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身体が万全では無かった最初の幾日か、碌に動くことも出来ず俺はベットの上で日がな一日本を読んでいた。女の部屋には書物が溢れていたけれど、女が所有する書物には、難解なものが多く俺が読めるものなど少なかった。適当に手に取った黒い革表紙の本は金字で知っている戯曲の題字が捺されていて何度かその芝居をみたことがあるから、これなら読めるだろうと手に取ったのだ。最初の時、装丁を開き頁を捲れば、女は揶揄う様に声を弾ませた。
「ふぅん、お前字が読めんのか」
「書くことだって出来る」
感心するようなわざとらしい物言いにむっとして応えれば女は笑った。くつくつと白い喉が鳴る。真昼の光の中にあってなおその肌は白く輝いていた。

女は昼の間はこうして俺がベットを使う事を許した。夜になり、客が来れば俺は容赦無くクローゼットに放り込まれて、客が帰り空が白けるまでの一晩俺はそこで過ごす。女は相当の売れっ子らしく、俺が拾われてから客がいなかった夜など一晩だってなかった。窓から差し込む月光に白い裸体を晒して怪し気に揺られる様などとてもこの世のものとは思えない。そんな時俺は昼間の女の顔を思い浮かべて、きっと夜と昼とは別の人間なんだと思わずにはいられなかった。

ぱたり、と本を閉じる。物語は半ばまで進んでいた。続きはまた明日読むことにしよう。女のベットは広く、そして柔らかで、いつでも肌触りの良い毛皮と、洗い立てのシーツが引いてあった。開け放たれた窓から、初夏の柔らかい風が入ってくる。俺はベットに寝転んだ侭女の方を見詰めた。桟に腰掛けて女は本を読んでいる。深い二重の目はいつだって気怠げで、長い睫毛が綺麗に瞼を縁取っている。けれど、その睫毛は上へは向かず、天から降り注ぐ光を厭う様に真直ぐに下へと伸びていた。長い睫毛が陽光に透かされて、白い肌の上に細い影を落とす。長く華奢な指先が、開け放たれた窓から入り込む風が頁の端を捲っていくのを抑えている。女は右手の指先に四つ指輪を嵌めていた。赤と青と琥珀と透明、薬指だけを避けているのは何か意味があるのだろうか。確か意味がある薬指は左手のはず、と記憶を辿る。母は左手の薬指にきらきらと光る銀の指輪をしていた。その優しい掌は俺と弟の頭を撫で、柔らかな顔が微笑みを落とす。春の光にも似たその瞬間が俺は一等大好きだった。と、そこで女は俺の視線に気が付いて顔を上げた。美しいけれど、夜に潜む黒猫の様な影と強かさを湛えた金の瞳は春の微睡みには程遠い。悪戯が成功した子供の様に揶揄いの形に唇を歪めて女は笑った。
「見惚れてたのか?」
「…っ自惚れんな!」
かっと顔にのぼった熱を隠すように手元にあったクッションを放り投げる。女は華麗にそれを交わして、クッションは綺麗な軌道を維持したまま窓の外へと飛んでいった。
「あーあ、お前が拾ってこいよ」
凡そ淑女のすることではない、口元も隠さずに手を叩いて女は大笑いした。

俺が女に拾われて半月程経ったある夜、女は珍しくクローゼットに俺を放り込まなかった。かわりに柔らかなベットに俺を寝かせて、自身と俺に毛布代わりの黒い毛皮を被せる。女がベットに潜り込んだ拍子に微かに嗅ぎ慣れた鉄錆の臭いがして俺は何故女が今夜は昼の姿の侭なのかを悟った。女は数日は客を取れない。
「おいで」
真っ白の絹のドレスワンピースを纏った女は黒い毛皮を捲ると、言葉だけで俺を手招いた。靴を床に放り投げて空いたスペースにするり、と潜り込めば女は満足気に笑う。ひんやりとしたシーツの冷たさと、寝間着替わりのサイズの大きな女物のシャツからはみ出した肌に触れる毛並みの気持ち良さに思わず頬が緩んだ。女は優しいてつきで俺の上に毛皮を被せて、額に暖かな唇を落とす。そうして、久しく誰からも言われたことのなかった言葉を囁いた。
「おやすみ」
優しい腕が俺の背中を抱き寄せる。女体の柔らかさは何処か母に似ていた。病床から起き上がることも出来なかった母は、最期に俺と弟を抱き締めた。その固く筋と骨ばかりになった身体の優しさをもう一度思い出す。一つ思い出せば次を、堰を失った記憶の渦は崩れ落ちる様に頭と心を掻き回し、とめど無く全てを溢れさした。悲しみも痛みも憎しみも全てを一緒くたにして、洪水の様に零れ落ちる。燃え落ちる屋敷、振りかざされる棒、吊られた男、深く突き刺さったナイフ、足に括られた縄、引きずろうとする牛。引き金を引いた指、笑顔と謝罪、見開かれた俺によく似た瞳、空の青。足元を見失って、落ちていく。頭を左右に大きく振っても次から次へと妄執という名の過去がやってきては、心の柔らかな部分に無遠慮に牙を立てた。やめて、やめてくれ、おれは。ガタガタと震える身体を両腕で必死に抱き締める。肌に爪先が食い込んでも、最早痛くなどなかった。汗腺が壊れたかのように脂汗が止まらない。いたい、いたい。がちがちと歯の根が噛み合わずに音を立てて震えた。忘れていた恐怖が塗り固められた闇となって俺を食べ尽くす。
「おいっ、どうした」
女の声が聞こえる。焦ったような声音と共に、身体が左右に揺さぶられる。それさえも遠く、螺旋の渦に呑み込まれていく意識は応える事も出来なかった。それでも女の腕は俺を揺さぶり続け、頬をぺちぺちと叩く。段々と強くなっていくその力は鬱陶しいようでいて、けれど確かに救いの手でもあった。泥沼から引き上げられる感覚に目眩がする。ぐらぐらと揺れる視界、漸く焦点が結ばれてぼんやりとしていた女の顔が鮮明に見えた。
「どうした」
短い言葉は多くを尋ねるものではなく、ゆるゆると首を横に振れば女は目尻を下げてそうかと微笑んだ。頭から頬へ、慈しむようにおりていく掌は優しくて、くしゃりと顔が歪んだ。目の奥がひどく熱い。しゃくりあげるように喉が鳴って、身体は震えた。
「……、………」
強張る様に頑なだった唇は戦慄いて、声さえも消え入りそうな程に微かだった。それでもどうにか最初の一言を紡げば、言葉は後から後から止めどない濁流の様にぽろぽろと口から零れ落ちた。何を話しただろう、抑も女は聞き取れただろうか。嗚咽に急き立てられた俺の言葉はきっと酷く不明瞭で、脈略のない勝手な自分語りは相手の理解を得うるものではなかったはずだった。それでも女は胸に抱いた俺の身体を離さず、時折背をあやす様に叩いては、ハスキーなアルトを出来る限り優しい音にして俺の名前を呼んだ。
「大丈夫、大丈夫、大丈夫だ…ーー…」
抱き留められた女の身体から香る麝香と煙草の匂いは俺を決して同じ過去へと誘いはしなかった。

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