悩み
数日後。夜が深まった所員寮の一室でクラルは、スプーンをとりこぼした。銀色の匙は陶器の美しいデザートボウルに落ちて、硬く澄んだ音が焦りを誘発させる。
まあ、そもそも焦ったからこそ、落としてしまったのだけれど。
「ちょっと、クラル動揺しすぎだし」
「そんなにあたふたすることないじゃない。誰だって、通る道よー?」
急いでスプーンを持ち直し、けたけた笑う友人達を睨みすえる。
「おふたりとも……」
「あんたが睨んだところで、」
「ぜんっぜんこわくないし」
ねー?なんて。息ぴったりに笑う彼女達、リンとマリアを前にクラルは肩を落とした。あなた方、いつの間にそんなに仲良くなったのですか。なんて、ため息もついでに漏らす。
ココの家へとお泊まりをして幾日か経った今夜は、リンの部屋で彼女ご要望のパジャマパーティー真っ只中だった。クラルだけは明日はお昼から研究室勤務の予定があるから無茶はできないかもしれないが、夜遅くまで起きていてもさほど問題はないだろう。
「それで、どうなのよ」
ないはず、だった。さっきまでは。3人で上階のスパ施設へ、行って、カフェテリアでアイスを買って、部屋で温かくなった体をまったりと冷まして時折、談笑していた。穏やかながらも華やいだままいつも通り進むと思っていた。さっきまで、は。
「え?」
マリアの言葉にもう一度目をまたたかせれば、クッションを抱えたままアイスキャンディを舐めるリンが、クラルの真横で呆れた顔をする。
「え?じゃねーし。ココと、どこまでいってんだしって、はーなーし」
ペールイエローのレモンフレーバーが、指揮棒の様に上下に振れる。
「ど、どこって……」
一瞬、はぐらかしの案が浮かんだ。美術館やミュージアム、あと最近、大きな公園でピクニックしましたよー。なんて。でも、無理だった。
「デート場所、羅列するなんてくだんないこと聞いてんじゃないわよ?」
鼻を鳴らすマリアに、先手を打たれた。「え?いくらクラルでもそんな事くらいわかるし。ねえ?」「わかった上ではぐらかすのよ。この子。ねえ?」さすが、学生時代からの親友。とん。と、持っていたロックグラスをテーブルへ置く様は軽い威圧感を感じさせる。全てまるっと、お見通し。
であれば、クラルが口にするのは、これしかない。
「……このお話、やめません?」
正直な、お願い。
「やーよ」
即刻却下された。
「リ、リンちゃんは、ココさんと幼馴染というか、ご家族みたいな関係でしょう?あまりに、不適切では……」
ならば、後はこれ。もう1人の友人であるリンはココと古い付き合いだし、ココの方が7つも歳上とあって彼女の兄共々面倒を見てもらったらしい的な事を以前聞いた。で、あれば……そんな、身近なお兄さんの猥談なんて聞きたくない、
「不適切って?何がだし?」
事もないらしい。綺麗な青い瞳があっけらかんとクラルを見つめる。
「別にうち、ココのこと何とも思ってねーし。それより……あんなかで1番澄ましてたココが、クラルの前でどんなんか、が、気になるってゆーか……うちとトリコのときの参考にしたいってゆーか!」
トリコ、と言うのはリンの想い人だ。確かに以前挨拶した彼とココは、体格が似ていた。屈強で、肩幅が広く筋肉隆々で、仰ぐほどの長身。寧ろその面では、トリコの方が大きくあった。
空想で照れ始めたリンの真横でため息代わりに唇を噛む。そう言う、事ですか。
「別に、お変わりありませんし……」
「変わる変わんないは良いのよ。聞きたいのは、誰だって、思うこと」
がっ。大きく椅子を鳴らし、マリアが近づいてきた。意味深な笑みを見せて、前のめりになって目の前で、頬杖をつく。じっと、クラルを見つめて、ニヤついたまま、
「セックス、どうなの?痛く無かった?」
「――マリアっ!」
クラルは、激しく動揺した。
「心配して言ってるのよ?だって、ココって体格大きいから……見るからに、あれじゃない?」
「あれ、って……」
「やだー、そんなの、乙女のいたいけな口からは言えないわ」
「………」
いたいけ、率先して話題を作っているくせに、何を言うのかしら。なんて気持ち一杯に、マリアを睨み据える。暫く、沈黙が流れる。かと思えば
「良いローション知ってるから、メーカー、あんたのモバイルに送っておくわね。メープルで作られて、食べれるのよ」
「ろ……っ、」
爆弾が再び投下されて、クラルは大声で叫んだ。
「必要、ありません!」
マリアとリンはその反応にもう一度、楽しそうに愉快そうにけたけたと笑う。
――それにしても。ふと、マリアは思う。目の前でむっつりと臍を曲げてしまったクラルはソファの上で膝を抱え、デザートボウルに山と盛られたアイスを黙々と口に運んでいる。
長い髪を耳にかけて真っすぐに下ろしている彼女は首筋から、子供の時には比べ物にならないくらいの色香を発していた。てろんとしたピケのナイトウェアはセクシーとは遠く、慎ましいように見えるのに、その襟ぐりから覗く薄桃がさしたベージュの色。成熟の変化とはまた違う、柔らかくて、甘そうに匂い立ちそうなのに張りのある肌。しみじしみと、感じる。
「あんた、色っぽくなったわよ」
「――え?」
「だから心配してるの」
「心配?」
腕を組んだマリアの真剣さに反応を示したのは、リンだった。
「うち、ココだったらンな心配する事もないと思うし」
クラルと同じソファの、でも手摺に背を預けた山座りの姿勢で、テーブル代わりにした膝の上のデザートボウルからアイスをつつく彼女は首を傾げて続ける。
「だって、クラルが20歳になる迄我慢してたとか!どんだけって話だしー」
からから。短く清潔な黒髪を揺らして快活に笑う。クラルの顔がさっと赤くなり、リンへ向く。眉間を険しくさせて、唇を戦慄かせて、「リン、ちゃんっ」この話題はもう食傷気味とでも言わんばかりにしている。
クラルは頑固で、どこか潔癖だ。あんまり揶揄いすぎると臍を曲げて暫く口をきいてくれなくなる。マリアは分かっていたから、話を続ける事にした。
「まあ、あいつの気遣いはともかくとして」
脳裏に、親友の恋人を思い描いてみる。長身で、屈強で、動きについていこうとする衣服は時折窮屈そうに繊維を伸び縮みさせていた、黒髪の美丈夫。いつも涼しい、を通り越して整い過ぎた横顔は他を寄せ付けないくらいに凛とした眼差しを見せているのに、クラルが彼の視野角へとことこ現れればたちまちに、軟化して、お互いふわふわと幸せそうになってその変化が吹き出したくなるくらい面白いのだ。いつかにマリアはサニーとそれについて話した事がある。顔を突き合わせて、ココの視線には肩を竦ませてみたけれどまた、くくくくっと笑って、マリアは後でサニーと2人、ココをこう評した。
「どんなに紳士ぶってても、所詮中身は雄なのよ」
「雄、って」
そんな言い方、と言う呆れ半分、もういい加減にして。と言う憤り半分でクラルが肩を落とす。気付きながらもマリアは止めない。
「あんた、色っぽくなったから。知ってる?色気って、フェロモンなのよ。個人の免疫機能や女性特有の4つのホルモンから誘発されて、異性を引き寄せる特別な香料。まあ、あんた等には釈迦の耳に説法でしょうけど、そう言うのって本能に訴えてくるのよね。男にね、命令するの」
「めい、れいって……」
何の話を、なさるの? 言い淀んだ言外にその気配をのせてクラルが呟く。
「決まってるじゃない」
肩を竦ませたマリアに、リンも耳を傾けている。
「私に溺れて、私だけを愛して、感じさせて――他の女なんて許さない。って、蹂躙の命令」
マリアの、良く通る声が部屋に緊張の糸を張った。張りつめるその一本を一番に指で弾くのは当然、マリアだ。
「そういうのって、男にとってはとても強力な媚薬よ。しかも惚れた女性から感じ取ったら尚更。それが……」やや、声を潜めて「クラルみたいな、セクシーさとは一見無縁そうな子だったら……どうなる事かしらね。特にココって、内面は、雰囲気と違って肉食系っぽいし」
「にくしょく……」
「あー分かる、し。ココってけっこー好戦的だし」
「そ、そうなの……?」
「うんー……あれ?クラル、ココの戦ってる所、見た頃ないし?」
「一度だけ、ですがあの日は私も動転していて記憶が薄いですし、その後はそもそも、お見かけする機会もありませんから」
「そっか、今ココ占い師だ」
「はい。とても良く当たると、人気でいらっしゃいますよ」
「ま、そう言う事だから」
ぱんっ。胸の前で手を合わせて、マリアはかき鳴らされだした弦を集めた。
改めてクラルを見る。真っ直ぐにマリアへと移ったその鳶色の瞳にはさっき迄の呆れも、ほんの少しの苛立も完全にその顔からは消え去ってただ、好奇心が映り始めている。
「心配、してるの」
その濃い色合いにむかって、とびきりの笑顔を口元に乗せて、続ける。
「ココの体って、大きいから。きっと彼のコックさんもご大層でしょ?そんなのでクラル蹂躙されたら壊れちゃいそうで……」
「マリア、下品ですよ」
「ここは礼拝堂じゃないもの、構わないわ」
肩をすくめる。
「で、どうだったの?痛くなかった?大丈夫?」
「マリア……もう、リンちゃん……」
「ねえ、ココのコックって、どう言う意味だし?ココ、パートナー作ってねえはずだし」
「ええ………」
避けられない話題に絶望を見せだしたクラルに、マリアはきれいな声で笑った。テーブルから飲みかけのウィスキーが揺れるグラスを手に取る。
「ほら、白状しちゃいなさいよ」
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友人達が失望するのを、クラルは知っていた。だから言えなかったと言うよりも、言いたくなかった。
「……マジ?」
たっぷりとした沈黙の後、唇を動かしたのはリンだった。吐き出されたその2語は彼女の中でしっかりと吟味された単語だったのだろう。血の気が引いた顔に、気圧されそうな動揺が見え隠れしている。
「……それは、予想外よ」
ウィスキーグラスに唇を付けるマリアの表情は呆れ半分、不可解半分と言った風体だった。クラルは、たたまれず、残り少なかった手持ちのアイスをさっと掻き込んで立ち上がり、キッチンへと持っていくついでのように、
「仕方ないでしょう。ココさん、大きいのですから」
言って、言葉の少なさに後悔して、赤くなった顔のままシンクの前へと足早に進んだ。
そんなに驚く事ないわ。手に着いた泡を漱ぎながらクラルは思う。
マリアも言っていた通り、ココの体格は規格外だ。世界各国で探せば似た様な背格好の男性はぽつぽつ出てくる気もするが、一国に何人もいると言う事はない。背が高くて、筋肉質で、美食屋として訓練されたその肉体は手指さえも大きく、逞しい。クラルの指二本分が彼の指一本だ。初めて指を絡めて手を繋いだ時はあまり違いにお互いに驚いて、笑った。折ってしまいそうで怖いよ。そう、言ったココはその時手に力を込めなかった。本心で思ったのだろう。
「クラルー……」
カランを捻った所で、背後からリンの声が聞こえた。
「大丈夫よ。初めは……そんなもんなんだから。慣れるまで、よ」
控え目なマリアの声も聞こえて来る。
はあ、と溜め息を吐いてクラルはキッチンの入り口に目を向けた。ふたつの顔が並んで、伺うようにクラルを見ている。
「……本当に、そう思いますか?」
クラルは気持ちを抑えて近くのタオルで濡れた手を拭く。手についた水滴はさっと繊維に吸収されてなくなって、皮膚は乾いてく。
「マリアの、仰る通りよ。ココさん、背もお体も大きくて逞しくいらっしゃるから」
「……うん」
そっと、2人がキッチンへと入って来る。そそそ、と、クラルへ気遣いながら、相槌を打ちつつリンとマリアはクラルを挟む形で傍へと立つ。背中に手を添えて、静かに、優しく。
「分かっていましたけれど、私……」
「うん、うん」
「しかたないわよ」
そこが床でも構わずに、3人は座り込んだ。カップの洗浄でフローリングへ水が僅かに滴ったけれど、薄い麻のマットのおかげで彼女達へ伝わる事はない。その上で、クラルは膝を抱えた。折り曲げた足のてっぺんの、その皿に触れる自身の指を見つめたままゆっくりと続ける。
「恐らく、凄く優しくしていただけたのだと思います。お互いに、緊張もしていましたけれど、ココさん、いつも以上に、気を遣って下さって」
「ココ、らしいし」
リンの相槌に、小さく頷く。そう、ココさんらしかったわ。心の中で呟く。
「それなのに……」
「クラル」
優しくて、愛情深かった。だからもしかしたら彼は驚いたかもしれない。傷つけたかもしれない。そう思うとクラルは居たたまれなくて胸が痛くなる。
「指、だけでしたのに」
「クラル……」
マリアの手が肩に置かれ、労るようにその場を擦る。大丈夫よ。そう言うように。クラルは、そっと息をついた。心配そうに覗き込んでくれる2人を真っすぐに見て、悲壮に、
「痛かったの。凄く。我慢できないくらいにもう、本当に……すごく」
付き合っているのに。愛し合っているのに。彼が唯一無二だと、思っているのに。先日突きつけられた体格差と言う現実にクラルは絶望した。どうして、だって、愛しているのに。覚悟だって、決めた。なのに、「私、何がいけなかったのかしら……」ココの総てが規格外という考えは、排斥して、膝小僧に額を擦り付けた。