その青色に包まれて | ナノ
5
反射的に来てしまったのは、自分の家ではなく、屋上だった。粉々であろう元クッキーの袋を握りしめながら、空を見上げる。
いつも見ている青色は、今はもう薄くオレンジがかっている。
頬を濡らす涙を雑に払い、痛む胸を押さえてみる。
こんなはずじゃなかった。担任のアドバイス通りに自分から動くことを決意して、アオさんにお礼をするためにクッキーを作り、クラスメートに自分から挨拶して、心は清々しさで一杯だった。放課後にアオさんにお礼を言ってクッキーを食べて貰って楽しく会話をする筈だった。なのに、何で俺は泣いているのだ。
俺が初めてここのマンションに来たとき、俺がアオさんを見たのは屋上で出会うより少し前のことだ。
前と言っても、本当に数分前ってくらい。いつもより高い位置で見る空は綺麗で澄んでいた。空に見惚れていると、どこからか視線を感じて一瞬だけそちらの方に目を向けた。そこで俺を見ていたのがアオさんだ。最初はただ、何もせずに俺を見ていた。身動きせずにこちらを見てくる彼が不思議どったが、いきなりハッとしたようにその場から走り出したアオさん。そして、数十秒後、俺たちは出会う事になる。
『君、何してるの!?』
『うわぁ!』
いきなり聞こえた声に驚いてひっくり返れば、逆さまの、さっき目のあった彼。綺麗な顔をしたその人は、慌てて近付くと、ひっくり返った俺を立たせて、馬鹿な事をするなと叱った。
『飛び降りようとしたの?』
『いや』
『落ち着こう、ね?ほら、とりあえず座って』
立たせたのはアンタだろ、と思いながらも、きっと落ち着かなきゃいけないのは俺だけじゃないな、と座り込んだ。
『おれ、えーと、俺の名前は、平塚イツム』
俺の目の前に座った男性の綺麗な二重瞼に埋め込まれている瞳に釘付けになりながら、無意識に自己紹介。
俺は自分の名前が嫌いだった。どう考えても現状の俺には当てはまらなくて、名前負けなんてどころじゃなかった。むしろ、名前のせいで俺は寂しい思いをしているんじゃないかとさえ思った。名前が呼ばれないことに嘆きはしたけど、自分の名前を見る度に溜め息をつきたくなっていたのも、事実だ。
そんな名前を初対面のアオさんに教えた俺は、本能で彼に賭けていたのかもしれない。何をと聞かれても答えられないけれど、それくらい、俺は出会ったばかりの彼に惹かれていたのだと思う。
本当は飛び降り自殺がしたい訳じゃなかった。だって俺は、別にいじめられてるわけじゃないんだ。ただの寂しがり屋。おれが屋上に度々行く理由は、他でもない。
俺を止める前の数分間、アオさんが俺のことを見つめてくれるから。自意識過剰とかじゃなくて、アオさんは俺を止めに来る前の数分間、俺のことを見つめてくれる。俺はそれを知らないフリして空を見上げた。
アオさんがどんな気持ちで俺の事を見つめてから慌てたように駆けつけてくるのかは分からない。またかよ面等くさいな、と思われていたのかもしれない。だけど、アオさんの瞳が俺に向いていると思うと堪らなく気持ちが良かった。そのとき感じた快楽は、いつか俺が家族に空の絵を見せて褒められた時のものを上回るほどだ。
そして苦しい心臓。走ったからではなく、アオさんとあの女性を見てからぎりりと軋んで悲鳴をあげている。多分、俺は、アオさんのことが…
「っイツム君!!」
「っ、え…?」
がちゃりと音がして、振り向くよりも先に体を包む体温に、思わず声を漏らした。
なんでここにいるんだ。だって、さっきまであの女性といたじゃないか。なんで。
「ア、オさ」
「駄目だよ」
走ってきた証拠である荒い息が首もとにあたり、擽ったさに身を捩れば、制止の声がかかる。動くな、とでも言いたげだ。
「アオさん、離して」
「駄目だよ、駄目」
「なんで」
「だってイツム君…」
本当に飛び降りようとしたでしょ。耳元でそう言われて、体を強ばらせた。
どうして分かったんだ。
さっき二人を見たとき、なんかもう駄目だと思った。もうアオさんが埋められてしまったって。そしたら、びっくりするほど簡単に足が進んでしまった。
とりあえず座ろう、と出会った時と同じようなことを、随分と穏やかな声で言われて腰を下ろす。だけど腕を引っ張られてまたアオさんの腕の中に収まった。
「ちょ、アオさん…?」
ここまでのアオさんの行動が読めず、混乱した声を上げる。振り返ろうにも腹に回る長い腕が強く俺を捕まえているので、体を捻ることも許されない。
諦めて体から力を抜いたところで、実はね、とアオさんが話し始める。
「家に帰ってすぐ、窓からイツム君を見かけたんだ。驚いたよ、放課後に見かけることなんてなかったから」
「それは…」
クッキーを届けるために寄った訳だから。まぁ、失敗したけど。
だけど、なんでそれだけで俺が自殺する気だと思ったのだろう。いや、当たってるけど。
「だけど、いつもと様子が違っていて…」
「そんなことないです」
「イツム君、凄い思い詰めた表情で泣いてたじゃん」
俺の頬を撫でたアオさんの指先が濡れて「泣いてたじゃなくて、泣いてる、だね」と続けられて、堪えていた嗚咽が漏れた。
何でそんなに優しく触れてくるんだ。
俺が何で泣いてるか分からない癖に。
「だってアオさんが…」
「俺…?」
アオさんが背後で不思議そうに首を傾げているのが分かる。
ああ、違う。こんなの言うつもりはないんだ。言ったって、アオさんを困らせるだけなんだ。
「さっき女の人と…」
分かってるけど、馬鹿な俺は自分の口を止める術が分からない。言ってはいけないことを言いそうになる自分に混乱しながらも、その先を紡ぐ。
「俺それ見て、なんか…うわっ!」
「イツム君」
胸の内をすべてさらけ出す前に、アオさんの腕の力が強くなった。抱き込まれる形になって声を上げるが、アオさんはお構いなしにぎゅうぎゅうと抱きついてくる。なんだっていうんだ。
「アオさん?」
理解し難い行動をとられると、混乱しか出来ない。俺は馬鹿なんだ。状況を理解するのにかなりの時間がかかるし、そもそも理解できない時が多い。
流石に苦しくて、身を捩る。今度は力が緩まって体を動かす事が出来た。もぞもぞと腕の中で動いてアオさんと向き合う。
「…っ」
優しげに細められた瞳と目が合って、思わず息を飲んだ。そのままぐっと背中に回る腕に力が込められ、その距離はもっと近くなる。
「ねぇ、イツム君、俺とあの女の人を見てここへ走ってきたの?ショックで?」
「え、あ…」
「ここ、苦しかったの?」
トン、と綺麗な指先が俺の心臓を叩いてくる。思わず頷けば、目の前の目が更に細められる。
「この涙も、俺のせい?」
つぅー、と俺の涙袋を撫でる指先にも頷いた。そうだ。アオさんのせいだ。あんなに仲が良さそうだったから。
「…かわいい」
少し責めるように見つめれば、アオさんが両腕を俺の背中に回す。見つめてくる綺麗な瞳は、俺に魔法をかけるような妖しさがある。
言ってもいいよ、と。
「アオさん…」
俺はアオさんの白い頬に手を伸ばした。そっと触れてみても、アオさんは微笑みを崩さない。良かった、拒絶されなかった。
そのままアオさんの、青い瞳を覗き込んだ。
「俺、アオさんが好き」
アオさんの瞳は青い。
初めて見たとき、俺はその瞳に吸い込まれるかと思った。
窓から俺を見つめるその青が美しすぎて、もっと近付きたいと思った。空のように青い瞳を持つ彼ならら、俺を受け止めて、包み込んでくれると思ったんだ。
そして足を踏み出したところで、彼は我に返ったように俺の所まで走ってきた。自分の足下を見れば、あと一歩踏み出せば落ちてしまう程無意識に歩き出していた。そうだ、その青に落ちれば俺は包まれるのだと思っていたんだ。
アオさんは、アオさんという名前ではない。初対面の自己紹介の時、彼は名前を名乗ってくれたにも関わらず、俺はアオさんと呼んだ。
アオさんのお祖父さんがアメリカ人なのだそうだ。これも初めて会ったときに首を傾げていた俺に教えてくれた。
それから、空を見上げるフリをしながらその青を眺めた。そして、我に返って焦りながら俺を止めに来るアオさんを待った。息を切らして俺を見つめてくる直接的な視線が心地良かった。死ぬ気なんてなかったけど、どうしても彼に見つめられたくて、屋上の淵で空を見上げた。
「俺、アオさんに見つめられたくて、ここに来てた」
両手で頬を包み込みながら告げれば、少し驚いたような表情を見せた後、アオさんは嬉しそうに俺の背中に力を込めた。
「嬉しい。俺も好きだよ」
その言葉に、俺は思わずアオさんの頬から手を離した。嬉しくて胸が熱くなる。本当は思いきり彼に抱きつきたい。でも、
「でも、アオさんはさっきの人の…」
恋人なんじゃないの?
言いたくない言葉に、思わず唇を噛んで俯こうとすれば、指先で顎を掬われて視線がぶつかる。
「あの人は、俺の担当編集者だよ」
「え…」
「今日は大好評だった新作の続編を書かないかって言いに来たらしい」
「え、え…」
編集者?あの、「締め切り過ぎてますけど!!!先生!!!」の??…俺は何という勘違いをしていたんだ。あくまでもただの編集者だと言ったアオさんに、恥ずかしくなって自分の顔が赤くなるのを感じる。
「だけど、イツム君ったら勘違いして可愛い嫉妬までしてくれて…」
「ちょ、な!いや!してない!」
「イツム君、顔真っ赤だよ」
「〜〜っ!!アオさんなんて!!」
好きだよコンチクショー!
「ねぇイツム君、俺の名前呼んでよ」
「アオさん」
「違うでしょ」
教えたよね?綺麗な顔を傾けて笑う彼は本当に綺麗で、思わず見惚れてしまった。
ああ、俺は今、包まれているのか。俺だけを、この青色が優しく包んでくれているのか。
俺は…
「空詩(そうた)さん…好き」
名前を呼べば、青色は甘く細められる。背中に回る腕が俺を引き寄せ、首を傾けた綺麗な顔が近付いてくる。
「俺も好きだよ。愛(いつむ)君」
俺を包んだ青色は、確かに暖かかった。
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