3

干からびた土の様に口内はボロボロに乾いていた。柔らかい粘膜同士が張り付いて得も言われぬ不快感を生み出している。腹の奥が捻れた様な吐き気はそれらを覆う鈍痛に包まれていた。目脂がこびりついた目蓋を無理矢理に開けば、真黒の天井が飛び込んできた。眩しくて一二度瞬きをする。天井にゆらゆらと影を作っているのは、蝋燭の光だろうか。甘い香の匂いが、そこら中に満ちていて頭と鼻とを麻痺させている。ぐるり、と視線だけを巡らせれば、真黒のシーツに、真黒の天蓋。布団の代わりに掛けられていたのは上等の毛皮で、触れ合った素肌を滑らかにすべった。酷く綺麗な場所だったけれど、勿論此処が天国じゃ無いことくらい知っている。天国なんて有る筈もない。(俺は、死んだ、と思ったのに)けれど、死を運命付られていたはずの肉体は確かな感覚で以って生を主張している。漸く痛みから解放される、と僅かに安堵したことを思い出して胸中で悪態をついた。死を安易な安らぎとして迎え入れるには余りにもこの世に未練が多過ぎた。(ああ、くそ、まだ死ぬ訳にはいかねぇってのに)四肢に軽く力を入れてみたけれど、全く動く素振りを見せない。指先だけがピクピクと僅かに痙攣した。
「起きたのか」
高くもなく低くもない、ハスキーな声は抑揚を欠きそこに込められた感情を読み取る事ができなかった。視線を声の方、左へ、と向ければ黒い悪魔がいた。悪魔、というのは言葉の綾だ。その影があまりに美しかったものだから、俺はそう思ってしまったのだ。天使だと思え無かったのは、影が黒い色をしていたから。丁度ドアを押し開けた形で女が立っている。その細腕に抱えられている銀色の水盆から清潔そうな真っ白の布が半分だけ覗いていた。彼女が俺を拾って看病してくれたのだろうかーー何の為に?もし、女が俺の正体を知っていて、もし女がそれを利用しようとしていたなら。そこまで考えてあり得ない、と一蹴する。誰が路地裏に倒れた汚らしいガキを天翔ける竜の末裔だと思うだろうか。カツカツと木の床をヒールで叩いて、女は此方に近寄って来た。水盆をナイトテーブルに置き、水に浸した布を絞る。皮膚の上を優しく撫でていく柔らかな布の感触。その優しさは久しく触れた事の無いものだった。唯一自由になる視線で、女をまじまじと観察する。ドレスのデコルテを大きく開いて胸元まで晒したそのファッションは、所謂娼婦のもの、コルセットにより押し上げられた豊満な二つの膨らみを覆う肌は陶器の様に白く、その背へと流れる紫掛かった黒髪は夜空の様に艶めいている。口元は笑みを創ることなく不機嫌そうにゆがめられており、塗られた紅が蝋燭の光をぬらぬらと反射していた。
「喋れるか」
蓮っ葉な言葉遣いはその美しい外見に相反しているようで、その実何故だかしっくりときた。俺の露出した肌を粗方拭き終えた女は、布を適当に水盆へ放るとじっと此方を見下ろした。ゆらゆらと琥珀石が揺らめいている。何とか言葉を引っ張り出そうとして、喉を震わせた。が、震えたつもりになっただけで、唇からは何の文字も持たない掠れた音がひゅうひゅうと漏れただけだった。女は、はぁ、と溜息をついてその木枯らしを聞き入れると、俯いた時に落ちたその髪を掬って耳に掛けた。
「これから客が来る……なぁ、お前……あァ、喋れねぇのに動ける訳ねぇな」
言うが早いか女は俺に掛けられてあた毛皮をぞんざいに引き剥がす。その時初めて俺は自分の体が包帯とガーゼに塗れていたことを知らされた。パンツだけが辛うじて残されている。露わになった薄い胸を見下ろして、驚きと若干の恐怖を持って女の目を見詰めれば、片眉だけをぞんざいに跳ね上げて面倒臭そうに唇の端を歪めた。
「お前の服なら捨てた。あんな汚ぇ布切れ私のベットにあげてたまるか……お前みたいなちんちくりん、どうこうしようなんて思わねぇよ」
そうして、女は痩せこけた俺の身体の下に腕を通すと、いとも容易く持ち上げる。動いた拍子に身体の彼方此方が軋み、悲鳴をあげた。口から苦痛の呻きが漏れたが女はそれを無視してクローゼットに俺を押し込んだ。クローゼットの中は毛皮や絹布の海で、存外に柔らかく俺を包み込む。その中に押し込められながら、俺は女に横抱きにされるのは、自分の経験上(母親は除いて)最初で、そして最後にして欲しい、と思った。

悲鳴の様な、歓喜の様な、狂気の様なその声が鼓膜を震わしている。部屋の壁という壁を反響するそれはともすれば永遠の様に感じられた。動けない体では耳を塞ぐ事も目を覆うことも出来ない。微かに開いたクローゼットの隙間から覗き見たその行為を知識としては知っていた。生殖行為、人間が動物である兆、生存本能の証左、父母は飼ってはいなかったがそれを専門としていた奴隷がいたのも知っている。女が男に跨り、身体を揺すっている。時折激しく突き上げられて、上擦った声帯の震えと共に髪の毛が降り乱される。夜のような紫黒がばらばらと宙空に散らばった。口紅をひいた柔らかな皮膚が恐ろしい笑みをつくっている。あれは、捕食者の唇だ。倦怠に飽いた獣が往々にしてそうである様に、目の前の餌を転がしながら食らうのだ。しなやか肉に包まれた爪で優しく獲物の肉を撫でながら、逃れられない様に骨を折る。そうして存分に弄んだ後、一息に頸を噛み砕く。一際大きな悲鳴をあげて女の身体が、男の上へと崩れ落ちた。上擦ったハスキーボイスは、室内に響き渡って、そうして消える。聞こえるのは落ち着きを取り戻しつつある乱れた息遣いと、時折軋むベットの音。男の太い指が女の胸の飾りに触れ、惜しむ様に離れる。行為を終えた後の軽い戯れに女は赤い唇を歪めて笑った。啄ばむキスを繰り返す。男の背中越しに女の目が此方に向いた。クローゼットの中にいる俺を確かに見据えて、悪戯好きの子供がそうする様に、金色を弓形に撓めた。まるで上等の猫の様なその仕草に、胸が、跳ねた。


[ 6/20 ]

[*prev] [next#]




×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -