。最高のプランを用意するから期待しててくれ」

 やがて、言葉を終えたココが、クラルに向けた身体をより一層に寄せてきた。布ずれとスプリングが軋む音に続いて、女の柔さに男の逞しい胸元が重なる。頬に手が置かれ親指でそっと撫でられる。そうして、近づいてきた端正な顔立ちに請われるまま、キスをした。
 ココの唇はクラルの上唇を挟みこむように置かれていた。柔らかくて、暖かい。鼻先がお互いの頬にやさしく触れている。ココの香りが愛しさを誘発させる。身体の熱量と一緒に鼓動が染み込んでくる。大きくてゆったりと心地よいテンポ。胸がくぅと、甘く鳴く。と、そっと、唇を食まれ、微熱が離れた。
 侘しさを感じ取るより早く、背中へ大きな掌が押し当てられた。目蓋を開くととても近い距離で、ココの瞳と目が合う。柔らかく、笑まれる。なのにその虹彩の奥にはじりじりと女を渇望する劣情のゆらぎが見えて、認めてしまったと同時に確かな圧で腰を抱かれて衣服越しに、肉体がふれあった。心臓が、跳ね上がった。
 クラルは無意識に肩を強張らせた。ココがその手に力を籠めれば望むままに体を寄せて、その逞しい肩や温かい胸元へ頭だって寄せるけれど、恥ずかしさに心臓がどきどきしているのが自分でも分かった。今の私は、ココさんの穏やかさとは正反対だわ……。そう、思ったその時に、彼の心音が先ほどよりも大きく、打ち鳴っているのに気づいた。緊張なさっている。気付けば、また胸が切なくなる。唇の異性の感触を知った場所が、鼓動を伝え合う場所が、とてもむず痒い。
 だから顔だって、すごく熱い。耳の先なんて絶対に赤い。なのに気持ちは浮つき初めて喉元がくすぐったくなってしまえばクラルは、緩む口元を抑えきれない。ココさんも、同じ。思わず、吐息で笑った。
 ココの頬が、頭にすり寄る。唇が、少し遠慮がちに、生え際に押して当てられる。男の香りが鼻腔をくすぐって、恥かしさと一緒に嬉しくもなる。

「……ねえ、クラルちゃん」

 ココの呼び声に顔を上げる。直ぐに、彼の視線と視線が交わった。少し熱っぽくて一瞬どきんとした。

「はい」

 キスをしていないのが不思議なくらい、近いところに居たココへ、クラルは声を取り澄まして名前を呼んだ。

「……ココさん?」

 頬にさしている赤さはどうしようもないだろうけれど、付き合いたての時のように、ココにからかわれる程あわてることも少なくなった。真っ直ぐに、ココをみつめる。ココの視線も、クラルへと落とされている。
 何かを、逡巡している表情と、視線を絡め合う。少しずつ、鼓動がはやくなっていく。
 不意にクラルは、ココの顔に触れたいと思った。男らしいもみあげが耳朶の下まで美しく生え揃っている輪郭と、肌理の細かい頬。対極にあるマグネットがそこにあるかのような強力な磁力を感じる。感じたから、手を伸ばした。伺いの言葉はいらないと思った。

「ココさん……」

代わりに名前を呼んだ。

「あ、ああ……」

しっとりとした異性の質感を指で探る。そっと揉み上げを、その毛の流れに沿って撫でてみる。ココの眉間がひくんと、震える。

「そういうことされると、困るんだけど」
「お嫌、でした?」

 さっと、男の頬に朱が走る。思わず、手を引く。けれどその動きに、

「嫌、じゃないよ」

 ココの頬が追って来て今度は掌から、ぴったりとくっ付いてしまったからクラルは、やっぱり私達は対極で作られたマグネシウムの結果なのじゃないかしら。なんて、思った。
 温かい頬と固い毛質の感触は、しみじみとして心地いい。



 ココは、葛藤していた。平時変わらず自身を見上げてくる恋人に向かって湧き出る劣情の所在をどうしたものか、考えあぐねいていた。劣情、つまり、抱きたいのだ。口に出すのも憚れる事が結局のところ、したいのだ。
 今日に至る迄、散々と思案したのにいざ目の前にすると、得も言えぬ感情に支配されて、それを慈しみだとか愛情だと修飾したいしそう思っているのに肝心のココの体は、何とも言えない欲情を籠らせてしまった。

 我ながら、酷い恋人だ。そう、心中で頭を抱える。

 一緒に寝具に横たわり、ベッドサイドランプだけを灯した部屋は、テレビで稀に見る夫婦の寝室のように色めいている。いつもと違う光線の質がクラルの頬にかかっている。ココだけが認識できる波長の揺らぎがいつもより、彼女を色めかせて見せている。
 しかも不意に揉み上げを撫で始めた小さな手。少し嬉しそうに動く指先がまた、どうしようもない愛しさを誘発させる。2人分の体温が籠ったシーツの中から立ち上る体の香り。呼吸の度に上下する胸元の張り。クラルから得るあらゆる情報に誘発されて、前回の出来事が瞼の裏でちらつく。
 肌の色、胸の形、質感、声、汗ばんだ皮膚の味を思い返せば心はもう、うんと深い触れ合いを求めるのに、痛いです。抜いて下さい。と、震えた懇願の声を思い出せば、ブレーキがかかる。逡巡する。なのに、ココの瞳は、クラルから滲む電磁波を探っていた。その過程で、クラルと視線が絡んだ。
 躊躇いなく自身を捉える視線が、その瞳に薄く張った潤いの膜が、虹彩が、静かに瞬く睫毛の揺らめきがココへと与えられた。美しくて愛おしくて、沢山のキスをしたくなった。キスをして抱きしめて、茉莉花のように甘い匂いを嗅ぐって、唇を素肌に這わせて含んで舐めて、あの、艶の含んだ声をもう一度聞きたいと、思ったら陰部が屹立した。
 ふっと、静かに微笑まれた。

「あまり、ご覧にならないでください、な」

 囁く様な声に、甘い芳香が深くけぶった。柔らかい唇が動くその向こうに、慎ましく揃った歯が見え隠れする。

「どうしてだい?」

 その奥に潜む場所の味が、口腔に蘇る。気付いたら、ココはクラルの腰に触れて、じっと距離を詰めていた。

「それは……あ、」
「うん」
「……言えませ、ん、」

 その表情は、反則だろ。
 キスをした。初めは軽く。直ぐに離してクラルの表情を伺う。驚いている様子ではあるが嫌がっては居ないと気付けばもう一度、繰り返して少しずつ、触れ合う時間を長くする。服の上から、その体の曲線や柔らかさを確かめる様に手を沿わせる。唇を吸って、口先をぺろりとなぞる。

「――っ」

 体が、反応を見せたときココは、ゆったりと唇を離しすぐに、クラルの耳の付け根から首筋に吸い付いた。

「ンっ」

 思わず眉間を険しくしてしまう様な艶声が耳に落ちて来た。無意識にクラルの体へ腰に宿る熱を押し付けてしまった。
 こういうのも、結局は一種の本能的行動と言うものなのだろうか。

「――っ」

 誰に教えられた事無くと言えば、語弊がある。脳裏にはいつかに会長から手渡されたブルーフィルムの映像が、指南書の様にちらついているから。
 それでもネコ科食肉目の猛獣が行う様に、発情してしまった相手に甘噛みをしたくなる衝動は、なんと説明すれば良いのか。

「っ、んッ……ン」

 すっげえ、良い。声、えろい。

「クラル、ちゃん……」

 背筋を這い上がって来る充足感に理性を襲われ、脚の間を固くしながらもココは、息を飲んで唇を離しそのまま――マットレスを軋ませる勢いがついてしまったものの努めて平静に――クラルへと覆い被さり改めて、育ちすぎた知性を総動員させた。

「君が、嫌がる事はしたくない。前回の事もあるし……。でももし君が僕の意図を汲んでくれて尚同じ気持ちで居てくれるなら、それが口に出し難いのなら、」
「……ココ、さん……」

 心臓が五月蝿い。額に汗がうっすらと滲み始める。それが無害なナトリウムだと分かるのは、経験則とそして、恋人に対する誠意は生半可な物では無いと分かっているからだ。

「次のキスで、応えて欲しい」




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