My heart in your hand. | ナノ


▼ 29

ふと目を覚まして、机に突っ伏していたことに気が付いた。伏せたまま少しの間自分がどこにいるかを考えて、寝起きの頭でようやく今日も図書室に来ていたことを思い出した。
いつの間に眠っていたのだろう。体を起こして目を擦る。窓の外はもう、すっかり暗かった。恐らくそろそろ施錠の時間になるはずだ。今日はカウンターにいた図書委員は、黙々と本の修繕に没頭している。

そんな彼の集中の妨げにならないよう、俺は静かに図書室を出た。廊下はもう暗くて静かだ。等間隔に並ぶ照明はセンサー式で、進む先からぱたぱたと明るくなっていく。
窓ガラスが鏡のようにこちらの姿を映している。どこかから時折部活動中らしい人たちの声が微かに聞こえるし学校は無人ではないのに、歩く音が響くのを聞いていると誰もいないような感覚になった。

階段を降りていき、三階に着いたところで階下の光に気が付いた。二階の階段近くに誰かがいるか通りすぎたらしい。特に気にすることもないので、ただ認識だけしてそのまま足を進める。
話し声がするな、と思った。そうして後二段で踊り場というところで、余裕のない、少し掠れた声が「好きなんです」と言うのを聞いた。
他の言葉は不明瞭だったのに、それだけがはっきりとこちらまで届いて、流石に足が止まる。平然と姿を見せていい場面でないことくらい分かる。

「―湧井、」
なんでこんなところで告白しているんだ。通れないだろうという取り留めもない思考は、小さくたった一言だけ聞こえた別の声に呑み込まれたように消えてなくなった。同時に何か、いろいろなことに思い至った気がした。
踊り場に立って、折り返した階段の下を見下ろせば、きっとそこには会長になった湧井さんが立っている。そしてもう一人は間違いなくキヨ先輩だ。あの人の声を、俺が聞き間違えるわけがない。
そして――そうだ、湧井さんはキヨ先輩に好きだと告げたのだ。

ああ、それでかと思う。湧井さんがいつか俺に向けた強い視線の理由と、強張って見えた表情の意味。
あれは全部、キヨ先輩が好きだったからだ。先輩の傍に俺がいることが彼を苛んでいたのだろう。

カーディガンの袖を、無意識に握り締めていた。気が付いて手を緩める。また袖が伸びてしまう。
こんなところで話をしているのも不思議だが、これが盗み聞きであることに変わりはない。そんなことはしたくなかった。この階段を通らなくたって、玄関には行ける。早く、離れなければ。

いつも通りの正常な思考を、キヨ先輩はなんと答えるのだろうという思いがノイズのように邪魔した。
―なんでそんなことを気にしている?
自分で訝しむ。なんと答えるかなど、俺には関係がないことだ。これは彼ら二人の話で、不可抗力ではあろうと俺が聞いていいものではない。よりによって聞かれたのが俺だと知ったら、湧井さんはひどく嫌な思いをするだろう。
分かり切っていることだ、と泣き出す前のようだった彼の顔を思い出す。

そうまで考えることが出来るのに、だから聞きたいわけではないはずなのに、どうして俺はまだ動こうとしていないのだろう。ただ息を詰めて立っている。いや、存在を悟られないようにしている時点で能動的に盗み聞きしようとしているのと同じではないか?

焦りが湧き上がってくる。まるで逃げなくてはいけないときのように心臓が脈打つ。それは恐怖にも似ていた。
理解不能の、答えを聞きたいという心理をその焦燥感がついに上回り、踵を返そうとしたその瞬間に、キヨ先輩がもう一度彼の名前を呼んだ。
それだけで、なんの拘束力もない俺に向けられたのでもないその声だけで、俺はようやく動き出そうとした足を止めてしまった。先輩は「ありがとう」と優しく言う。

「……俺では、不足ですか」
「お前がどうってわけじゃない。ただ、俺が」
静かな声を湧井さんは「言わないで」とやや強く遮った。何が続くか俺にはあまり予想がつかなかったけれど、向かい合う湧井さんは分かったのかもしれやい。

「言わないでください。―、鷹野さん」
「……なんだ?」
「、あなたを、慕う後輩の我儘を。聞いてくださいませんか。……どうか、一度だけ―」
キスをしてほしい。と密やかな声は確かに言った。


それは、王者のような男から発せられたとは思えないほど切実で思いに満ちた声で、彼が芯からキヨ先輩を想っていることを如実に窺わせた。

知らず、息を呑む。キヨ先輩がどう答えるのか予想が出来なかった。
断るだろうと思った一瞬後で、こんな健気でいじらしい願いを断れるだろうかと頭のどこかで思ってしまったから。

俺は、彼の答えを聞きたくなかった。


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