発端

「本当に……良いのかい?」

 少し上擦って響くココの低い声にクラルも、緊張の色をより濃くした。寝台の縁。少し皺のある、けれど清潔なシーツ。その上に腰掛ける彼の逞しい膝の上へと手を引かれ、静かに、見つめあう。
 時刻は午後の8時半。夕立に出会ってしまった日。濡れた衣類を乾かそうと案内されたココの家の、飴色ランプが小さく灯る寝室の寝具の上でクラルは、決意していた。

「……はい」

 たった一言なのに。ひどくか細い声しかでなかった。
 何に対してのお伺いなのか、分かっているからこそ、鼓動がより速くなって胸が痛いのに、不思議とそれが、心地いい。

「お願い、します」
「……それ、僕の台詞だから」

 困ったように、ココが笑う。美しいまなじりに薄い線を引いて、男らしい手の指先でクラルの頬に触れる。腰に回された腕も強さを増し、抱き込まれる様に彼へと引き寄せられる。思わず、強張りかけた肩の力を、意識して抜いた。
 顔に影が差す。鼻先が触れ合う手前で瞼を閉じる。唇が、重なる。

 クラルはわかっていた。ココに、自分はずっと求められていた事。分かっていた。ココだって男で、しかも20代の盛りを迎えている。クラルも少し前に20歳になった。お互いに若く、瑞々しい体を認識して知識も馴染み始めた時期だ。触れるだけでその微熱に陶酔を覚えてしまっても、コミュニケーションの先を期待してしまっても可笑しくない。
 そもそも付き合いを始めてそれなりの月日が経とうとしている。ココの体質上の懸念をお互いに考慮したりしたがそれまで手を繋いだり、キスをしたり、案外と普通の恋人たちの様な事をしていた。特異性との付き合い方が分かってきた頃には彼の家にも泊まりにいった。
 ラブシーンのすごい映画をリビングのソファの上でうっかり見てしまった日もある。あの時、互いに照れ笑ったものの握り合っていた手がとても汗ばんでしまった事を、クラルはキスの影で思い出していた。テレビから流れる睦み合いの音の中、不自然な沈黙が、掌の体温が、不意に絡み合った視線の、ココの美しい黒檀色の瞳の熱量が、なによりも雄弁だった。やがて引き合うようにはじまった口づけはいつしか深く舌先を交じらせて擦りあい、(まるで、テレビジョンの2人に呼応するように)熱を高まらせた。
 体温、切り詰まる呼吸、擦り合う舌の柔らかさ、味わい、立ち昇る性の香りにお互いどうしようもなくなって、でも進むには早過ぎて、だからと言って身を引くには何もかもが手遅れで。行き場なく抱き締め合った、その日。クラルはココの、ココは、クラルの腕の力や心音で口にも出せない欲求を静かに、冷ました。
 その日を切っ掛けに、何度も、幾度も。時には深く呼吸する男の、隅々まで満たす拍動の心地良さに、大きく筋肉質な身体から与えられる安堵感に気づけば眠りに落ちてしまっていた事もある。(おはよう、と朝の陽射しの中で微笑むココの目の下に薄い隈を見つけたのは一度や二度じゃない。)
 そう思えば遅い進展なのかもしれない。自分は随分とココに我慢を敷いていた気がする。実際今日に至るまでの約1ヶ月、我慢の臨界点を迎えてしまったココはクラルとの接触を極力、避けていた。だって触れてしまうとまずかった。柔らかくて小さく瑞々しい唇や舌から、甘い花の蜜を吸い出すようなキスなんてしたらもうそのまま、押し倒してしまいそうだった。
 勿論、そうと知らなかった彼女は、嫌われてしまったかしらと思い詰めた。けれど誤解が解けた、今、お互いが行うことは、ひとつしかない。懸念は、試してみなければ分からない。

 体中の感覚を、彼へと委ねる。
 唇にはいつものように、柔らかくしっとりとした感触が恭し気に触れている。少し口の先を食んで、ちゅっ、と短い音を立て合いながら丁寧で、長く、確かな予兆をくゆらせて腰から背中へと男の手が這い上がり、深く抱き込んでくる。太ももにココの、男性的な部分が触れて思わず、喉が小さくなった。キスだけなのに、唇を数度数度と吸い合い、食み重ねているだけなのに、押し合う肉体は張り詰めて硬く、信じられない熱量を感じて、理性や羞恥の陰を有耶無耶に、する。
 お互いの髪に2人は触れ合った。口の先を何度とも分からない数、啄みあった。すんとして、温かいのに冷たい味わいに、言いようのない幸福感が湧き上がり静かに、吐息が抜ける。と、生まれた隙間へ舌先が触れてきた。
 分厚い男が狩り人のように追いかけて来る。無知な女の身体を求めて、情愛を刻もうとやってくる。クラルは承諾を言葉にする代わりにその口元をココの分厚さ分、開き、舌先をそっと食んだ。
 彼の理解は、早かった。

「ンっ……」

 鼻から艶めかしい音が抜けた。口腔内で舌が、舌によって舐られ、絡みつかれて、誘われて吸われる。抱き込まれる。「ふ、ァっ……」歯の列も、上顎も唾液腺の襞も何もかもを慈しみ撫でるように刺激されてココの胸に縋った。逞しくて大きくて張りのある厚い、ルネッサンス彫刻のような肉体。「……ふ、」静かな寝室にふたり分の呼気と薄い粘性の水音が響いて鼓膜を愛撫する。唇が濡れ合う。拍動が染み込み合う。「っ……」尾骨に繋がる脊髄のひとつひとつが溶けて、跡形も無くなってしまいそうな陶酔感。クラルは一層、ココの体に体を寄せた。このまま続けられたら、蕩けた身体の支柱は役割を無くして、足腰が動かなくなってしまう。そう、思って息が、切れ始める。

「……ぁ」

 限界が近づいたと同時に、唇が離れた。呼気が、切なげに絡んだ唾液の細い線を震わせているのが霞んだ視界に映る。ココの指先に下唇をなぞられて頬へ、頬が擦り寄る。

 切望の呼気が耳へ触れ、体が震えた。静かに体重をかけられ、押し倒されクラルは、少しだけ吐息を零した。呼吸をすればマットレスが、深く沈んだ。見上げたココの向こうに、見慣れ始めた天井があった。

「クラルちゃん……」

 クラル、ちゃん。その呼び方には初め、子供扱いを受けているような印象を抱いて僅かに寂寞としたけれど今は、熱の声色に鼓動を忙しなくされる。切迫したココの唇が、クラルの耳元へ触れる。

「愛してる」
「……ココさん」

 大きな掌が熱のある動きでクラルの腰のラインを下る。その静々とした確かめと、高い熱の気配。
 ひくん、と身が震えた。
 ココの鼻先が後ろ髪を割り開いて首筋に、唇が押してられる。彼の吐息を感じて口から息が薄く漏れる。はずかしくて口を噤みそうになる。でも、答えた。

「私も……愛して、います」
「ああ……」

 唇の感触が首の後ろから前へ流れて、鎖骨へと吸い付く。

「……あっ」

 背筋に響く触れ方に思わず艶声があがった。自身でも初めて聞く声だった。仰け反った頭の下でピローが形を変える。胸や腰や足の間に彼の硬い重さに熱を感じ、臍の疼きが恥丘をくすぐる。はしたない。そう、思って咄嗟に唇を掌で覆おうとした。
 無理だった。
 ココの、腰をなぞらない手がもの言わず、クラルの手を取って指を絡める。大きくて硬い掌に潜む雄の力量を察して、体は力をなくしていく。頬に触れる暗色の毛髪はほんの少し固くて、

「聞かせてよ……」

 清潔で清々しいソープの香りが囁きとくすぶる。指先が分厚い質感を伴って衣服の隙間を開き、皮膚に触れる。もう一度、声が漏れる。

「可愛い」
「そっ……」

 ひくん。
 震えた身体がもう一度ココの肌とぶつかった。はちはちと、大きい男性の肉体は張り詰めて、鼓動が深く染み込んでくる。息を吸えば彼の、香りに支配される。頬が熱い。膨らんだ胸の奥が苦しいほどに煩い。
 ココの指先が、ゆったりと大きなシャツの下でクラルの、太腿の外側に触れてその柔らかさや張りを確かめるように進んでいる。彼から借りた分厚い生地の裾が捲り上がっていく。素肌が、見え始める。
 飴色の光の中、自身を組み敷く恋人の手によって1枚しかない衣服が剥ぎ取られていく様子は、なんと言うか、覚悟をしていても羞恥で全身が萎縮してしまう。脚が、付け根の線が、丸みが見えて肌に風が触れる。嘘、見えちゃう、見られてしまう、ココさんに私の、私の、からだ。不意に恥ずかしさが目眩を寄越してクラルは、瞼を硬く閉じた。

「あ、そうか……」

 ふと、ココが呟いた。

「すまない、気付かなくて」

 謝罪の言葉と一緒に照明が、息を吹き消すように落ちる。
 目を、開いた。真っ暗闇が、辺りに満ちていた。

「ありがとう、ございます」

 締め切ったカーテンが月明かりを拒んでいる。隙間から辛うじて差し込む光はあるものの、それさえも頼りなく、おかげでクラルには一寸先の視界さえも怪しい。
 ただ、それはココには当てはまらないとクラルは分かっていた。彼は以前に教えてくれた。クラルへ、少し口ごもりながら、視力が良すぎる事。それはピント調節機能が卓越していると言うよりも、細胞数の数が常人の何倍にも及んでいるからこその、恩恵だと言う事。お陰で、認識できる可視光線が多く、闇夜は映像でしか見た事がないと言う、こと。

「いや……」

 歯切れの悪いココの声に、それでもクラルは、安堵した。自分はいっぱいいっぱなのに、彼は気遣って下さる。羞恥に震えてしまわないように、足りない部分を、補ってくれる。
 例えようのない愛しさが、胸の奥からせり上がる。手探りで、彼の輪郭に、触れた。

「……ココさん、」
「ああ……」

 暗い中。マットレスが軋み、ココの唇が頬にあたる。

「大丈夫だから、リラックス、してて……」

 ほの熱い疼きが、期待が、触れた場所から滲み、増えていく。

「うんと優しく、する」

 ココの低語に、クラルは思わず脚を擦り合わせ、ココの後ろ髪に両手を絡めた。

「……はい」

 声が震えて、上手く言葉が出ない。でも幸せで嬉しくて、頬は緩んでいく。いちばん初めに知る男性がこの人で良かったと、しみじみ思う。大丈夫、この方なら。ココさんが何であろうと、愛おしい。
 額が擦り合わさった。ざらりと絡む前髪に擽ったさを感じて、ふふ。と、笑ってしまったの唇をもう一度、ココの唇で、塞がれる。
 暗闇で与えられる口づけは、先ほどよりも感覚が鋭く研ぎすまされる。リップノイズをたてて吸われ、弱く吸い返せ頬に触れた彼の指先に力が籠った。1度離れ、見つめ合い、角度を変えて次は舌先が口腔内に滑り込んで、絡め合う。丁寧な愛撫に体が先程より深く火照っていく。熱情と、多幸感。「ふ……っ」背が撓り、胸が合わさる。
 硬く逞しい男性の感触。鞭のようにしなやかな肉質に腰が疼いてクラルは、その背中に回していた腕にもう一度力を込めた。視界を塞ぐ暗い夜の中では、体で感じる感覚だけがココの総てで、その総てから彼の感情が霰もなく流れ込んで、満たされる。

「−−っ……」

 頬に充てられていた手が下っていく。女の体の線や柔らかさを知りたがるように、ゆっくりと、慎重に、無骨で熱い手がずれかけていた衣服の裾に触れ、たくし上げられた。唇が離れ鎖骨の窪みへ下る。

「……ぁっ」

 乳房が衣服からこぼれ出たのを、布ずれと素肌で感じる空気の嘗めりで知った。「……っ、付けて、なかったんだ、な」ココの影が震え、息を飲む気配が空気に溶けて伝わってくる。2人ぶんの荒い息が夜の静けさに深く、広がる。クラルの喉は無意識に鳴った。鼓動が打ちなる。指先で掴んでいたココのシャツを握り込む。

「服は全て、乾燥機に、いれてますからその……、」
「……あぁ」

 男の唇が戸惑いがちに、胸の付け根に触れた。声が零れた口元から、緊張で打ち鳴る心臓が飛び出しそうだ。

「そう、だったね……」

 クラルは、午後の夕立を思い出し、口を引き結んだ。自分だけじゃなくココも、しとどに濡れていた。駆け込んだ軒先で雨露を含んで色が濃くなったターバンを外し、鴉の濡れ羽のような短い髪を掻き上げ困ったように微笑んだ彼の、太い首筋から鎖骨へと流れたふっくらとした水滴。逞しい身体に張り付いた服の皺、影。
 やがて家へと案内され、服が乾くまで着ててくれ。と、濡れ鼠へと手渡された大きな衣服。それが、今、彼自身に脱がされていく。襟ぐりから顔を抜き、髪を流れて、ベッドの端へと落とされる。

「君の身体、凄く、綺麗だ……」

 胸が鳴った。

「……あまり、ご覧に、ならないでください」

 見つめられている。気付いて、一糸も纏わない身体を縮こませた。恥ずかしい。口の中が潤っている。

「じゃあ、こうしよう」

 不意に、ココの体が離れた。暗闇の中でベッドが軋む。「ココさん……?」離れた体温が恋しくて、目を凝らし自身を跨ぐ大きなシルエットへと手を伸ばした。灯りに頼れない世界は、心細く、大胆にさせる。「如何、なさいました?」指先が直ぐ自分とは違う感触の肌に触れた。しっとりと硬く、筋肉の張り詰めた触り。え? クラルは掌をそのまま当てた。引き締まっている滑らかな肌に、窪み。高い体温。上から、短い忍笑いが聞こえて、「本当に、小さい手だな」独り言のような囁き。身動ぐ気配に続き、布が空気を押す音が響く。ばさり。
 そこで、気付いた。あ、ココさんの……お腹。影が再び、迫ってくる。指先が、背筋へと滑る。

「……これで、お相子だね」

 裸の胸に張り詰めた男の肌が、固い筋肉の感触が重なった。やがて、ココの顔が、しっかりとした首と肩の形が、喉仏に鎖骨の窪みに胸元の総てが、薄っすらと見え始める。顔の真横に腕がある。視神経が状況に慣れ、僅かな月明かりに頼り始めたのかもしれない。薄墨の視界の中、美しい造形の中でいっとう輝く虹彩は相変わらず情欲に濡れているのにその眼差しは相変わらず、クラルを想って優しい。優しくて、美しい。

「貴方の方が、綺麗です……」

 穏やかなココの声が、吐息を零すように笑う。声に、仕草に、触れ合う素肌の感触に温もりまるでアーモンドをローストしたような香ばしい男の人の匂いにそして、薄ぼけらながらも見える優しい眼差しの虹彩に、鼓動がどんどんと増えていく。

「少しでも痛みを感じたら、我慢しないで、言ってくれ」

 額と前髪の境を恭しげになぞる指の先まで愛おしくなる。自身の体を覆いつくすほどに大きな身体にのしかかられている事も、その厳つい威圧感さえも。

 クラルは、頷き、声にこぼすか零さないかの声でココを呼んだ。

「クラルちゃん……」

 情愛を隠そうともしない瞳、繊細に配置された艶のある睫毛の奥で、火照りを抑えた眼差しがくらくらと揺れている。形の綺麗な、彫りの深い目元、額、鼻筋。ゆっくりと頬骨の上へ指先を寄せるクラルも、ココと同じ様に微笑む。
 その口元に、支柱を溶かすまでにあついキスが再びやってきて、乳房にココの指先が、触れ始める。「−−んっ」眉間が寄る刺激に溢れた声は彼の口の中でだけで響く。

 両手の指にゆっくりと、性感を刺激される。柔らかな丸みを丁寧な動きで揉みしだかれてそっと摘まれやがて、舐られ食まれ、吸われたまま舌技を与えられてクラルは、堪えきれない声を断続的に零した。臍の奥から湧き始めた疼きに、感じたことの無い感覚に、汗ばみ始めた肌に戸惑ってでも、身体の隅々まで触れてくるココの指や唇が、「愛してるよ。愛してる……愛してる」「−−ココ、さ……っ」惜しみない愛の言葉が嬉しくて、それは凪いだ海辺に佇むようで、心地良かった。





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