思案

 人権の概念が一般的な思考として浸透された現代に、それは個人差とカテゴライズされる。生命はある種オーダーメイドだ。基盤となる遺伝子情報の統一性はあるものの、女性と男性という分類は外的要因からでは性差が括られ難くなり、傷の治癒速度にも個体差がある。それはあって然るべきで何も不思議な事ではない。そう、ココは識っていた。膨大な書物、密度の濃い二十余年の人生の中で学んだ産物だ。だからあの日、クラルが見せた反応はおかしな事じゃない。十分にあり得た反応だった。
 テーブルに頬杖をついたまま、ココは目線の翳した手を眺めた。開いて、閉じて、ひっくり返して、指先をしげしげ見つめる。深爪手前まで切り揃えた爪、無骨な手は逞しく確りと節くれて、ココの恋人とは比べ物にならない質量を保持している。
 クラルの手は小さくて、ココからしたらうんと華奢だった。
 骨折の経験なんて無いだろうその指先は細くて、小枝のようで、指を絡め合うのもおっかなびっくりとしてしまう。勿論その時、力を込めるなんて出来ない。未だ力加減が分からなくて、折ってしまいそうで、怖くて、そっと包んでしまう。そうせざる得なくなる。

「だいぶ差が、ある……か」

 だから、そんな事分かりきっていた。
 そもそもココがでかすぎる。2m級の人間は世間一般とは言えない。美食屋として幼少期から鍛えられた肉体は逞しく上背もある。大男だ。とりわけ女性と自分の差は凄まじい。彼が営む店の客には座っていてもかなり見下ろさないといけないような小柄な人もいる。IGOのビオトープにいた時は周囲にも似た背格好だったり自分よりも大柄で長身な人達がいたから実感として薄かったが、外に出てみればマイノリティだったのだと自覚した。
 幸い、クラルは同性や彼女の人種の中で言えば長身なタイプだけれどそれはあくまで平均としてだ。クラルと、あらゆる人種の基準を大きく超えたココ、差は歴然としている。
 占ってから、事を進めれば良かった。
 硬く、手を握り溜め息を吐きながら背もたれに背中を預けた。何度目かとも知れない後悔を彼は繰り返す。
 いや、痛がられる懸念はしていた。
 体格差があり、クラルは男性を知った事がない。緊張も深かった。だから可能性はあった。けれどあの日、クラルが痛がったのは、ココの指だ。まさぐって湿りを確認してから、慎重に射し入れた、中指。

「…………」

 柔らかい、肌だった。しっとりとした感触に、甘く、それは濃密なミルクの様に奥深い味わいの皮膚。胸の突起の刺激にはしっとりと汗ばみはじめ、(――っ)思わず呼吸を深めたくなる濃密な女の香りに支配されて、はあはあと吐き出される甘い息や(んンっ)身を固くしてくねるその体は、触れる度舐る度に嬌声を響かせていた。そっと手で足の間を押し広げ(―――ここ、さん……)緊張を表す彼女に大丈夫と囁いたのは彼だったのに、潤いが湧き出る場所へ手探りに指を押し込んだ瞬間、クラルの体は強張った。(す、みません。すみません、あの、抜いて下さい。ココさん……っ、)痛い、痛いです、痛い。と、辛そうに首を振られてココは愕然としながらもその通りにした。肩を強張らせて謝罪を繰り返すクラルの体を抱きしめて宥め、僕こそすまない。と、言って額に頬に唇にとキスをして安堵の気配が見えて来た時にお互いキスをして、今日じゃなくても良いから。そう囁き身を整え、眠りにつかせた。血が出なかったのが不幸中の幸いだった。
 それでも。
 眉間を険しくさせて黙したまま、視線の奥に焦点を移す。
 開いたままのラップトップが、丁度少し暗くなる。
 それでも、考えれば分かることだった。
 ディスプレイはネットワークに接続されて少し前に検索した結果が幾つものウィンドウで表示されている。体格差、痛み、セックス、改善。そのキーワードを組み替えて検索した文字の羅列は少し前に全てチェックした。男側の悩みもあれば女側の悩みもあったり、中には丁度自分たちと同じ身長差からの悩み投稿もあったが、そのどれもこれも、不安を煽って来る物ばかりで、改善策に至っては想定していた情報以外に出てこない。ココは鼻梁の先を指先で摘むと憮然と刻まれた皺を解した。瞼を閉じればその裏側に、文字が浮かぶ。つい、眉を潜めて不愉快を露わにしてしまった一文、――性の不一致は、破局の原因になりやすい。

 深い溜め息が漏れた。
 それは嫌だと、強く思えば思う程、そんな情報に踊らされるようにクラルとの関係を急くのは彼女に対して不誠実ではないかと思い始めてもくる。感じなくて良い痛みを与えてしまった事への罪悪感も募る。
 そりゃあ、先日を思い返せばそれだけで長湯をしてしまうし、知らなかった見た事の無かったときよりも鮮明に彼女を思い返してつい腰を軽くしては虚無感に苛まれるバスタイムもあるけれど、でも、しかし。
 ディスプレイが静かに眠る。性の問題は、恋人ときちんと話合った方が良い。と、見知らぬ誰かの言葉を思い出す。ココに向けられた発言でないにしろ、目にとまった書体は水晶体に張り付いている。

「とりあえずは、クラルちゃんに……次のデートで、」

 壁にかけているカレンダーに眼を止めた。次の邂逅の日取りは今週末の休息日。IGOが職員の健康の為に定めたリフレッシュ休暇を前に、幸運にも取れたと言っていた彼女の2連休。その日定期ヘリで近くの国へ降りるクラルと落ち合って、デートをして、そのまま、ココの家に来ることになっている。一緒に長い休暇を過ごすためのプランを立てよう。と、あの日の翌日、気不味さを払拭する様に2人で話し合った、その日。
 ココは蟠りを抱えたままに静かに決意した。意思確認をしよう。行為において、一番負担を強いられるのはどんな関係であっても、女性だ。あれで怖がって、もうしたくありません。と言われない保証はどこにも無い。言われたらどうしよう。ああでも、決別よりはマシか。





 クラルはIGOの科学者だ。分野はグルメ生物応用学、専攻は遺伝子工学と細分化すれば狭まっていくが、今重要なのは知識のベースには一般のヒトよりも深く生物についての見識があると言う事。男女の違いについては一般教養のごとく潤沢な知識を有している。
 だから、動揺が薄まれば自身が受けた衝撃の根底も鮮明になっていく。つまりあれは、仕方のない事だった。平均値は分からないれど、自身の潤滑が足りなかったのかもしれない。或は周辺の肉質が充分に弛緩していなかったのかもしれない。そうであれば……と、そこへ続く対象法を考えば考える程、同時に、何ともいい難い気持ちにもなる。色々思い出して、動揺だってする。顔が赤くなりそうにもなる。

 だからつい、溜め息を漏らした。
 人で騒つくIGO第1ビオトープの、お昼時のカフェテリア、その一席で現してしまった感情に、手に持っていた紅茶の湖面が揺れた。と、対面していた同僚に心配された。クラルの肩が落ちてる。珍しい。そう言われ、もしかして恋人と何かあったのかとせっつかれ、返答に困っていたら、そもそも誰と付き合っているのかと、尋問されかける。

「誰、と、仰られても……」

 ココとの関係を、クラルは公にしていない。お互いにとって特別親しい人達には明け透けにしているけれど、職場で開示している情報は、一年程前から付き合っている男性がいる。くらいだ。理由は言わずもがな、ココが有名すぎる。
 今はグルメフォーチュンと言う土地で占を本業に据え、良く当たると噂の知名度なんてどこ吹く風と言わんばかりに不便そうな場所に家を建てて、のんびりと質素な生活をしているが、その実美食家四天王の1人だ。この時代、彼の名前を知らない人は居ない。特にIGOに勤めている人で知らないと言える人の方が少数派だし何より、ココには女性のファンが多い。明るみに出たら何が起こるか分かったものじゃない。当然、SNSなんて以ての外。勧められるまま登録したマイページにもクラルは、周囲の様にダーリンハニーな投稿なんてしていない。だからはぐらかした。

「そう言う、事ではありません。……調教獣達の事が心配なだけです」

 こうも続けて肩を竦ませた。

「来月の終わりに、長いお休みを頂きますから」
 
 同僚は、ふうん、と、空返事をした。あーそっか、次、クラルの番か。なんてぼやいて、つまらなそうにコーヒを飲んで、色好く焼けたクッキーをひとくち齧る。
 クッキーはユーグレナと、美肌に効く新成分が入っているらしい食材企画部の試作品で、カフェテリアの入り口で配られていた。クラルも簡素なアンケートと一緒に受け取った。一般へ向けた商品化の為、意見を集計しているから必ず書いて欲しいと言われたのに、手元にはもうティーサーバーから取ったルイボスティーしかなくて、食べた気はするけれど考え事のおかげで味さえ覚えていない。
 覚えていることは、思い出してしまう事は、ココの声、囁き、体温、感触、張り詰めた逞しさと、中で感じた指先の形。痛み。

「−−もう、」

 思わず、吐き捨てるように呟いてしまった。同僚が、また訝しむ。ほんとどうしたの?やっぱり今日のクラル、変だよ。
 咄嗟になんでもありませんと言い続けたけれど何度取り繕っても、背を正しても、昨夜自室で調べた情報が瞼の裏でちらついて離れない。性交、痛み、女性側の改善策。時には言葉を変えて閲覧したサイトの中にあった、見知らぬ誰かの一文。−−性の不一致は破局の原因になりやすい。
 正直、愕然とした。だって、クラルはココとそう言う行為が出来ずに居ても良いかもしれない、と思っていた。調べれば調べる程恥ずかしくなって、体質ならともかく、体格差なんて努力でどうにもならないと、そもそも女性の負担が大きいと知れば知るほど、セックスの決意は揺らいだ。だから思った。今まで知らなかった事ですから。この先知らなくても、今までの様に過ごせば良いだけです。ココさんだって、ご理解頂けるでしょうし……。なんて、考えた。そもそも夫でも無い男性と致すことは罪だと本にだって書いてある。どうあれ痛かったし、無理に進める事も無いと思っていた。けれど、それが少なくとも別れの兆しになるなら話は別。
 すまない。そう、眉尻を下げて申し訳ないを通り越して辛そうな声と表情で謝罪を繰り返したココの姿が浮かぶ。誘発で、頭の片隅でずっと考えていた靄が何度目かとしれない程にちらつく。静かに思う。−−やはり、あちらを、買った方が良いかしら。

 産まれて初めて直面した問題を、クラルはあの日からずっと持て余している。

 




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